********* テキストデータ版凡例 ・書冊データから、空白・タブを削除したデータである。目次と内題は削除している。返り点はそのまま、捨て仮名はそのまま( )に付されている。正規表現を使って削除することもできるだろう。これはあくまでデータ検索などでの利用を想定した参考資料であり、引用等に際してはこちらを使わず、書冊のほうを参照されたい。 ********* はしがき及び凡例 本書は小山田与清著『松屋外集』のうち、初編二〇巻、二編七巻からなる系統の伝本を翻刻、校合して研究者・江湖好学の志に提供するものであり、巻一に続いて巻二を刊行する運びとなった。また、訓点や捨て仮名なども完全には一致せず、伝本研究の進展を今後に期すこととしたい。この翻刻では国立国会図書館本を底本として、もりおか歴史文化館本(1499)を対校本文として採用した。もりおか歴史文化館本には南部家旧蔵の『松屋外集』が他に写本二部、刊本一部が存在している。底本、対校本文については巻一のはしがきで示した程度のことしかまだ分かっていないが、小さくない異同をもつ項目もある。 翻刻の凡例を説明する。まず冒頭に私に内題と目次を示した。目次は項目番号と頁数で示した。内容は次頁以降の本文中の目次を参照されたい。翻刻は国立国会図書館本の本文に従い、字取り、返り点、捨て仮名字も忠実に翻刻するようにつとめた。割書については原則〈〉に本行と同じ文字サイズで示し、割書内の返り点も翻刻した。字形が不明瞭な字やUnicodeで定義のない字形、使用フォント(IPAmj明朝)に割当がない字については通行字体を利用した。行頭の筆の尻による圏点は「○」。和歌に付された庵点は「〽」、踊り字については字形を参照して「〻」「々」を、改丁については表裏ともに『」』を付した。丁数は墨附丁数と表裏の別を漢数字で示した。校合に際しては本文異同が認められる場合に異同を示し、アラビア数字の文末脚注を付す形で位置を示した。捨て仮名・返り点の異同も大きいが無視した。 対校においては、もりおか歴史文化館本(1499)を「も」として、かぎかっこ内に直前の文字との異同を示し、対校本文にその文字がない場合は「ナシ」と記し、底本にない文章が挿入されている場合には(追加)を末尾の線以降を校勘記として付している。長文の入れ替えが生じる場合には底本の本文と「=」で対校本文の入れ替えを示したが、巻二にはそういう事例はないようだ。対校本文の提示は底本と同じ基準で示したが、改丁については省略した。国立国会図書館本に見られる朱点などについても脚注で示した場合がある。南朝系図はいずれの伝本も朱で単線が引かれるが、印刷の都合で墨線とした。また、系図を完全に再現することは難しいので、親子関係が分かるように若干字取りを変更している。なお組版における問題により、一部返り点やカーニングに位置ずれがある他、準假名が底本と変わっている。たとえば振り仮名中の「ヿ」などの略字は「コト」で開くようにした。捨て仮名に使われる「也」はなるべく漢字で再現した。一部は漢字で示さざるを得ない箇所もあった。附属のCDには本文データ及びフィールドコートを除いたテキストデータをも付した。巻一とは行詰め字詰めが異なることを含め、丁数表記を漢数字に変更するなど体裁が異なる点もあるほかいくつか変更がある。ご寛恕を願う次第である。書名や人名の検索には便利かと思う。翻刻の許可を頂戴したもりおか歴史文化館に深く御礼申し上げる。なお、本書はJSPS科研費JP22K13040、JP21J00181の成果である。 令和六年三月十一日梅田径記 松屋外集二」(外題) (一丁空白) 松屋外集巻之二 目録 第一おほよそ衣 いざとほしゆきのよろしも肩ぬぎ 第二しらさ雲 小雲 第三よろこぶ雲 慶雲喜雲 第四ゐのこ雲 第五みづまさ雲」一オ 黒雲魚鱗雲 第六鵲の鏡 第七梁塵 第八白(シラ)木(ユ)綿(フ)幣(ミテクラ)四手(シデ)カタソギ 木(ユフ)綿麻(アサ)栲(タク)荒(アラタ)妙(ヘ)和(ニキ)妙(タヘ)玉串(タマグシ) 千木氷木(チギヒギ) 第九強盗熊坂長範 第十郢(エイ)曲(キヨク)一(ヒト)節(ヨ)切(キリ)尺(シヤク)八(ハチ)中(チユウ)啓(ケイ) 第十一經房遺書考 第十二答荒木田久守南朝系圖」一ウ 津嶋天王社1 第十三宰相大將 参議非参議八座(ヤクラ)やくらの司 もろゆき 第十四いわちどり いわけいわけなきつゞは小(チヒサ)きをいふ 長渕の濱名草の濱千鳥 第十五哆𡺸(タギ)摩(マ)知(ヂ) 尓(に)の意の乎(ヲ)与(ヨ)の心の乎(ヲ) 大坂山口がてんかも當(タイ)麻(マ)」二オ 第十六さいで しまく入道 第十七うらわかみ 第十八答屋代弘賢之問 おほあらきおほあらきの里おほあらきの杜 大荒木の駒夜半(ヨハ)ふし原ふしづけ しば原とわたるけこのみわもり 第十九答磐瀬醒之問 足袋皮(カハ)足(タ)袋(ビ)木(モ)綿(メン)足袋絹(キヌ)足袋 金(キン)抄(シヤウ)の誓言(セイゴン)馬(バ)鹿(カ)者(モノ)天守繪馬」二ウ 六十六部回國の経聖木から落た猿 第二十答椿仲輔問 比(ヒ)滿(マ)沙(サ)伎(ギ)理(リノ)簗(ヤナ)えりさす都(ツ)婆(バ)波(ハ) 山(ヤマ)都(ツ)婆(バ)波(ハ)小(コ)都(ツ)婆(バ)波(ハ)等(ト)呂(ロ)須(ス)伎(ギ) 下総豊田郡 第廿一くがにあがれる魚 第廿二歌道の養子 第廿三つくり丘 第廿四野井 第廿五哉の字」三オ 第廿六壽(ス)の假名 第廿七等身の佛 第廿八更級日記 第廿九雞(ケイ)頭(トウ)花(ゲ) 矮(ナンキン)鶏冠(ケイトウ)雞(トサ)冠(カ)菜(ノリ)2 第三十いし〳〵 (四行空白)」三ウ 松屋外集巻之二 武蔵多西平小山田與清稿 越後高關平澁谷永田保訂 第一おほよそ衣 ○古語拾遺に仍テ就テ二於倭ノ笠縫ノ邑一殊ニ立テ二磯城(シキ)ノ神(ヒモ)籬(ロギ)ヲ一奉リレ遷二 天照大神及ヒ草薙ノ劔ヲ一令二皇女豊鍬(トヨスキ)入姫(イリヒメ)ノ命(ミコトヲ)一(ヲ)奉(イツキ)レ齋焉(イツキマツラシメ玉フ)其ノ 遷シ祭ルノ之夕ヘニ宮人皆参リ終(ヨモ)夜(スカラ)宴(トヨノ)樂(アカリシテ)歌(ウタヘ)曰(ラク)美夜比登能於(ミヤヒトノオ) 保(ホ)與(ヨ)須(ス)我(カ)良(ラ)尓(ニ)伊(イ)佐(サ)登(ト)保(ホ)志(シ)由岐能與呂志母於(ユキノヨロシモオ)保(ホ) 與(ヨ)須(ス)我(カ)良(ラ)尓(ニ)自注に今ノ俗(ヨヒト)歌曰美(ミ)夜(ヤ)比(ヒ)止(ト)乃(ノ)於(オ)保(ホ)与(ヨ) 曾許呂茂比佐止保志由伎乃与侶志茂於保与曽(ソコロモヒサトホシユキノヨロシモオホヨソ)」四オ 許(コ)呂(ロ)茂(モ)詞(コトハノ)之轉(ウツル也)也按ニ美(ミ)夜(ヤ)比(ヒ)止(ト)乃(ノ)は宮(ミヤヒト)人ノ之也於(オ) 保(ホ)与(ヨ)須(ス)我(カ)良(ラ)尓(ニ)ハ大(オホ)夜(ヨ)過(ス)乍(カラ)尒(ニ)也也大ハ宴樂(トヨノアカリ)の夜(ヨ)の 盛事をほめて大(オホ)夜(ヨ)といふ豊樂の豊(トヨ)におなし伊(イ) 佐(サ)登(ト)保(ホ)志(シ)は率通(イサトホシ)也率を伊(イ)佐(サ)とのみいへるは伊 豫の伊(イ)佐(サ)庭(ニハ)なとの例いとおほかり通(トホシ)は徹(ヨトホシ)夜の 意にて夜(ヨ)一(ヒト)夜(ヨ)寐すしてうたけし徹(トホ)す也俗に夜(ヨ) 通(トホ)し立通(トホ)し起(オキ)とほしなといふもおなし萬葉集 〈十の巻〉に居(ヲリ)明(アカ)し今宵(コヨヒ)は飲(ノマ)んとよめるもまた徹(ヨトホ)夜(シ) 乃義也由(ユ)伎(キ)能(ノ)与(ヨ)呂(ロ)志(シ)母(モ)は行の宜母(モ)にも母(モ)は助 辞也行は常夜行来経行なとの行におなしくて」四ウ 時刻の移るをいふ神楽歌に鶏(トリ)は鳴(ナク)とも歌(アソ)遊(ヒ)て ゆかんなといへる行もおなし宮人(ミヤヒト)か大終夜(オホヨスカラ)に 率(イサナヒ)起(オキ)居(ヰ)て宴(ウタ)樂(ケ)し時刻の移行(ウツリユク)かおもしろくよろ しきとなり此哥の解を神楽哥の注古語拾遺の 注なとにおろ〳〵いへるはいとまさしき考とも にて取リ用るに足す又俗歌といへる方の於(オ)保(ホ)与(ヨ) 曽(ソ)許(コ)呂(ロ)茂(モ)は大(オホ)装(ヨソ)衣(コロモ)比(ヒ)佐(サ)止(ト)保志(ホシ)は膝(ヒサ)通(トホシ)にて襴著(スソツケ) 衣は膝の下に裔いと長けれはなりと賀茂翁の いはれし説よろし由(ユ)伎(キ)能(ノ)与(ヨ)呂(ロ)志茂はその衣を 着3て行貌のよろしきといへるを由を誤として」五オ 神楽に支乃与呂之(キノヨロシ)毛(モ)与(ヨ)と改たるに据(ヨリ)て著の宜 きなりと賀茂翁いはれたれと古語拾遺の諸本 いつれも由の字なれは舊に従ひて妄(ミタリ)に改むへ からす神楽哥の方にては着(キ)の宜(ヨロシ)母(モ)と心得るか よし大(オホ)凢(ヨソ)衣(コロモ)雪(ユキ)の宜(ヨロシ)もなといふ説はいとうけか たし夫木抄〈冬部三〉に天仁二年十一月家ノ歌合神樂 藤原ノ盛仲〽宮人は神のいさむるうれたさにおほ よそ衣ぬきそみたるゝ此歌の心は神の禁(イ)制(サ)む る慨(ウレハシ)さに大装衣をぬきみたるといひて肩(カタ)を脱(ヌキ) 乱(ミタレ)舞(マフ)貌(サマ)を神の禁(イサメ)にてすきかましきわさせられ」五ウ ねは心の乱(ミタレ)たるによせていへる也宮人は舞(マイ)人(ヒト) 也千五百番ノ歌合ノ嘉陽門院ノ越前か哥に榊とると よ宮人の神あそひともよめり神のいさむるう れたさは神の制止(イサメ)給ふかうれはしきと也伊勢 物語に恋しくはきてもみよかしちはやふる神 のいさむる道ならなくにといふとうらうへ也 ぬきそみたるゝは舞人の肩(カタ)を脱(ヌキ)みたるゝことに て五(コ)節(セチ)の肩(カタ)脱(ヌキ)なといふこともあり夫木抄〈冬三〉に三 嶋ノ社に奉りける神樂をしらていふ哥宮人権僧 正公朝〽霜のうへに雪をかさねて宮人のおほ」六オ よそ衣さえあかしつゝ此哥の心は宮人の大(オホ)装(ヨソ) 衣(コロモ)の霜雪にさゆるよし也さと宮人振といふ名 はやく古事記ノ允恭の段にも見えたりき 第二しらさ雲 ○夫木抄〈雑一〉或抄古哥しらさくもよみ人しらす 〽天のはらよこきりわたるしらさ雲月にもまか ふはやくけねかし此しらさ雲ものにをさ〳〵見 えす此哥の心によれは白(シラ)小(サ)雲(クモ)の心にや月の夜 ちきれたるしら雲のあるか月にもさはりてま かはすへけれははやく消(キエ)よとよめるなるへし」六ウ 小を佐(サ)といふは三樹考に例を挙たれは閲(ミ)て知 へし小雲の字も詩ノ薈兮蔚兮の箋に薈蔚之小雲 不レ能レ為二大雨一と見ゆ 第三よろこふ雲 ○千五百番ノ歌合に土御門内大臣〽もろ人のあふく のみかは君か代は空によろこふくもゝありけ り此哥夫木抄〈雑一〉にも載たり按によろこふ雲は 慶雲也卿雲慶雲なと相通(アヒカヨ)はして書けり續日本 紀〈三の巻〉類聚國史〈百六十五の巻〉などにみえ延喜ノ治部式ノ 大瑞の条に慶雲ハ状若ニシテレ烟ノ非スレ烟若ニシテレ雲非スレ雲と注(シル)され」七オ たり史記ノ天官書に若ニシテレ煙ノ非スレ煙ニ若ニシテレ雲非スレ雲ニ郁々紗々トシテ 蕭索綸囷アリ是ヲ謂フ二卿雲ト一〻〻見ハス二也喜氣一也注に正義ニ曰ク卿 音慶云々漢書ノ天文志の説亦おなし同書ノ礼樂志 に甘露降リ慶雲出ツ云々晋書ノ天文志ノ中に瑞氣一日二 慶雲一若レ煙非レ烟若レ雲非レ雲郁々紛々蕭索輪囷是謂二 慶雲一亦曰二景雲一此喜氣太平ノ之應云々などもあり 源氏ノ藤裏葉の巻の河海抄哢花抄提要目安湖月 抄ノ如菴説などに紫雲を慶雲なりともいへり韻 府に鷗陽詹カ徳勝ノ序を引て謄二歡心一揚ク二喜雲ト一見え たる喜雲もよろこふくもと訓(ヨム)へし藝文類聚〈一の」七ウ 巻天部〉雲の条に孫子カ瑞應圖ニ曰ク景雲ハ太平之應也也一ニ 曰ク非レ氣ニ非レ煙ニ五色紛縕タリ謂フ二之ヲ慶雲ト一云々同書〈九十八の巻祥 瑞部上〉慶雲の条にも挙て紛縕を氛氳に作る又景 雲卿雲などの故事をも載す武備志〈百六十一の巻占度載〉 占雲氣の篇に瑞氣ニ三アリ一ニ曰ク慶雲若レ烟非レ烟如レ雲非レ 雲郁々紛々蕭索輪囷是謂二慶雲一亦曰二景氣一此喜氣也 也太平ノ應云々管窺輯要〈五十六の巻〉瑞氣の条に一ニ曰ク 慶雲一ニ曰ク軽雲若レ烟非レ烟若レ雲非レ雲郁々紛々蕭索 輪囷是曰二慶雲一一ニ曰ク二景雲一此喜氣也太平ノ之應也一ニ曰ク 昌光赤如ク二戠4狀一聖人起而受ルコトハレ命則見ル云々なとも見」八オ ゆ此外挙にいとまなし 第四ゐのこ雲 ○夫木抄〈雑一〉源仲正ノ家集ゐのこ雲の哥に〽雲はらふ 月の光におひにけりはしりちりぬるゐのこ雲 かなこは鶴林玉露〈十五の巻〉范石湖占雨詩に飛雲走 群羊停雲浴三豨云々武備志〈百六十一の巻占雲氣一〉氣之戰 陣の条に軍行有テ二白雲一如レ猪ノ来臨スル者ハ大驚也冝ハレ備フ云〻 また〈百六十二の巻占氣雲氣二〉氣之軍敗の条に軍上ノ氣中有二黒 雲一如二羊形一或如二猪形一者此尾觧ノ之氣軍必敗ル云〻また 軍上ノ氣如ク二群羊群猪一在ルハ二氣中一此衰氣也撃テハレ之必勝云〻」八ウ 管窺輯要〈五十三の巻〉雲氣不祥占に白雲如キハレ猪ノ所レ當ル軍 夜須ク二警備フ一軍驚之兆也云〻また〈五十四の巻〉将軍ノ氣の条 に或如二群猪一在二霧氣中一皆衰気也云〻また〈五十五の巻〉 如二群猪一在二於氣中一為二敗軍一云々晋書〈天文志中〉に黒氣如ニシテ二 壊山ノ一墜ル二軍上一者名曰二營頭氣一或如二群羊群猪一在ハ二氣中ニ一 此哀氣也云〻なと猪雲の名から(漢)くに(土)ゝもきこ えたれは本朝にもさる名ありしなるへし 第五みつまさ雲 ○慈鎮和尚の拾玉集〈四の巻〉百首歌の中に〽すゑはれ ぬ水まさ雲にもる月を空しく雨のよはやおも」九オ はん此哥夫木抄〈雑一〉にも水まさ雲と題して収(イレ)た り写本には水まさ雲5ともあれと藻汐草にもみ つまさ雲とあれは多本に従へしこは水増雲の 義なるへし為尹百首に夕立早過〽夕立の水まさ 雲のはや過て涼しくうかふみかの月かけ一本 には水ます雲ともあり周礼〈廿六の巻宗伯礼官之軄〉保章氏 以テ二五雲ノ之物(イロヲ)一辨ス二吉凶水旱降農6流之祲家ヲ一云〻注に 鄭司豊公7雲色黒為レ水云〻升菴外集〈二の巻〉望氣経 の条に黒雲多レ水云々晋書〈元文志中〉に雲甚潤テ而厚ハ大 雨必暴ニ至ル四始ノ之日有テ二黒雲ノ氣一如ク二陣厚大重ル者ハ多レ雨」九ウ 云〻古徴書〈十の巻〉春秋感精符に冬至ノ日見二黒雲一有 レ水云〻武備志〈百六十一の巻占雲氣一〉氣ノ之戰陣の条に凢安スルコト レ營ヲ有テ二黒雲一如キ二鳴鶏ノ状一与二營門一相對セハ宜クへしレ移ス二営高阜ニ一天必 大ニ雨リ河水泛漲ス防ケレ有ルヲ二沈溺ノ之患一云〻管窺輯要〈卅六の巻壁宿〉 雲氣干犯占に黒氣入レハレ壁ニ有リ二破國凶一ニ曰ク有二大水一云 云なと見え同書〈五十四の巻〉風雨の条萬用正宗ノ〈一の巻〉 天文門なとにも黒雲必雨ルよしありこれを水(ミツ)増(マサ) 雲(クモ)といふへし本間游清曰豊前小倉の藩士秋山 光彪語けるはこの大江戸にて鰯(イワシ)雲といひて魚 鱗の形せる雲をわがすむあたりにては水まさ」一〇オ 雲といへりと語れり又仲田顕忠ぬし語られし は先年江ノ島へ行とて程谷驛に宿かりし時宵は 雨ふりて暁方に雲間の月ほのかに出たりこゝ にあひやとりせる飛脚の有けるが壁をへたて て人に物いふを聞は今宵は水まさ雲にて月が 明らかならぬといへり立のいそきに其飛脚は いづこの人とも問正さず水まさ雲の義8をもた つねもらして今に口をしといへり今其夜のさ まを思ひやるに慈鎮和尚の水まさ雲にもる月 をとよみ給へるによくかなへるやう又此両人」一〇ウ の話をもて考ふれは水まさ雲といへる名今世 もかた〳〵に有とみえたり猶俟二後考一云〻按に淮 南子覧冥訓水雲魚鱗とあるは此いわし雲の説 にかなへり 第六鵲の鏡 ○夫木抄〈夏三〉文永十年毎月一首ノ中民部卿為家〽か さゝきの鏡の山の夏の月さし出るよりかけも くもらす同書〈秋四〉家集月歌ノ中為家卿〽天のはら ひかけさしそふ鵲のかゝみとみるは秋のよの 月同書〈雑二〉御集慈鎮和尚〽かさゝきの鏡の山の」一一オ 夏の月さし出るよりかけもくもらす按に此哥 新拾遺〈秋下〉にも家十五首哥に月前大納言為家と て載たれは慈鎮和尚の哥とせるは誤也鵲の鏡 は月の異名也唐ノ李嶠か月ノ詩に桂ハ生ス三五ノ夕蓂ハ開ク 二八ノ時分輝度リ二鵲鏡一流彩入二蛾眉一云〻王維か清如タル 玉壺ノ水ノ詩に暁ニ浚ク飛鵲鏡宵ニ映ス聚螢ノ書云〻李白カ詩 に明々(タル)金鵲ノ鏡了々(タル)玉臺ノ前云〻王勃カ上ル二皇甫常伯ニ一 啓に鸞鑣就テレ路ニ駑駿相懸リ鵲鏡臨テレ春ニ妍媸自遠シ云〻 なと見えたるにて知へし 第七梁塵」一一ウ ○次郎百首笛藤原仲實〽吹たつる笛のしらへの 聲きけはのとけきちりもあらしとそおもふ此 哥夫木抄〈雑十四笛部〉にも載(ノセ)たり土左日記に又ある 人にしくになれとかひうたなとうたふかくう たふにふなやかたのちりもちりそらゆく雲も たゝよひぬとそいふなる云〻列子湯問篇に薛(セツ)譚(タン) 學フ二謳(ウタヲ)於秦青ニ一未タレ窮シテ二青カ之技キヲ一自謂ラク盡セリトレ之ヲ遂ニ辭シテ歸ル秦青モ 弗(スシテ)レ止(トヽメ)餞(ハナムケシ)二於郊衢(サトノチマタニ)一撫(ウチテハ)レ節(ウシキヲ)悲歌(アハレニウタフ)聲振ヒ二林ノ木ニ一響(ヒヽキ)遏(トヽム)行ク雲一薛譚 乃チ謝(ワヒテ)求シテレ反ランコトヲ終マテレ身ヲ不二敢テ言ハ一レ歸ランコトヲ秦青顧(カヘリミ)謂テ二其友ニ一曰ク昔韓娥 東ノカタ之クニレ齊ニ匱(トモシ)レ糧(カテニ)レ過(ヨキリテ)二雍門ニ一鬻(ヒサキテ)レ歌ヲ假(カル)レ食ヲ既ニシテ去ルニ而餘音遶(メクリテ)二梁欐(ウツハリヲ)一」一二オ 三日不レ絕左右以ラク其人弗トレ去過ルコト二逆旅ニ一〻〻ノ人辱シムレ之韓 娥因テ曼聲哀哭ス一里(ヒトサトノ)老幼悲ミ愁ヘ垂レテレ涕ヲ相對テ三日不レ食ハ 遽(ニハカニ)而追(オヒトヽム)レ之ヲ娥還テ復タ為ニ曼聲長歌ス一里(ヒトサト)老幼喜躍抃舞シテ 弗レ能ハ二自禁(タフルコト)一忘ル二向(サキノ)之悲ヲ一也乃厚ク賂レテ發(ユカシム)之故雍門ノ之人至マテ レ今ニ善スルハ二歌哭一效(ナラヘル也)二娥カ之遺聲ニ一云〻此説博物志〈八の巻〉史補ノ 篇にも出て餘音遶(メクリテ)二梁欐(リヤウレイヲ)一三日不レ絶の欐ノ字なし梁 欐はうつはり也劉子ノ精神篇ノ注に韓娥善歌欲二入 レ齊唱歌一行至二雍門一値二雨雪ニ一粮盡ス欲二歌ヲ乞一レ食雍門ノ人不 レ識以レ杖撃ツレ之韓娥遂ニ悲哭ス雍門ノ人聞二其哭聲一皆悲泣スルコト 三日為ニレ之不レ食ハ有智ノ者謂テレ娥曰子既ニ善ク歌フ可シ二停テレ哭ヲ而」一二ウ 歌フ一韓娥即唱歌ス其歌清暢可レ動二梁塵ヲ一雍門ノ人聞レ之又 三日忌二其ノ食ヲ一也云〻藝文類聚〈四十三楽部三〉歌部に劉向 別録ニ曰ク有リ二麗人歌フ一レ賦ヲ漢興以来善キ二雅歌ニ一者ハ魯人虞公也 發スレハレ聲清哀蓋動ス二梁塵ヲ一云〻同〈四十四の巻楽部四〉箏ノ部ノ梁ノ簡文 帝ノ箏ノ賦に使ム二長廊之瓦ヲシテ虛墜(ムナシクオチ)梁ノ上ノ之塵ヲシテ染(ソマ)一レ衣(キヌニ)云〻杜 氏通典〈百四の巻楽五〉歌の条に有リ二漢ノ有9虞公一善ク歌フ令シメム下梁上ノ 塵ヲシテ一起上云〻なと見えし梁塵も共に餘音逹󠄄ル二梁欐一に 起れる語也本朝の古書に梁塵秘抄梁塵秘抄口 傳集梁塵愚按抄なと名つけ古文におほく韓城10カ 之塵と書るものみなこれを据(ヨリトコロ)とす」一三オ 第八白(シラ)木(ユ)綿(フ)幣(ミテクラ)四手(シデ)カタソギ ○木(ユ)綿(フ)ハ穀(カヂノ)木(キ)ノ皮ヲ剥(ハキ)テ晒(サラ)シタルヲ云フ穀(カヂノ)木ハ紙 ニスクカウゾト云フ也11梶(カチノ)葉(ハ)ノ紋(モン)ナドモ此ノ木ノ葉 ノ形ヲ取レル也其ノ色白キユヱ白(シラ)木(ユ)綿(フ)ト云フ此レヲ 布(ヌノ)ニ織(オレ)ハ最(イト)柔(ヤハラカ)ナルユヱ柔抄(ニギタヱ)ト云フニキハ柔(ヤハラカ)ナル 事タヘハ約(ツヽシテ)テテトモイフサイデナト云モ裂布(サキヌノ) ニテ細(コマカ)ニ裂(サキ)タル布(ヌノ)也キヲイト云ハ音便也然(サ)レ バニギテト云フハ柔(ニギ)妙(タヘ)ノ約(ツヾメ)談(コトバ)白(シラ)ニギテト云ハ白(シラ) 木(ユ)綿(フ)モテ織(オリ)タル柔布(ヤハラカナルヌノ)ト云フ事也此レヲ神衣ノ料ニ 奉リ又白木綿ノマヽニテモ奉ル也ヌサト云フモ」一三ウ 此ノ妙(タヘ)ヲ細(コマカ)ニ切テ神ニ奉ルハコロモヲ手(タ)向(ムク)ル義ニト レル也ヌサハ禱麻(ネギアサ)也ネギヲ約(ツヽメ)テヌト云ヒフサ ヲ省(ハブキ)テサト云フ古語拾遺ニ麻(アサ)謂二之ヲ総スサトモ一ト見ユ神ニ 請(コヒ)禱(ネガフ)トテ奉ル麻(アサ)ノ心也其ノ衣ハ木綿(ユフ)ニテモ麻ニ テモ織レバ通(カヨ)ハシテイヘル也又青(アヲ)和(ニギ)手(テ)トハ麻 ハ木綿ヨリモ色劣(オト)リテ青(アヲ)ケレバ麻(アサ)モテ織(オリ)タル 柔(ニギ)布(テ)ヲ云フ也柔(ニギ)妙(タヘ)ニムカヘテ荒(アラ)妙(タヘ)ト云ハ荒(アラ)ク織 タル布(ヌノ)也ユフト云フ名ハ物ヲ結(ユフ)モノナレバ也又 タクト云ヒ栲(タク)縄(ナハ)栲(タク)綱(ツナ)ナドモ云フハ手繰(タクル)義也麻(アサ)ニモ 木綿(ユフ)ニモ渉(ワタ)リタル12總名也後世ハタグルト濁(ニゴリ)テ」一四オ イヘド古ハ清テタクルト云ヘル也 ○弊(ミテグラ)ハ滿座(ミテグラ)ニテ座上ニ充滿セシメテ奉(タテマツ)ル義欤又 ハ手(テ)ニ持(モチ)テ座(クラ)ニ備(ソナフ)ル義ニテ御(ミ)手(テ)座(クラ)物(モノ)欤又ハ手(タ) 向(ムケ)座(クラ)ニテ御手向座(ミテクラ)物(モノ)ノ義欤トマレカクマレ座(クラノ) 上(ウヘ)ニ滿備(ミテソナ)ヘテ奉ル物也座トハスベテ物ヲ置(オ)ク 処ヲ云フ倉モ物ヲ置ク家(ヤ)也馬ノ鞍ハ人ヲ乘セオク 処也位(クラヰ)ハ人ノ就(ツイ)テ居ル処也サレバミテグラノ クラハ物ヲ滿(ミチ)テ置(オ)ク処ニテ臺(ダイ)ナドヲ云ベシ後 ニ幣束(ヘイソク)ヲミテグラト云ハ上古榊(サカキ)ニ木綿(ユフ)ヤ玉ヤ 鏡ヤクサ〴〵ノ物ヲ付テ手(タム)向(ケ)種(グサ)ニセシヲマネテ」一四ウ 紙(カミ)ニテ作(ツク)リ轉(ウツ)リテハ金銀ノ幣(ヘイ)ナド云フモ出来タル 也太(フト)玉串(タマグシ)ト云フハ太(フト)ハホメタル詞タマクシハ玉 ヲツケタル串(クシ)欤又ハ手(タム)向(ケ)種13手(タム)向(ケ)串(クシ)欤此レモ臺(クラ)ニ 充テ奉ル由ニテミテグラトハ書ル也 ○木綿四手ハ木綿(ユフ)ハ前(マヘ)ニイヘル如ク穀(カヂノ)木(キ)ノ皮ヲ 剥(ムキ)テ晒シタルニテ今ノ苧ヨリモ色白キ物也四(シ) 手(デ)ハ下垂(シヅタレ)シヅタレノツヲ省(ハブ)キタレヲ約(ツヾメ)テテト 云フシダリ柳シダリ尾ナドノシダリモ下垂(シヅタレ)也下(シモ) ヲシヅト云ハ下(シヅ)枝(エ)下(シツ)情(コヽロ)ナト例多シ又省(ハブキ)テシト ノミ云フハ高倉下ヲカクラジト云フ類也上古榊(サカキ)」一五オ ニ木綿(ユフ)玉(タマ)鏡(カヾミ)ナド付テ弊(ミテグラ)ニセシヨリ神ニ木(ユ)綿(フ)付(ツケ) タル榊(サカキ)ヲ太(フト)玉(タマ)串(クシ)トテ奉リ後ニハ木(ユ)綿(フ)ヲ紙ニカ ヘテ榊ニ付ケ或ハ榊ナラヌ竹ナドニ挟(ハサミ)テ木綿(ユフ) 四手(シテ)トモ幣束(ヘイソク)トモ云フ事トナリヌ又左(シ)縄(メ)ナドニ 付ル紙モ木綿(ユフ)ヨリ思ヒヨリタルニテ木綿(ユフ)下垂(シテ)ノ 義ナリ ○カタソギハ宮柱ノ屋根(ヤネ)ノ千木(チキ)ノ片(カタ)方(〻)殺(ソキ)タルヲ 云フ千木(チキ)亦ハ氷(ヒ)木(ギ)トモ云ヘリ肱(ヒヂ)ノ如ク組合(クミアハ)セタル 木ナレバ肱(ヒヂ)木(キ)ナルヲ上(カミ)ヲ省(ハブキ)テハ千(チ)木(ギ)下(シモ)ヲ省(ハブキ)テ ハ氷(ヒ)木(ギ)ト云フ也カヤ葺(ブキ)ノ屋根(ヤネ)ノ押(オサ)ヘニ前後ノ軒(ノキ)」一五ウ ノ端(ツマ)ヨリ頂上(ヤノムネ)マデ木ヲ二本ヤリチガヘタル末(スヱ) ノ長ク出タルサマヲ千木(チキ)高領(タカシリ)ナド云フモ千木高 ク顕(アラハ)レタル家ニソコヲ領シ住義(スムヨシ)也片ソギノ行(ユキ) 合(アハ)ヌト歌ニヨメルモ木ヲヤリ違(チガ)ヘシ上ノ前後 ヨリ行合フ処ヲ云フ又風雅集ニ度會ノ朝棟ガカタソギ ノ千木(チキ)ハ内外ニカハレドモチカヒハ同ジ伊勢 ノ神風トヨメルハ内宮ニハ内ヲソギ外宮ニハ 外ヲソグト云フ後ノ定メアルニ据(ヨ)レル也 以上略考四箇條所答平戸城主松浦14源凞朝臣之 問也」一六オ 第九強盗熊坂長範 ○強盗(カウタウ)熊坂(クマサカ)長範(チヤウハン)といふもの美濃國赤坂の宿(スク)にて 夜討し牛若丸に討たれし事は烏帽子折ノ謡曲(ウタヒ)熊坂 謡曲(ウタヒ)なとに見えたれどもと作り物語なれば信(ウチ) 用(ヒク)べくもあらず此(コ)は義経記に陸奥の金(カネ)商(ウリ)吉次 牛若をぐしてくだりけるに近江國鏡(カヾミノ)宿にやど れる夜強盗仙道(センダウ)の大(ダイ)将(シヤウ)出羽ノ國人由(ユ)利(リノ)太郎越後ノ 国頸(クヒキ)城郡ノ人藤澤入道信濃人さんの権頭の子息 さんの太郎八代(ヤツシロ)のごんの守遠江人蒲ノ与一駿河 人奥津(オキツノ)十郎上野人とよ岡(オカノ)源八など夜討してみ」一六ウ なうたれ中にも藤澤入道大長刀にて戦しが遂(ツヒ) に牛若に討れしよし見ゆこれを翁(マヒ)の烏帽子(エボシ)折(オリノ) 草子に美濃國青(アオ)墓(ハカノ)宿にて熊坂のちやうはんと いふものヽ夜討せしよしに引直(ヒキナホ)して作りたる を謡曲(ウタヒ)はそれによりて又作りなほしたるもの 也されば熊坂長範は義経記の藤澤入道が事な るを雜々拾遺に賀州ノ熊坂太郎長範といふは藤 原氏なり武勇たくましかりしが後に盗賊の頭 となり近江の国鏡又は美濃路へ立こえ往来の 旅人をはぎとり世を渡るよししるせしはいみ」一七オ じき妄説也謡曲拾葉抄に異本義経15といふもの を引て熊坂張樊といふ盗(ヌスヒト)は加賀ノ国熊坂ノ人なる が美濃国赤坂ノ宿にて夜討し牛若丸に討れしよ し記せるもいと〳〵うけがたし又張良の張の字 と樊噲の樊の字をとりて智勇を表(ヘウ)したる名と いへるもしひごと也烏帽子折草子にくまさかの ちやうはんおやこ六人とも見え七歳のとしは じめて馬(ムマ)を盗みそれより強盗の大将軍(ダイシヤウグン)となり 五人の子どもゝ各(オノ〳〵)ぬす人のわざにかしこくて 世に横行(ワウキヤウ)せしよしなどあれば六十ばかりの翁(オキナ)」一七ウ なりけんことおしはかられ烏帽子折ノ謡曲(ウタヒ)に六 十三といへるもさもとおもはるゝ也然(サ)て長範 が年齢形粧などは義経記の藤澤入道がさまと 烏帽子折ノ草子烏帽子折ノ謡曲(ウタヒ)熊坂ノ謡曲(ウタヒ)など考て 押量(オシハカル)べし○又按陸奥人熊坂邦子彦が文章諸論 に熊坂四郎長範の事を記して信州の名族とし 保元の役に左馬頭義朝に従て白川殿を攻奉り しものとす又平氏の粟(アハ)を食(ハム)を恥(ハヂ)て剽掠(ヒキハギ)を業(ワサ)と せしを伯夷叔齊が節(セツ)に比したるなどみなしひ て己(オノレ)か先祖とし其名をかゝやかさんための文」一八オ 飾也家系譜牒は私の説を主張せるもあれば従 ひ用ひがたきはた少(スクナ)からす熊坂長範に子孫あ りといふ事もいかゞあらん熊坂は地名にて相 模ノ國愛甲郡にも熊坂村あり又平家物語七の巻 北國下向の条に信濃と越後の境なる熊坂山に 陣をとると見え盛衰記ノ廿八の巻北國所々ノ合戦 の条同卅の巻平氏ノ侍共亡ル条などに熊坂とある も同處ときこゆこはもと山の隈(クマ)の坂(サカ)の事にて それに起(オコ)れる名なれはさる地名諸国におほか るべくそこに住(スミ)たる人熊坂を称号とせしもあ」一八ウ またなるべければ熊坂氏必ス長範が子孫といは むもいかゞ也烏帽子折ノ草子に据(ヨ)れば父子六人 こと〴〵く討れたれば子孫なしといはんかたま さるべし又義朝に従ヒて白河殿を攻奉りし熊坂 四郎は名(ナ)乗(ノリ)も傳はらねば長範也といふ證(アカシ)もな しされば金商(カネウリ)吉次をおひやかせしといふ熊坂 長範は作(ツク)り名にて藤澤入道が前名なること義経 記烏帽子折ノ草子を考合せて知(シル)べし長範が事蹟 實録にはたえて見えさるを強(シヒ)てありし人とせ んはいかにそや續本朝通鑑ノ六十二の巻にも俗」一九オ 説ニ義経殺スト二強盗熊坂長般及ヒ其ノ従数人ヲ於赤坂ニ一蓋シ与二 由利藤澤之事一相謬リ傳ル者ト乎といへり緒論に邦乘 を閲(ケミ)し野史氏を考フといへるは俗書に己が闇推 の説をくはへてかく古書に見えたり顔に書出 しなるべしそは文辞のみを崇(タフト)びて皇國(ミクニ)の事實 を踈(オロソカ)におもふものおほかれば也藤澤入道を熊 坂長範と改めしは當(ソノ)時(カミ)藤澤氏にはゞかる人な とありてのわさにやさて牛若金商吉次末春に 具して東國に下れるよしは平治物語三の巻盛 衰記四十六の巻同劔の巻なとに見えたれと鏡ノ」一九ウ 宿にて強盗を討し事は義経記を出處とす本朝 事蹟考に青野原といへる説はかたはらいたし 右強盗熊坂長範考ハ所レ也答二平戸侯ノ隠居松浦静山君ノ 之問ニ一也 第十郢(エイ)曲(キヨク)一(ヒト)節(ヨ)切(キリ)尺(シヤク)八(ハチ)中(チユウ)啓(ケイ) ○郢(エイ)曲(キヨク)とは催馬楽(サイバラ)今様(イマヤウ)朗詠(ラウエイ)なにゝても歌謡の名 にて郢曲といふ一(ヒトツ)の謡物(ウタヒモノ)あるにあらず徒然草 野槌に此辨見ゆ今世朗詠をうたふをのみ郢曲 と心得たるはひか事也さて朗詠の曲(フシ)今様の曲(フシ) 神樂催馬樂風俗の曲(フシ)の類呂律の声調各別なる」二〇オ べけれど今の世の猿樂謡(ウタヒ)と長唄(ナガウタ)と相違フかことく はあらさるべし必竟は朗詠の曲(フシ)にて新作の詞(コトハ) をうたひ作(サ)略(リャク)をも加(クハ)へて今様とはいへるにや 白拍子といふは拍子とる名にて長門本ノ平家物 語に白拍子をかぞへすましなどもあり此今様 の舞に一(ヒト)節(ヨ)切(キリ)を用たるは古書にをさ〳〵見あた らねど一節切は洞簫尺八の同属にて少(スコ)しづゝ 趣(オモムキ)をかへたる也一節切の長(タケ)一尺八分あるも尺 八の名に叶(カナ)ひたり白拍子の作者信西入道が後 白川院に奏奉(ソウシタテマツ)りし保元三年内宴を再興せるを」二〇ウ り尺八をもつくり出て用たるよし続世継内宴 の巻に見えたればよしあることにや寛永以後三 絃にあはせてふく一節切は宗佐高瀬(タカセ)などより 大森宗勲に傳はり宗勲その製作をも吹様をも 斟酌せしなるべし宗勲は和泉ノ堺人にて紫の一 本に宗勲が切たる葛の葉風といふ銘の一節切 かとありそは紙鳶〈下巻元禄十二年刊本〉倭漢三才圖會〈十八 の巻樂器類部〉類聚名物考〈樂律部五〉雅遊漫録〈五の巻〉など考て しらる尺八は和名抄〈音楽部〉源氏物語〈末摘花〉なとに 出たればはやくより傳はれるを保元の比には」二一オ 再興したる也また舞の中(チユウ)啓(ケイ)を襟(エリ)にさすことさも あるへけれど古画などの證今とみに見出がた し中啓はいにしへの蝙蝠(カハキリ)扇にて源氏ノ紅葉ノ賀に 源内侍が顔をおほひしこと見ゆ末(スエ)廣(ヒロ)といふはた これ也今の俗間の扇は檜(ヒ)扇(アフギ)の形に厚紙を折竹 骨を用て製れるにて寶の蝙蝠(カワキリ)にはあらす出家 の一束(イツソク)一本(イツホン)とも束本(ソクホン)ともいひて厚紙一束〈十帖なり〉 中啓一本を臺に積(ツミ)て礼式(レイシキ)の進物にするも蝙蝠(カハキリ) にてこれ古代より男女出家すへて用ひし物也 右所シレ答ル二平戸隠居静山老候ノ之問ニ一也」二一ウ 第十一經房遺書考 ○文政元年摂州能勢郡野間庄野村16ノ民勘兵衛修二理シ 其ノ居宅ヲ一於テ二梁上ニ一得タリ二古文一巻ヲ一同州池田ノ里人山川正 宣〈俗称二大和屋大三郎一〉喜テ而謄二冩シ之ヲ一記シテ二其所由ヲ於巻尾ニ一云ク此レ建 保中左少辨藤経房朝臣ノ遺書無シトレ疑也廼チ別ニ冩シ二二通一 以テ二一通ヲ一納メ二於能勢ノ陣屋ノ之帑蔵ニ一以テ二一通ヲ一納テ二於出野ノ若 宮八幅17ノ祠中ニ一將ニストレ傳ント二於不窮ニ一云フ ○あまりをまりと書て十とせまりなとあるは賀 茂翁〈真渕〉の文体にならへるにて建保の比の体に あらず」二二オ ○麿(マロ)とあるも建保の比は丸と書たるがおほし近 世の古学者麿(マロ)麻呂(マロ)滿(マロ)など好(コノミ)て書クことなり ○大輔ノ判官といへる名目いといぶかしこは大夫ノ 判官をかくおもひ誤れるなるべし大夫ノ判官は 五位したる廷尉の嘉号なりまた郡司景家とい ふ名もいかにぞや ○御幸は院にまうす例にて西宮記北山抄などよ り後は必ス主上に行幸院に御幸と書こと也こはミ ユキとかイデマシとか訓(ヨム)へく心得てみだりに 書たるなり建保の世の人にかゝる誤はたえて」二二ウ なし ○典内侍これはナイシノスケの事を俗にスケノ ナイシといふより典の字をスケに當(アテ)てみだり に書たる也典侍を音(オン)には清(スミ)てテンシ訓(クン)には清(スミ) てナイシノスケと訓(ヨム)例也 ○舟をありそにつけなどいへるありそも荒磯(アライソ)の 約語にて萬葉におほかりこれもなきさとか磯 とか岸とかいふが中むかしのくちつきなるを や ○おもぶせしてはおもてぶせといふ詞よりさか」二三オ しらに思ひまうけし也 ○おとゆふはをとはひの夕を省(ハブキ)て古言らしくは なしたる也すべて古言は切約とおもへるにや 〽そゝりらがひまりげたはきゆく土手の西瓜(スイクワ)の皮 ですべるへうなりといへる狂歌さへふとおも ひ出られていとおかし ○市女が笠てふものに似たると云〻てふといふ 詞此外にも見ゆ文詞にはといふと書クを歌詞に は約(ツヾメ)ててふとよみ万葉にはとふともちふとも よめり古本ノ神楽哥の詞書にてふとあるのみに」二三ウ て外の書にはをさ〳〵見あたらずさるを賀茂翁 のともすれは何てふ〳〵と書れたるを見まねび てのわざ也建保の比にはふつになき事也 ○主上を八ノ宮とまうし〈安徳天皇也〉崩御の後若宮八幡 とあはせ御やまひ祭りければ云〻こは若宮 八幡を由縁ありげにせんとての傅會妄作也又 あはせやまひ祭りといふも例の古(フル)めかしく 作り出たる詞也 ○種長は君の来(クル)見(ミ)の御つくり哥を原にもて来見 権現とあかめ奉れりと云〻〈原は地名也来の字今ひとつすべし〉」二四オ こは上の文に十月廿四日はつ雪ふりて道にめ なれし山〻のいとめつらしくいつもの峰に御 幸ありて〽初雪をめてつゝこゝにく(クか)る18見れは 峯はきのふに似ずもありけり此峯を里人は来(クル) 見(ミ)山あるはくるみが峰ともいふとあるうた也 これも望里なる来見権現といへる叢祠を所由 ありげにせんとてまうけ出し説なり ○従四位上侍従行左少辨藤原経房この位署いと 不審なり従四位上行左少辨侍従藤原朝臣経房 とあるべきことわりなりそは軄原抄ノ後附の位署」二四ウ 式を見てもしらるゝにさるすぢもたどらぬも のゝしわざ也又公卿補任辨官補任など考るに 経房は安徳後鳥羽などの朝に仕へて治承四年 に左中辨正四位下寿永三年に左大弁参木同年 九月に権中納言後に正二位大納言にも進たる 人也従四位上行左少弁といふこと無稽にて笑ふ べし ○假(カ)名(ナ)遣(ヅカヒ)手尓乎波(テニヲハ)のみたりなるは山川正宣が跋 にもうけひきたるよしにしるし又経房といふ 人片田舎にさすらひて土民になり下り年さへ」二五オ おぼれての筆なればとて見ゆるしもすべしさ れど其時代手尓乎波は正しかりしをかく誤べ くもなく近世萬葉家といふもの出来て後の詞 つきなるもうけがたき證也古学〈万葉家の類也〉は実に 千古卓越の道なれど片田舎人が賀茂翁本居宣 長なとの著書をよみそれに心うつりて偏見固 陋にのみなりゆき道理をさとらざるはいかに ともせんすべなしさる方か本やぶりの村学者 ぞかゝるえせごとしいでゝ世をあざむかんと はすめるそは木曽義仲がおのれうましとおも」二五ウ へる田舎料理を猫間ノ黄門に強(シヒ)すゝめけむにひと しく鶯鳩が大鵬をわらへるがごとくなとにや ○山川正宣いみじくしんじて奥書せるはいかに ぞや正信は本居宣長が門徒のよしきこえ仙足19 石碑の解をも著したればかゝるえせものにま どふへくもあらじをなにゆゑにかありけむ知 りてうけがひ顔したらんには学者の心にあら ず不レ知してしむじたらんには愚蒙のかぎりと いふべしそも〳〵の隆房の書を偽作せるよしは かの伊勢のわたりになま田舎学者ありてその」二六オ 里の叢祠をたふとげにいひなし己が家系なと を世にあら20さばやとおもへる愚癡心に起れる 也さるは深田源内が大系圖を偽作し駿河ノ志豆 波多の社官が類聚国史の冩本に己が仕フる社を 總社のよし書加ヘて世を欺キたる類也具眼の学者 一観せばいかにつくりかまふるとも忽にその 偽を見あらはしつべきを管見固陋の心より猿 丸が笋(タケノコ)を盗(ヌスミ)折(クヂキ)て己(オノ)が耳(ミヽ)を塞(フタグ)ごときわざすなるぞ をかしきや 第十二答荒木田久守南朝系圖」二六ウ ○尾藩ノ儒官秦氏及ヒ津島ノ宮司氷室氏などより尋 問とてその問書の文をもて御問の条左に御答 申候 ○南朝紹運録は天野信景が手より出候ものにて 古本を以て増訂せし書なり後に大和人竹口栄 齋増補して一書とす悉委しといへども正史に 對(ムカヘ)考ればなほ牽強傅會なきにあらす ○宗良親王の御子尹良親王及ヒ御孫の良王の御事 は浪合記の外所見なし新葉集李花集信濃宮ノ傳 などに見えて北朝にとらはれ給ひ年経て後永」二七オ 和三年九月京にて薨じ給へるは宗良の御長子 興長親王と申て母は狩野介貞長女也尹良親王 は興長のさし次(ツギ)の御弟にて母は知久四郎左衛 門尉敦貞が女とも又は井伊介道政が女ともい へり尹良をユキヨシと訓(ヨム)は尹は廣韻に進也と 注したればユキとよみしなりされど姓名録抄 拾芥抄宗二が節用集新撰類聚往来伊呂波字類 抄などに太〻(タヾ)と訓てユキと訓たる例なければ なほ太〻(タヾ)と訓んかたしかるべくや良は右の書 ともに与之(ヨシ)とよみ拾芥抄には羅(ラ)ともよみたれ」二七ウ ど後醍醐天皇の御子の御名の仮(カ)名(ナ)に書たるも のにみなよしとあればこれもたゞよしとまう すべくおぼゆ浪合記も天野信景が手に書候へ ば彼か増訂なと候はむ欤極なし21とは申かたく候 ○日本史ノ菊池武光が傳に菊池武朝申状を引て将 軍ノ宮としるされしは征西将軍ノ宮懐良の御子良 宗にて母は武光が妹也貞治二年誕生菊池北朝 降参の後人臣に列し後醍(ゴダヰ)院越後守良宗と名の り九州に漂白して死去のよし後醍院系図に見 ゆ懐良は後醍醐天皇第十四の御子にて後村上」二八オ 院のさし次の御弟也明史名山蔵などには良懐 とあり ○天野信景塩尻一の巻に尾張津嶋牛頭天皇ノ祠ノ社 傳ニ欽明天王ノ元年鎮座云〻〈不レ見エ二日本紀ニ一牛頭天王ノ名此時未レ有ラ〉改 暦雜事記ニ聖武帝ノ天平五年吉備皈朝於テ二播磨ニ一逢フト二牛 頭天王ニ一廣峯社記及ヒ峯相記同シレ之ニ按ニ續日本紀無シ二此 説一吉備津嶋社記ニハ嵯峨帝再建ト云々〈日本後紀類聚国史等無下建二牛 頭天王祠一事上當時夭疫多シ然トモ亦無下祭二牛頭天王ヲ一説上〉清和帝貞観十一年以二津 嶋天王一勧二請スト山城ノ國祇園ノ社一三代實録無シ二此ノ説一二十 二社註式及ヒ改暦雜事記峯相記廣峯古證文皆以二」二八ウ 播州飾磨郡廣峯ノ牛頭天王一為二京師祇園ノ本祠ト一凢國 史無シ二牛頭天王ノ之事一然ハ則中世以後所レ祭欤東鑑ニ見エ二 尾州津島ノ社ノ名一と見えて定説なし ○倭訓栞に津嶋午頭天王の社は嵯峨天皇の御宇 祠を建ツされど神名式には載せず神主の初は尹 良親王の二男良新王より起るといふ智證大師 の傳にも見えたれば由来久しとあるは浪合記 に依て書たる也尹良新王は尹良親王に作るべ し智證大師の傳に見えたりといふは津嶋神の 事にて神主を指せるにあらずさて津島牛頭天」二九オ 皇の事三善清行朝臣の天台宗延暦寺座主円珍ノ 傳今昔物語ノ十一の十一語元亨釋書ノ三の巻の傳 などにはみえねど圓珍山王明神を祈りしを神 社考に素戔嗚神のよしいへるに起れる説なる べし津島の名は名寄の長明か歌夫木の中務の みこのうた宗長手記名所方角抄などにみゆ南 朝系図を作りて御覧ニ入候 ○南朝系図〈按ニ南朝之称始テ見ユ二于太平記十九巻青原軍ノ条ニ一焉〉 (二行空白)」二九ウ 後宇多院第二ノ皇子母ハ談天門院藤ノ忠 ○後醍醐天皇子内大臣師経公ノ養女実ハ参議忠継卿ノ 女也也正應元十一二降誕御諱尊治文保三二 廿七践祚延元四八十六崩葬于吉野塔尾山 陵宝筭五十一本朝皇胤紹運録増鏡皇年 代畧記太平記 尊良親王母冷泉為世卿女贈三位為子慶長元誕 生一品中務卿延元三三六生二害于越前 国金崎城一御年廿称二22一宮一紹運録増鏡太 平記 守永親王一品上野太子蓋称二一品宮一或称二宇都 峰ノ宮及ヒ西應寺ノ宮ト一新葉集元弘日記 結城古文書 良玄大僧正母ハ蓋従一位右大臣公顕公ノ女御匣 殿二条関白良基公ノ猶子入二室一條」三〇オ 院一二十四世門跡傳南朝紹運圖 女王母大納言典侍増鏡一本 南朝紹運録圖ニハ為二女王二人一 世良親王母参議實俊卿ノ女遊戯門院ノ一条上野太 守又太宰ノ帥元徳二九十七薨称二河端宮一 紹運録増鏡常楽記 女王紹運録 護良親王母ハ民部卿ノ三位大納言師親卿ノ女二品天 台座主兼二梨本大塔両門跡一故称二大塔宮一 元弘元還俗同三征夷大将軍建武二七廿三 為二足利直義一被レ害二於鎌倉一紹運録太平記 陸良親王一本紹運録圖作二常良一母北畠准后親房 卿妹征夷大将軍正平十五年謀反自害」三〇ウ 太平記寺院文書纂櫻雲記紹運圖南方 記傳按ニ石川忠総自記ニ遊行十二代上人ハ大塔 宮ノ御子云〻甲府一蓮寺系圖遊行十二代尊 観上人亀山院ノ御子常盤井殿一品式部卿恒 明云〻常盤井殿第四子遊行十二代上人尊 観云〻此与二石川記之説一相矛盾 女王母ハ竹原八郎女 太平記 宗良親王母ハ同二尊良一正和二誕生天台座主尊證延 元元還俗一品中務卿名二宗良一征東将軍 天授三落飾元中二八十薨二于遠江國井伊谷一 年七十三新葉集者称二信濃宮一或上野親王 新葉集太平記天台座主記信濃宮傳 興良親王母ハ狩野介貞長女天授三九月薨二于京 都一新葉集李花集信濃宮傳」三一オ 尹良親王母ハ知久四郎左衛門敦貞女或云井伊 介道政女於二信濃國一生害浪合記 女王一本南朝紹運圖大橋三河守定省室 良王母ハ世良田政義女住二于尾張津嶋一 大橋氏ノ祖浪合記 良新母同二良王一 信重母ハ大橋貞元女 静尊法親王母ハ参議實俊卿女初ノ諱恵尊又尊珍 嘉暦三正晦親王宣下聖護院御入 室紹運録釋家官班記」三一ウ 恒性法親王大寛寺23御入室元弘三十九於二越中國一 為二北條一被レ害称二越中宮一紹運録門跡 傳太平記 滿良親王母ハ中納言宗親卿ノ女親子元弘三誕生称二 花園宮一後落飾号二無文選24禪師一渡元帰朝 之後歴中25七閏三廿二於二遠江国一入寂年六十 凢無文元選禪師行状元弘日記佐伯杏仙蔵 古文書 恒良親王母ハ新待賢門院正中元誕生建武元正廿 三立坊延元〻十月北國下降同三七十 二為二足利尊氏一被二鴆殺一年十五太平記紹運 録増鏡 成良親王母同レ上正中二誕生建武元鎌倉下向号二 將軍一亦上野宮同三七月為二尊氏一被二鴆殺一 年十四太平記紹運録 看良親王」三二オ 尊親法親王又名二果尊一母ハ少納言ノ内侍四条隆資卿ノ 女紹運録新葉集 法仁法親王母ハ従三位為道卿ノ女正中二誕生初ノ諱ハ 躬良又省良仁和寺御入室正平六二 廿二叙二二品一同七十廿五遷化年廿八紹運 録仁和寺御傳 人皇九十六代 ○後村上院諱ハ義良母ハ新待賢門院廉子嘉暦三九月│ │降誕元弘三親王宣下延元〻御元服三│ │品陸奥太守同三八十七御即位正平廿三三│ │十一崩御年四十一神皇正統記太平記元│ │弘日記鳩嶺雑事記花営三代記│ ││ │懐良親王母ハ従三位為道卿延元中九州下向居二│ │于肥後国八代一元中中薨号二牧宮一或阿蘇│ │宮鎮西宮高田宮九州宮征西将軍宮太平記│ │紹運録後醍院系圖按明史名山蔵等ニ諱ヲ作二│ │良懐一」三二ウ│ │良宗母ハ菊池武光妹正平十五誕生後号二後醍院│ │越後守一死二于九州一後醍院系圖│ ││ │良忠後醍院伊豆守其子孫仕二嶋津家一│ │後醍院系圖│ ││ │聖助法親王母ハ少納言内侍菅原在仲卿ノ女│ │聖護院御入室紹運録│ ││ │玄圓法親王母ハ従二位守子後ノ山本左大臣ノ女一乘│ │院御入室紹運録諸門跡譜│ ││ │皇子母ハ中納言典侍親子宗親卿ノ女│ │紹運録│ ││ │皇子母同二護良一紹運録」三三オ│ ││ │皇子母同二法仁一阿蘇宮│ │紹運録│ ││ │皇子母ハ昭訓門院ノ近衛│ │紹運録│ ││ │懽子内親王母ハ後京極院為二伊勢斎宮一後光嚴院ノ中│ │宮其後称二宣政門院一入二于保安寺一落飾│ │紹運録増鏡女院小傳新葉集作者部類│ ││ │准后紹運録│ ││ │祥子内親王母ハ新待賢門院元弘三為二伊勢斎宮一称二│ │前斎宮一後入二于保安寺一落飾号二長慶門│ │院一歴代皇記新葉集紹運録作者部類南朝│ │紹運圖│ │妣子内親王女同二護良一今林尼衆│ │紹運録」三三ウ│ │帷子内親王一品異本紹運録│ │作二懽子一│ │欣子内親王母新待賢門院今林尼衆号二鷲尼一│ │紹運録作者部類│ │皇女母同二世良一今林尼衆│ ││ │皇女母ハ遊義門院ノ左兵衛督ノ局為忠卿女│ │今林尼衆紹運録│ ││ │皇女母同二尊良一│ │紹運録│ │皇女紹運録│ ││ │皇女紹運録」三四オ│ ││ │皇女母後宇多院権中納言女房│ │紹運録│ ││ │皇女母基時女│ │紹運録│ ││ │皇女母民部卿局関白基嗣公室│ │後離別紹運録│ ││ │皇女母一品實子山階左大臣女│ │紹運録│ ││ │皇女母大納言局│ │紹運録│ ││ │皇女母坊門局│ │紹運録│ │皇女母後室町院│ │紹運録」三四ウ│ │皇女母同二法仁一26│ ┌──────────────────────────────┘ │人皇九十七代 ○│後亀山院母嘉吉門院福恩寺関白ノ女也諱凞成正 │平廿三三月御即位元中元27閏十月与二北 │朝一御和睦之後住二于嵯峨大覺寺一應永元二廿 │二28太上天皇即日御落飾法ノ諱覚理灌頂又ハ金 │剛心同卅一四十二崩宝筭未レ詳紹運録和 │漢合運吉野拾遺椿葉記皇年代畧記 │長慶院母同上諱寛成 称二玉川宮一花咲松 尊聖大僧正日本史 惟成親王母大蔵卿局中努卿又式部卿又太宰帥 落飾之後号二梅陰祐常一古今系圖新葉 集五百番歌合」三五オ 秦成親王母ハ同二後亀山院一正平十五年誕二生於住吉一 太宰帥及式部卿後為二後亀山院太子一元 中〻薨新葉集南朝紹運圖 世恭親王母ハ従二位教子 説成親王母ハ新待賢門院ノ冷泉上野太守号二護性院 宮一或五常院宮南帝系圖諸門跡譜 圓悟大僧正母ハ楠正儀女住二于圓満院一 諸門跡譜 帥成親王兵部卿出家シテ号二恵梵一 新葉集李花集奥書 良成王鎮西ノ宮古系圖 憲子内親王一品宮 新葉集」三五ウ 皇子 小倉宮御母中宮信子土御門右大臣顕信卿女也 住二于嵯峨一椿葉記 教尊大僧正諱ハ恭仁後勧修寺ニ御入室大僧正兼二安 詳寺ノ々努一椿葉記諸門跡譜 尊義王万壽寺ノ宮空因還俗シテ称二尊義王二嘉吉三九廿 三乱二入于北朝内裏一簒二神器一後敗死ス椿葉 記櫻雲記南方記傳 尊秀王母ハ色川左兵衛盛定女也一宮又称二自天親 王一長禄元於二吉野山一被レ害上月記南方記 傳後崇光院御記 忠義王二宮或称二河野宮長禄元於一吉野山一被レ害 上月記南方記傳」三六オ 尊雅王長禄二六月被レ害 上月記 ○系統未詳之分 最恵法親王南朝紹運圖後酉酉ノ29皇子母ハ山本左大 臣ノ女新葉集異名見ユ一説ニ玄圓法 親王御周人云〻 深勝法親王亀山院ノ御孫父ハ常盤井式部卿恒明親王 為二後村上院御猶子一後住二于相 模藤沢山一遊行十二代上人称二南門跡一新葉 集紹運録南朝紹運圖按ニ甲府一蓮寺遊行十 二代上人系圖ニ常盤井恒明御子弟一ハ帥親王 全仁第二ハ酉酉寺ノ座主二品親王深勝第三ハ酉 酉寺ノ座主一品親王杲尊第四ハ遊行十二代上 人尊観為二後村上天皇之太子一云〻 仁譽法親王深勝法親王ノ御弟東南院入室 新葉集紹運録南朝紹運圖」三六ウ 懐邦親王一本南朝紹運圖後二条院皇孫式部 卿邦世親王子天野信景説ニ為二後酉酉ノ 皇子一 尊融禪師南朝紹運録為二後酉酉ノ皇子一 保安寺ノ宮春蘭和尚 石見宮正平七五十一於二八幡山一被レ討 豫章記 植田宮後愚昧紀ニ云天授三八十一故宮僧正ノ御 子植田宮於二鎮西一被レ討 高田宮應永ノ初起二兵ヲ於東國一軈而自害 陸奥河沼郡牛澤組塔寺澤八幡宮長帳 右南朝系圖取二捨シテ花咲松南山巡狩録残櫻記等ノ之 説一而作レ之 第十三宰相大将」三七オ ○源氏物語葵の巻〈湖月抄本第一頁〉にたゞ春宮をぞいと 恋しうおもひきこえ給御うしろみのなきをう しろめたうおもひきこえて大将の君によろづ きこえつけ給ふもかたはらいたきものからう れしとおぼすまことやかの六条の御息所の御 はらの前坊の姫宮菊宮にゐたまひにしかば大 将の御心ばへもいとたのもしげなきを云〻 ○河海抄〈葵の条〉に源氏参議ノ大将ノ事天平神護元年改二 授刀一衛為二近衛府一平城天皇ノ大同二年四月廿二日 改ム二近衛一大将藤原ノ朝臣内麻呂ヲ〈大納言真楯男〉為二左」三七ウ 近衛大将一改ム二中衛ヲ一大将坂上ノ田村麻呂ヲ〈従三位葛田 丸男〉為二右近衛大将ト一 参議兼ル二大将ヲ一例 〈右大臣不比等男〉藤原房前〈中衛大将〉 〈左大臣武智丸男〉同豐成〈中衛大将〉 〈右衛士ノ府生國勝男〉吉備真吉備〈中衛大将〉 〈参議乙丸男〉藤原ノ是公〈同上〉 〈右大臣清丸男〉大中臣ノ諸魚〈近衛大将〉 〈右大臣是公男〉藤原ノ雄友〈中衛大将〉 〈大納言真楯漢〉同内麿〈近衛大将〉」三八オ 〈正四位下大原男〉文屋綿麿〈左近衛大将〉 〈右大臣内丸男〉藤原ノ冬嗣〈左近衛大将〉 〈右大臣継縄男〉男乙(タク)叡(トシ)〈中衛大将〉 〈兵部卿網継男〉藤原ノ吉野〈左近衛大将〉 〈贈太政大臣清友男〉橘氏公〈右近衛大将〉 〈右大臣良相男〉藤原ノ常行〈右近衛大将〉 〈右大臣師輔男〉同伊尹〈左近衛大将〉 ○花鳥餘情〈葵の条〉に源氏の君を大将といふこと此巻 よりはじまる也大将は参議より丞相までも兼 帯する職也源氏は此時参議ノ大将なり云〻」三八ウ ○源氏物語ノ若菜の上巻〈湖月抄本第九頁〉に廿がうちには 納言にもならずなりにきかしひとつあまりて や宰相にて大将かけ給へりけん云〻 ○栄花物語ノ布引瀧の巻〈印本十九の巻廿一頁〉に大将にはと のゝ三位中将宰相にならせ給て大将かけさせ 給ひつ云〻〈按承保四年四月九日藤師通参木大将になられしことなり〉 ○公卿補任ノ白河院ノ承保四年〈十一月十七日改元承暦〉の条に参 議正三位藤ノ師通三月廿七日任二正中将一四月九日 兼二左近衛大将一十二月十三日任二権中納言ニ一十六云 々〈按に補任ノ中ニ此外参木大将の所見あり〉」三九オ ○官職秘抄〈上巻〉参議の条に兼ル二大将ヲ一例氏公常行二條 關白内大臣云〻〈按に氏公は右大臣橘氏公也常行は藤冬嗣公孫良相公男なり 関白内大臣は後二條関白師通公也承暦元三廿七任二参議一同四月九兼二左大将一〉 與清按に宰相大将とも参議大将とも通(カヨ)はし書 るは宰相は参議の別名なれば也寛正本ノ職原抄ノ 首書〈奥書に寛正五年甲申五月上旬之條以二権大外記隼人正ノ家ノ本ヲ一書冩讀合了とあり余が許 に物学せらるゝ渡邊輳ぬしの家に祕傳せられたり〉に書二此官ヲ一則参議ト書レ之 呼フコトハ二其人ヲ一則曰フ二宰相殿ト一也有テ二八人一而紛シキコトハ則加ヘテレ氏ヲ呼ブ二゙宰 相藤゙宰相ナト一也云〻首書ノ印本に書ク二位署ヲ一時ハ参議也也呼フ レ名ヲ時ハ宰相也書ク時或ハ源参議菅参議呼フレ名ヲ之時ハ藤゙宰30」三九ウ 相平゙宰31相也也人多キカ故ニ以テレ氏ヲ別ツ云〻と見ゆ漢土の宰 相は上相の事にて其義は高承が事物紀原〈四の巻〉 にくはし本朝宰相の名始て續日本紀〈十の巻神亀五年三 月丁未の段〉に出たれど公卿にわたれる称にて参議 にかぎらねは参議の別名に定めいへるはそれ より後なるべし参議は職員令に大納言四人掌ル レ参二議スルコトヲ庶ノ事ヲ一義解に謂ハ與二右大臣以上一共ニ参二議スル也天下之 庶事ヲ一云〻續日本紀〈二の巻大宝二年五月丁亥の条〉に勅シテ二従三位 大伴ノ宿祢安麻呂正四位下粟田朝臣眞人従四位 上高向(ムコノ)朝臣麻呂従四位下下毛ノ朝臣古麻呂小野ノ」四〇オ 朝臣毛人ニ一令ムレ参二議セ朝政ヲ一云〻などあるは定れる官 名とも聞えず公卿補任に大寳二年以後代々参 議の官ありしゆえに記されたれどこは後の書(カキ) 續(ツギ)の条なれば信(ウケ)かたし補任〈霊亀三年十一月十七日改テ為二養老元年一〉 に霊亀三年十月廿日従四位下藤朝臣房前任二参 議一云〻續紀〈十一の巻天平三年八月丁亥の条〉に依テ二諸司ノ擧ニ一擢テ二式部 卿縣(アガタ)守(モリ)兵部卿従三位藤原朝臣麻呂大蔵卿正四 位上鈴鹿ノ王左大辨正四位下葛城ノ王右大辨正四 位下大伴ノ宿祢道(ミチ)足(タリ)六人一並ニ為二参議ト一云〻なとある」四〇ウ を実任の始とやすべきまた権参議准参議非参 議あり権参議は續紀〈十の巻天平元年二月壬申の条〉に以テ二太宰ノ 大貳正四位上多治比ノ真人縣守左大辨正四位上 石川ノ朝臣石足禅正ノ尹従四位下大伴ノ宿祢道足一権ニ 為ス二参議ト一云〻補任〈神亀六年八月五日改テ為二天平聖暦元年一〉に神亀六年 二月日多治比真人縣守任二権三木一三月二日叙二従 三位一兼ヌ二太宰大貳ヲ一云〻また天平三年八月日従三 位藤原ノ朝臣麻呂任二権参議一云〻官職秘抄〈上巻〉参議 の条に権参議ノ例天平元年云〻〈按に元年は三年の誤也〉など 見ゆ准参議は補任〈平城天皇の条〉大同元年閏六月三」四一オ 日従四位吉備ノ朝臣和泉任二准参議一云〻官職秘抄〈上巻〉 参議の条に准参議ノ例大同元年云〻とあり非参 議は一概にいひがたしそは位に就(ツキ)て云フと官に 就(ツキ)ていふとの二種(フタクサ)あり三位以上の人の官なく て位ばかりなるをいふ一(ヒトツ)なり最初より官に任 ぜず位ばかり進(スヽミ)たる亡(バウ)三位以上と官をば辞し て位ばかりになりたる散三位以上とを共に非 参木と称す又参木の官に任じたる人の致仕(チジ)し32 して前官にてあるは四位にても非参議の例也 これらは位に就(ツキ)ていふ非三木にて職原抄ノ近衛」四一ウ 大将ノ篇の首書に二三位以上ノ之人無キヲハ二官職一者都テ曰フ二 非参議ト一但前ノ宰相ハ雖トモ二四位ト一又是レ非参議ノ之列也也 太宰大貳の篇に所謂ル非参議ノ四位是也也といひた るにて明(アキラカ)也又位は四位にても参木に任ずべき 人のいまだ参木に任ぜずしてあるほどをいふ 二ツなり源氏物語帚木の巻になま〳〵のかんだち めよりも非三木の三四位どもの世のおほえく ちをしからずもとのねざしいやしからぬか云 云これは三木已上を公卿としてそれに對(ムカヘ)て三木 ならぬ家族(イヘガラ)のものを非三木の三四位といへる」四二オ 也〈若菜の上巻にも非参木の四位とあり〉同書ノ竹川の巻に右兵衛ノ督ノ 右大弁にてみな非参木なるを云〻是は三木に 任ずべき人のいまだ任ぜざるほどをいへる也 〈藤の33裏葉の巻にも非参木のほどなにとなきわか人こそふたあゐはよけれど有〉職 原抄ノ蔵人所の篇に非参木ノ大弁とあるも同義也 試(コヽロミ)にいはゞ左右ノ大弁左右ノ中将左右ノ衛門ノ督左右ノ 兵衛ノ督蔵人ノ頭年労ある左中弁式部大輔の御侍(ジ) 讀(ドク)たる人〈本朝文粋六の巻正四位下式部大輔菅原ノ文時の請状に非参議ノ之四位ノ中文時 已ニ為二第一一也ともみえたり〉などみな非参木の四位也これら は官に就(ツキ)ていふ非三木也参議はもと朝政に参(マジハリ)」四二ウ 議(ハカル)よしの称にてその朝政に與(アヅカ)らぬは非参議也 また参議の官に任ずべき人のいまだ任ぜざる ほど或は位階のみ進(スヽミ)たるなども非参議34にて公 卿補任に従三位長屋ノ王和銅二年十一月一日非 参議云〻従三位藤原ノ朝臣武知麻呂養老二年非 参議云〻従三位藤原ノ朝臣宇合(ウマカヒ)神亀三年正月七 日非参議云々従三位藤原ノ朝臣弟真天平四年正 月非参議云〻などおほかり参議権参議非参議 を並置(ナラベオカ)れし事も見ゆ寶積類書〈十二の巻官職部〉に圓城 寺殿ノ類聚抄ニ非参議弄花ニ云ク不ルレ任セ二参議ニ一二三位之人」四三オ 又公卿ノ前官共ニ称二非参議ト一畢竟不ルレ預二大政官之政務ニ一 人之事也也花鳥餘情ニ云ク不ルレ任二参議一三位四位称ス二非参 議ト一ともありかく官位に就(ツキ)て非三木の称あるを 分別すべし参議の字面漢書ノ公孫弘カ傳に與リ二参ル謀 議ニ一云〻母将隆カ傳に與リ二参ル謀議ニ一云〻匡衡カ傳に與リ二参ル 事議ニ一云〻などみえたれど直(タヽチ)にいへるは後漢書ノ 賈復カ傳に與二公卿一参二議ス國家ノ大事ヲ一云〻班固カ傳ノ下に 為シテ二中護軍一與ニ参議ス云〻董均カ傳に輙チ令シテ二釣35参議一云〻 晋書ノ孝武ノ定王皇后ノ傳に臣等参議ス云〻周書ノ竇熾カ 傳に常ニ與ニ参議ス云〻などあるを出処とす又参議」四三ウ を八座といへるも別名也職原抄〈上巻〉参議の条に 八座トハ者異朝ノ八座トハ其職各別也也本朝ハ聖武天皇ノ天平 三年置ク二参議一大同ノ御宇罷テ二参議一置ク二五畿七道ノ観察使一 〈合八人〉弘仁ノ御宇罷テ二観察使一皆為二参議一云〻八人ナルコト自レ此 而始ル依テレ之ニ有リ二八座之號一云〻百寮訓要抄に参議云 云是はむかしより八人當時も子細なし八座と 申也云〻故實拾要〈十二の巻〉参議の条に當官を八座 ノ臣ト云フ是レ非ズ二唐名ニ一八人八疊ニ列座ス故ニ八座 ノ臣ト称ス云〻文徳實録ノ八の巻〈齋衡三年四月庚寅の条〉に 恨ラレ不ルヲレ登ラ二八座一云〻本朝文粋ノ六の巻〈菅三品請二従三位一状〉に伏」四四オ 檢故實儒者之式部大輔以十年已下勞必拝八座 之例云〻など見ゆ漢土の八座は晋書職官志に 後漢光武以三公曹主歳盡考課諸州郡事改常侍 曹為吏部曹主選舉祠祀事民曹主繕脩功作鹽池 圍苑事客曹主護駕羗胡朝賀事二千石曹主辭訟 事中都官曹主水火盜賊事合為六曹拝令僕二人 謂之八座尚書雖有曹名不以為號靈帝以侍中梁 鵠為選部尚書於此始見曹名及魏改選部為吏部 主選部事又有左民客曹五兵度支凢五曹尚書二 僕射一令為八座云々唐六典〈一の巻尚書令の条〉に後漢以二」四四ウ 尚書令僕射及ヒ六曹尚書一為ス二八座ト一云〻今ハ則以テ二二丞 相六尚書ヲ一為ス二八座ト一云〻杜氏通典〈廿二の巻歴代尚書八座附の条〉 に八座ハ後漢以二六曹尚書一拝二令僕二人一謂二之八座一魏 以二五曹尚書二僕射一令一為二八座一宗斎八座與レ魏同 〈晋梁陳不レ言二八座之数一〉隋以二六尚書左右僕射及令ヲ一為ス二八座ト一大 唐與レ隋同云〻〈文献通考五十二の巻職官考説亦同〉此外所見おほ かれど本朝の八座と異(コト)也又相公といふも参議 の異名也いにしへ善相公藤相公澄相公菅相公 野相公江相公〈已上本朝文粋所見〉などきこえ故實拾要〈十二 の巻参議の条〉に相公ト云モ参議ノ非ス二唐名ニ一といへりこ」四五オ れも漢土にては丞相を尊称せる也文選〈廿七の巻行旅 下〉王仲宣か従軍ノ詩に相公征ス二関右一注に善カ曰ク曹操 為ルガ二丞相一故ニ曰ク二相公ト一也とあるにて知べしさて参議 の和名は和名抄〈五の巻職官部〉に本朝式員令ニ云ク参議於(オ) 保(ホ)万(マ)豆(ツ)利(リ)古(コ)止(ト)比(ヒ)止(ト)とみえたるを北山抄袋草紙 軄原抄ノ聞書寶石類書などやうの書にマツリゴ トマウチギミ或はマジハリハカルなどよめる は誤也高大夫實無が百寮倭歌に参議を〽よみ かける道に賢き名を得つゝものしり人や今ぞ みしらんとよめり36後拾遺集序にやくものつか」四五ウ さにそなはりて云〻藻塩草〈十五の巻人倫異名部〉に宰相 やくものつかさ云〻異名分類〈二の巻人倫部〉に八座軄(ヤクラノツカサ) 欤云〻綺語抄〈中巻官位部〉にもろゆき宰相をいふ云〻 第十四いわちどりいわサいわけなきすゞ は小きをいふ長洲の濱名草の濱千鳥 ○兼輔卿ノ集に女のうらみてなきけるに〽いわ千 鳥あやなかるねはたれゆゑにながすの濱のな かずもあらなん女かへし〽物思ふなぐさの 濱のいわ千鳥なくさむ間にぞなきまさりける 松永氏〈貞德〉云〈歌林樸樕一の巻〉岩千鳥ハチトリノ名也云」四六オ 云與清曰此説ひがこと也貫之朝臣自筆の本〈堤中納言 集〉にもいわちどりと書れて岩(イハ)とは假名たがへ り濱千鳥浦千鳥河千鳥などはその住(スミ)所(ドコロ)により ておほせし名なれど岩千鳥といひてはことわり きこえず今按にいわ千鳥は驚(オドロ)きさわぐよりい へる名なるべし日本紀雄略紀〈前紀〉に駭惋イワケ アワテヽ云〻安閑紀〈元年〉に驚駭イワケテ云〻皇 極紀〈二年〉に喘息イワケテ云〻なとみな驚きさわ ぐ37意の字をいわけと訓(ヨミ)たり〈釈日本紀秘訓同〉さて轉(ウツ) りては物語書に幼稚をいわけなきといへるも」四六ウ 物におとろきやすきよしの名也源氏物語ノ紅葉 賀に心なげにいわけてきこゆるはなどさぶら ふ人にもきこえあへり云〻夕霧になほいとい わけてつよき御心おきてのなかりける云〻繪 合にゆめにもいわけたる御ふるまひあらばこ そ云〻螢にいわけたるひゞなあそびなどのけ はひの見ゆれば云〻栄花物語かゞやく藤壺に いわけたることなく云〻などあるも幼くこめき たるさまをいへり契沖阿闍梨〈源注拾遺二〉いわけ といへるはいわけなきなればいわけなきもな」四七オ きは付たる字にておほけなきの類也無(ナキ)の字の 心にはあらぬなるへし云〻谷川氏〈士清〉云〈倭訓栞三〉い わけなき幼稚を物にかくいへりいとけなしと おなじ物におどろきやすき時なれば驚駭をい わけといふ義に通へりいわけてとも侍れば是 もなきは助の詞なるべし云〻師説〈春海翁〉云〈假字拾要〉 伊(イ)は宇(ウ)比(ヒ)の約にて稚(ワケ)の義和氣(ワケ)は若(ワカ)の義にてう ひわかきといふ詞ならん欤駭の字をいわけて と讀るもをさなき人は物におどろきやすきも のなれはおどろくことをいわけといふにやとも」四七ウ おもはるされと此詞さだかにはいひがたし猶 正しき證を得るをまつべしまた紀に喘息の字 をイワケと訓るはおどろくをイワケといふよ り轉(テン)じたる訓と見ゆイワケハ息涌(イキワク)の義欤イキ をイとのみいへることもワクをワケとかよはし いへることも古語おほし喘息の字をよめるが此 語の本義なるべしさて物におどろく時はいき づかひなともあらげになるものゆゑ驚(オトロ)くことに もいひ又をさなき人は心しづまらでいきづか ひなどしづかならねばをさなき事をもしかい」四八オ へる也云〻與清曰いわけなきといふ詞三代實 録の宣命に幼少〈八の巻卅六の巻〉幼稺〈廿九の巻也〉などの字を 訓(ヨミ)たりされどこれはイトケナキとも訓(ヨミ)つべし 古今六帖〈三の巻〉に〽あふことのかたよせにするあ みの目にいわけなきまで恋かゝりぬる夫木抄 〈雜十六〉に知家〽世の中はいわけなき子のおもぎ らひ見しがなきにはねこそおかるれ38などよめ り物語の詞に見えたるは舉(アゲ)つくすへからず是(コレ) 等(ラ)を思ひわたしていわ千鳥は駭(イワ)千(チ)鳥(トリ)の義なる ことしるべしいわはよわと通ひて心よわく驚き」四八ウ さわぐよしの詞ときこゆ萬葉集〈七の巻〉に〽佐(サ)保(ホ) 河(カハ)爾(ニ)小(アソ)驟(フ)千(チド)鳥(リノ)夜(サ)三(ヨ)更(フケ)而(テ)爾(ソノ)音(コエ)聞(キケ)者(バ)宿(イネ)不(ラレ)離(ナク)爾(ニ)とあ る小驟千鳥をアソブチドリノと訓(ヨメ)る古訓うけ がたし驟は説文に馬ノ疾歩也也玉篇に奔也也詩ノ小雅ノ 注に小ク疾キヲ曰フレ驟トまた凡ソ疾速ヲ曰フレ驟トなと見え雄略紀 〈前紀〉に驟ハシリテとも訓たれは雉のさをども鮎(アユ) のさばしるなとにむかへてサバシルチドリと も訓(ヨム)べく又イワケチドリとよまんもしかるべ し駭(オドロキ)てさばしりさわく義なれば也壬生ノ忠岑の 〈夫木抄夏二〉〽夏川のいはねをわくるいわ千鳥つひ」四九オ にさてやは世をば過さんとよめる歌によりて 岩根をわくる物なれば岩千鳥といふと思ふへ からすわとは39通音なればかくいひ重(カサネ)ねたるの みにて古歌に例おほし此歌の意は岩根のかた きをわくるいわ千鳥のごとく思ふを通らでや通 すらんとよめりいわ千鳥によわといふ詞をよ せて女の心づよきに己が心よわきよしをそへ たる也又清輔朝臣〈家集〉の水草隠スレ橋といへる題に て〽まこも草たづきもしらず成にけりいわけ のすゞや沼のまろ橋といふ歌ありいわけのす」四九ウ ずは弱(ヨワ)気(ケ)のすゞにてまこも草の力(チカラ)なきさまな るをいふ欤すゞとは草木のしげりたるをいふ 詞にてすゞめがくれ〈曽丹集〉すゞめとなれるかげ 〈山家集夫木抄夏二〉などよめりそはしゞの通音にてしげ みの事をいふしゞとは繁(シゲ)きをいへるにてしゞ ね〈散木集〉などもおなじ此しゞねすゞめのゆゑよ しは末にいふべし此歌の意はまこも草の便(タヅキ)もし らぬばかり生(オヒ)しげりたればそのよわげなるす ずのしげみの上をや橋にはかへて渡るべきさ れどたふれまろひぬべく思ふよしをよせてま」五〇オ ろばしとはよまれしなるべしそれに篠(シノ)をもす ずといへはやがて篠(シノ)にとりなして射分(イワケ)の篠(スヾ)矢(ヤ) とよせられたりとも聞ゆさてはしめの兼輔朝 臣の歌の意は女をいわ千鳥にたとへていわ千 鳥よしる40あやなく無益に泣音たつるは何ゆゑ ぞなかすの濱といふもあるに濱は千鳥の栖處(スミカ) なれはそこの名を思ひて泣(ナカ)ずあれかしとよみ かけられたる也女のかへしの意は名字の濱と いふ名によりて物おもひもなぐさむやとおも ふに中〳〵なげかれていよ〳〵泣(ナキ)まさると也な41か(〃)」五〇オ すの濱は日本紀〈履中紀五年〉に出テテ二於是渚(スノ)崎(サキニ)一令ム二祓(ハラ)除(ヒセ)一云 云谷川氏〈士清〉云〈通紀十七の巻〉摂津ノ國河邊郡ノ長洲村云〻 拾遺集〈恋一〉よみ人しらず〽人しれずおつる泪は つのくにのながすと見えで袖そくちぬるまた 〈恋五〉よみ人しらず〽こひわびぬかなしきこともな くさまんいづれながすの濱べなるらん空穂嵯 峨院に〽しほたるゝことこそまされ世の中を思 ひなかすのはまかひなくて相模家集に〽いの ちだにながすにあらはつのくにのなにはのこと そうれしかるべき又〽つのくにのなにはの事」五一オ もおもはずて長洲にあそふたづのよをしれ為 家集〈新撰六帖〉〽わが袖の海となる尾は津のくにの ながす泪のつもり也けり勅撰名所和歌抄出〈濱部〉 に長洲ノ濱ハ摂津ノ河辺郡云〻十四代集名寄〈濱部〉にナ カスノ濱ハ摂云〻歌枕名寄〈十六の巻〉に摂津國ノ長洲ノ濱 云〻類字名所和歌集〈三の巻〉に長洲ノ濱ハ摂津河辺郡 濱河尾云〻陸西遊行囊抄〈三の巻〉に長洲は神崎川 ノ西邊神崎ノ駅ノ南ヲイフ云〻摂津志〈八の巻〉河 邊郡ノ村里ノ部に東長洲中長洲西長洲属ス二一邑ニ一云〻 摂陽群談〈五の巻〉に長州ノ濱川邊郡長河村42ニ属ス云」五一ウ 云此外古歌も古書の所見もあまたあれどふよ うなれば引出ず名草の濱は和名抄〈五の巻〉の紀伊國ノ 郡名に名草奈久佐国府云〻日本紀〈神武紀〉に六月 軍至テ二名草ノ邑一則誅二名草戸畔(トベ)者ヲ一云〻〈旧事紀同〉舊事紀〈四の 巻〉に紀伊ノ名草姫ヲ為レ妻云〻また〈五の巻〉紀伊ノ國ノ造智 名曽ガ妹名(ナ)草(クサ)姫(ヒメヲ)為レ妻云〻續日本紀〈三の巻四の巻九の巻廿六の 巻卅の巻卅四の巻卅五の巻〉より後の史に名草郡おほく見ゆ 日本後紀〈廿一の巻〉に弘仁二年八月丁丑廃ス二紀伊國萩 原名草賀太三ノ驛一以レ不ルヲレ要ナラ也云〻また〈廿二の巻〉弘仁三 年四月丁未廃二紀伊國ノ名草驛一更置二萩原驛一云〻延」五二オ 喜式〈式部式〉に名草郡為二神郡一云〻萬葉集〈七の巻〉に〽名(ナ) 草(クサ)山(ヤマ)事(コト)西(ニシ)在(アリ)来(ケリ)吾(ワガ)恋(コフル)千(チ)重(ヘノ)一(ヒト)重(ヘモ)名(ナ)草(クサ)目(メ)名(ナ)國(クニ)後撰集 〈恋三〉よみ人しらず〽きのくにの名草の濱は君なれ やものいふかひありときゝつる夫木抄よみ人 しらず〽きのくにのなぐさの濱に貝ひろふあま のめざしのおとゝなりせば新撰哥枕〈八の巻〉有家 〽思ふことしばしなくさの濱千鳥あとこそかよへ 和歌の浦浪此外古歌おほかれと證にすべから ぬをば引出ず紀路歌枕抄に名草浦山名草郡紀 三井寺村の山をいふ浦山共に此所也云〻玉勝」五二ウ 間〈九の巻〉に名草山は紀三井寺也云〻紀伊名所圖 會〈五の巻〉海士郡部に名草山三井山の惣名也名ぐ さの濱は名草山の西のふもとに有云〻與清曰 千鳥(チドリ)は百(モヽ)鳥(トリ)五百津(イホツ)鳥(ドリ)百千(モヽチ)鳥(トリ)に對(ムカ)へて多(オホク)の鳥を させる名なれど萬葉集に河千鳥夕波千鳥など よめるは一種の物ときこゆ和泉式部家集〈四の巻〉 詞書にはちどりのこゞ43ひとつたてる源平盛衰 記〈卅一の巻〉青山琵琶の条には二羽の千鳥飛出テな ともありこは貝原氏〈篤信〉が千ドリ河海ノ水邊ニ アリ類種44アリ其形鶺鴒又鴫ニ似タリ〈大倭本草十五〉と」五三オ いへる物なるべしそは百千鳥もあまたの鳥を □(原本不明いふカ)45なるに又鶯のことくしてよめる歌おほかるが ことし千鳥の歌は瓊(ニ)々(ニ)許(ギ)根(ネノ)尊の濱津(ハマツ)千鳥(チドリ)とよま せたまへるをはじめとす〈神代紀下〉千鳥百千鳥のこと は末にいふべし 第十五多(タ)𡺸(ギ)摩(マ)知(ケ)尒の心の乎与の心の乎大坂 山口がてんかも當麻 ○日本紀〈十二の巻〉履中紀ノ天皇ノ御歌に〽於明佐箇珥阿(オホサカニア) 布(フ)夜(ヤ)烏(ヲ)等(ト)謎(メ)烏(ヲ)游(ミ)知(チ)度沛麼哆駄珥破(トヘバタヾニハ)能(ノ)邏(ラ)孺(ブ)多(タ)𡺸(ギ) 摩知烏能流(マヂヲノル)紀ノ文に爰ニ仲(ナカツ)皇子(ミコ)畏テレ有コトヲレ事将ニレ殺シマツラント二太子一密ニ」五三ウ 與シテ二兵ヲ圍二太子ノ宮ヲ一時ニ平群(ヘグリノ)木(ツ)菟(クノ)宿称物部ノ大前(オホマヘノ)宿祢漢(アヤノ) 直ノ祖阿(ア)知(チノ)使主三(オミミ)人(タリ)啓ス二於太子ニ一云〻不レ信(ウケ)〈一云太子酔以テ不レ起〉 故レ三人扶ケマツリテ二太子ノ不ルヲレ在サ令レ乘(ノセマツリテ)レ馬ニ而逃ゲ之〈一云大前ノ宿祢抱二太子一而乘レ馬〉仲ツ皇 子不シテレ知ラ二太子ノ不ルヲ一レ在サ而焚ク二太子ノ宮ヲ一通夜(ヨモスカラ)火不レ滅(キエ)太子到マシテ二 河内ノ國ノ埴生(ハニフ)坂ニ一而醒(サメ)之(タマフ)顧(カヘリミ玉ヒ)二望難波ヲ一見(玉ヒテ)二火ノ光ヲ一而大ニ驚ク急カニ 馳テ之自リ二大坂一向ヒレ倭ニ至マシテ二于飛鳥ノ山ニ一遇(アヒ玉ヘリ)二少女(ヲトメニ)於山口ニ一問ヲ之 曰ク此山ニ有リヤレ人乎對テ曰執レルレ兵ヲ者(ヒト)多(サハニ)滿(イバメリ)二山中ニ一宣(メクリ)廻(カヘリテ)自リ二當(タキ)摩(マ) 經(チ)一踰(コエタマヘ)之太子於レ是以為(オモホサク)聴テ二少女(ヲトメノ)言ヲ一而得ツトレ免ルルコトヲレ難(ワザ)則(ハヒヲ)歌テ之 曰云〻古事記〈中巻〉履中記に伊(イ)邪(サ)本(ホ)和(ワ)氣(ケノ)命云〻到二于 多遅比(タチビ)野(ヌニ)一而寤(サメマシテ)云〻到二於波迩賦(ハニフ)坂一望(ミヤリ)二見(玉フニ)難波ノ宮ヲ一其ノ」五四オ 火猶(ナホ)炳(アカシ)云〻到(イタリ)二幸(マセル)大坂ノ山口一之時遇(アヒ玉フ)二一(ヒトリノ)女(ヲミ)人(ナニ)一其ノ女人 白之(マウサク)持(モタル)レ兵人(ツハモノヲ)等(ドモ)多(アマタ)塞(セキタリ)二茲(コノ)山ヲ一自リ二當岐麻道(タキマヂ)一廻應(メクリテ)越(マス)幸(ベシト)爾(カレ) 天皇歌シテ曰云〻與清曰ク哆(タ)𡺸(ギ)麻(マ)知(チ)は曲(マガレル)道(ミチ)をいふ紀ノ 文に當摩經と書れしも直(タヾ)路(ミチ)ならぬよし也さい ふよしは常陸風土記に行方ノ郡當麻ノ郷古老曰ク倭(ヤマト) 武(ダケノ)天皇巡行過(スギ玉フニ)二于此郷ヲ一有リ二佐伯(サヘキ)一名曰フ二鳥(トリ)日(ヒ)子(コト)一縁(ヨリテ)二其ノ逆フニ一 レ命(ミコトノリニ)随二便路(ミチユキブリニ)一煞(コロシ玉フ)即チ幸ス二屋形野ノ之頓(トツ)宮(ミヤニ)一車駕所ノレ経ル之道(ミチ)狭(セバク) 地(トコロ)深(フク)浅(アサシ)惡キ路ノ之義謂フ二之ヲ當(タギ)麻(マト)一〈俗ニ云多(タ)〻(ギ)支〻斯〉と見え古事 記〈中巻〉景行記に倭建命云〻到二當藝野ノ上(ウヘ)ニ一之時詔者(ノリ玉ヘルハ) 吾(アカ)心恒(ツネハ)念(オモヘリ)二自(ヨリモ)レ虚(ソラ)翔(ユカント)行一然ルニ今吾(アガ)足(アシ)不シテレ得レ歩(アユム事ヲ)成(ナレリ)二當藝(タギ)斯形(シノカタチ)ヲ一」五四ウ 故レ號(ナヅケテ)二其ノ地ヲ一謂フ二當藝(タギ)ト一也〈美濃國多藝郡〉とあるも御足の曲(マカ)り て舟の舵(タギレ)の如なれる也〈舵(タギレ)はか今の梶(カヂ)也委クかぢ緒(ヲ)の条にいへり〉 出雲國の多(タ)藝(ギ)志(シ)之(ノ)小(ヲ)濱(バマ)も〈古事記上巻〉濱辺の曲(マガ)れる よしの名なるべし當麻(タイマ)46てふ地ノ名も出来(イデキ)し也ま た多伎(タギ)てふ地ノ名神社(ヤシロ)の名など諸国(クニ〳〵)におほかる は曲道(タギマヂ)によれるも瀑布によれるもあるへけれ ば其地を極(キハ)めずては觧(イヒ)がたし多(タ)岐(ギ)麻(マ)の麻(マ)は稲(イナ) 日(ヒ)都(ヅ)麻(マ)佐(サ)〻(ヽ)木津(キヅ)麻(マ)浦(ウラ)末(マ)なとの麻(マ)にて地の廻(マハリ)た るさまを云詞也浦(ウラ)箕(ミ)浦(ウラ)廻(ハ)などもおなじ御歌の 意は大坂に遇(アヘ)る少女に道とへば直(タヾ)路(ミチ)をば告(ノラ)ず」五五オ して曲(マガレル)道(ミチ)を告(ノリ)たるよし也阿(ア)布(フ)夜(ヤ)の夜(ヤ)は助辞烏(ヲ) 等(ト)謎(メ)烏(ヲ)の烏(ヲ)は爾(ニ)の心の烏(ヲ)也また余の心の烏(ヲ)と してもきこゆ仁徳記〈五十年〉歌に和(ワ)例(レ)烏(ヲ)斗(ト)波(ハ)輸(ス)儺(ナ) 云〻允恭記〈十一年〉歌に余(ヨ)留(ル)等(ト)枳(キ)〻(ド)〻(キ)弘(ヲ)云〻萬葉 集三の巻赤人宿祢歌に衣(キヌ)借(カサ)益(マシ)矣(ヲ)云〻六の巻に 不所(オモホヘズ)念来(キ)座(マセル)君(キミ)乎(ヲ)佐(サ)保(ホ)川(カハ)乃(ノ)河(カハ)蝦(ツ)不(キ)令(カセ)聞(ズ)還(カヘシ)都(ツ)流(ル)香(カ) 聞(モ)十五の巻に伊(イ)敝(ヘ)妣(ビ)等(ト)乃(ノ)伊(イ)豆(ヅ)良(ラ)等(ト)和(ワ)禮(レ)乎(ヲ)等(ト)婆(ハ) 波(ハ)云〻これらの烏(ヲ)は尒(ニ)の心也また古事記〈上巻〉に 伊(イ)邪(ザ)那(ナ)美(ミノ)命(ミコト)先(マヅ)言(ノリ玉ヒ)二阿(ア)那(ナ)迩(ニ)夜(ヤ)志(シ)愛(エ)袁(ヲ)登(ト)古(コ)袁(ヲ)後(ノチニ)伊(イ)邪(ザ) 那(ナ)岐(ギノ)命(ミコト)言(ノリ玉ヒ)二阿(ア)那(ナ)迩(ニ)夜(ヤ)志(シ)愛(エ)那(ナ)袁(ヲ)登(ト)賣(メ)袁(ヲト)一云〻素戔嗚(スサノヲノ)尊ノ」五五ウ 御歌〈古事記上神代記上〉に曽能夜幣賀岐袁(ソノヤヘガキヲ)云〻日本武(ヤマトタケノ)尊 の御(ミ)火(ヒ)焼(タキ)之(ノ)老(オキ)人(ナノ)歌〈古事記景行記日本紀ノ景行記熱田大神縁起〉に比(ヒ)迩(ニ) 波(ハ)登(ト)袁(ヲ)加(カ)袁(ヲ)云〻なとは余(ヨ)にかよへる袁(ヲ)なり於(オ) 明(ホ)佐(サ)箇(カ)は坂(サカ)の大(オホキ)なるによれる名にて諸国(クニ〳〵)にお ほし於(オ)佐(サ)加(カ)といふも朋(ホ)を省(ハブキ)ていへるのみそは 小(コ)坂(サカ)長(ナガ)坂(サカ)などいふ地名に對(ムカ)へおもふべしこの 御歌のは大和河内の堺(サカヒ)にて二(ニ)上(シヤウ)山の北を越(コユ)る 道也本居氏〈宣長〉曰〈古事記傳廿五の巻〉若櫻宮の段〈古事記履中記〉に 大坂ノ山口とあるは河内の方より上(ノボ)る口なり又 孝徳天皇の大阪ノ磯(シ)長(ナノ)陵も河内ノ石川郡にて此山」五六オ 〈二上山也〉の西面也さて此道はいにしへはむねと往(カ) 来(ヨヒ)し大道なりしを今はさはかりの大道にはあ らず穴蒸越(アナムシゴヘ)といひて葛下郡穴蒸村と云より河 内国古市ノ郡飛鳥村に到り古市などを経(ヘ)て難波 の方にかよふ道也さて穴(アナ)蒸(ムシ)村(ムラ)に並ひて逢坂(アフサカ) 村と云あるは大坂なるべきを後世にはおほと あふと一ツに唱(トナフ)るから誤りて逢の字を書なるべ し云〻さて此ノ地の古書に見えたるは和名抄〈六の 巻〉大和国ノ葛上郡ノ郷名に大坂云〻〈印本に太坂47と書るは誤なり〉 神名式〈上巻〉大和国ノ葛上郡ノ大坂山口ノ神社云〻〈こは大和」五六ウ の方より上る山口にて此御哥よませ玉へるは河内より上る山口なれば東西の別ありさて和 名抄には葛上郡と見えたるに神名帳に葛上郡と有は堺近きゆゑ此方彼方に隷たることありし にて別処にはあらす〉崇神記〈古事記中〉に大坂神云〻應神記〈古事 記〉に大坂ノ道中云〻履中記〈古事記下〉に到二大坂ノ山口一云 云崇神記〈日本紀五〉に武埴安彦與(ト)二妻(ツマノ)吾(ア)田(タ)媛(ヒメ)一謀反逆(ミカトカタブケントテ)與シテ レ師ヲ忽ニ至ル各〻分(クバリテ)レ道而夫(ヲトコハ)従リ二山城一婦ハ従リ二大坂一共ニ入テ欲レ襲ン二帝(ミヤ) 京(コヲ)一云〻また倭(ヤマト)迹(ト)々(ド)姫(ヒメノ)命云〻箸(ハシニ)撞(ツキテ)レ陰(ホドヲ)而薨(カクレマシヌ)乃葬ル二於 大市一故レ時ノ人号テ二其墓(ハカヲ)一謂二箸(ハシノ)墓(ミハカト)一也是ノ墓ハ者日ハ也人作(ツクリ)夜ハ 也神作(ツクレリ)故運テ二大坂ノ山ノ石ヲ一而造ル48自リレ山至テ二于墓ニ一人民相踵(ツイデ) 以テ手(タ)逓傳(ゴシニシテ)而運ブ焉時ノ人歌テ曰ク〽飫(オ)明(ホ)佐(サ)介(カ)珥(ニ)莬(ツ)藝(ギ)」五七オ 廻(ノ)煩(ボ)倒(レ)屢(ル)伊(イ)辞(シ)務(ム)邏(ラ)塢(ヲ)多(タ)誤(ゴ)辞(シ)珥(ニ)固(コ)佐(サ)麼(バ)固(コ)辞(シ)介(ガ)氐(テ) 務(ム)介(カ)茂(モ)此歌の意は大坂(オホサカ)に継登(ツキノボ)りて重立(カサナリタテ)る磐石(イハ) 群(ムラ)なれどかくおほくの人の手(タ)越(ゴシ)にして箸(ハシ)墓(ハカ)ま て取(トリ)傳(ツタ)へんには遂(ツヒ)に越(コシ)得(エ)んかと也介(カ)氐(テ)務(ム)は得(エ) ん也万葉に不勝不得なとの字をかてなくとよ みて介(ガ)氐(テ)は將(タ)レ勝(ヘン)將(エ)レ得(ン)なといふにおなじ箸(ハシ)墓(ハカ)は 大和ノ城上郡ノ箸(ハシ)中(ナカ)村にありて其間(ソノホト)近からす天武 紀上〈日本紀廿八〉に初メ将軍吹(フケ)負(ヒ)云〻遣二佐味ノ君少(スクナ)麻呂一 率ヰテ二數百人一屯(タムロセシム)二大坂ニ一云〻また聞テ四近江ノ軍至ルト三レ自リ二大坂ノ道一 而將軍引ヰテレ軍ヲ如(ユク)レ西ニ到テ二當(タキ)麻(マノ)衢ニ一云〻また將軍吹負既ニ」五七ウ 定ラ二倭ノ地一便チ越テ二大坂ヲ一往ク二難波ニ一云〻同紀下〈日本紀廿九〉に八 年十一月云〻初テ置(オク)二關(セキヲ)於竜田山大坂〈印本誤て大江と書たり〉 山ニ一仍テ難波ニ築ク二羅城(ソトグルワヲ)一云〻續日本紀〈十五の巻〉に斐(ヒ)太(ダ)ハ始メ以テ二 大坂山ノ沙一治メシ二玉石一之人也云〻三代實録〈二の巻〉に授ク二 大和國従五位下大坂山口ノ神ニ正五位下ヲ一云〻また 〈三の巻〉大和國大坂山口神ニ遣シテレ使ヲ奉ルレ幣ヲ為ニ二風雨ノ一祈ル也焉云 云諸陵式〈延喜式廿一〉に大坂ノ磯長(シナノ)陵云〻新撰姓氏録 〈十七の巻〉に大坂ノ直云〻孝徳帝在リ二河内國ノ石川郡ニ一云〻 萬葉集〈十の巻〉歌に〽大(オホ)坂(サカ)乎(ヲ)吾(ワカ)越(コエ)来(クレ)者(ハ)二(フタ)上(カミ)尒(ニ)黄(モミチ)葉(ハ)流(ナガレ) 志(シ)具(ク)禮(レ)零(フリ)乍(ツヽ)この二上(フタカミ)は神名式〈上巻〉に葛下郡ノ葛木」五八オ 二上ノ神社と見え萬葉集〈二の巻七の巻十一の巻〉にもよめる 歌おほし葛城山のこと也後には音(オン)にニシヤウの 峰とよぶ源平盛衰記〈廿八の巻〉役ノ行者ノ事の条に二上 ノ嶽と書てニジヤウノタケとよみその外もの にこれかれ見ゆ黄(モミヂ)葉(バ)流(ナガル)は紅葉(モミヂ)の散(チル)をいふ哆(タ)𡺸(ギ) 摩(マ)は和名抄〈六の巻〉大和国葛下郡の郷名に當麻〈多以来(タイマ)〉 云〻用明記〈古事記下〉に天皇娶(メシテ)二當(タギ)麻(マ)之(ノ)倉(クラ)首(ビト)比(ヒ)呂(ロ)之(ガ)女(ムスメ) 飯(イヒ)女(メ)之(ノ)子(コヲ)一生(ウミマス)二御(ミ)子(コ)當(タキ)麻(マノ)王(ミコヲ)一云〻用明記〈日本紀廿一〉に元 年云〻葛(カツラ)城(キノ)直(アタヒ)磐(イハ)村(ムラカ)女廣(ヒロ)子(コ)生ム二一男一女ヲ一49曰フ二麻(マ)呂(ロ)子(コノ) 皇(ミ)子(コト)一此レ當(タキ)麻(マノ)公(キミノ)之先(オヤ也)也云〻天武紀下〈日本紀廿九〉に十」五八ウ 三年云〻當麻公賜フ二姓真人ヲ一云〻新撰姓氏録〈二の巻〉 に當麻ノ真人云〻垂仁紀〈日本紀六〉に七年云〻當麻ノ邑ニ 有二勇(イサミ)悍(コハキ)士(ヒト)一曰フ二當(タギ)麻(マノ)蹶(ケ)速(ハヤト)一云〻天武紀〈日本紀廿八〉に到ヲ二當(タキ) 麻(マノ)衢(チマタニ)一云〻神名式上〈延喜式九〉に大和国葛下郡當(タキ)麻(マ)都(ツ) 比古ノ社二座當麻山口ノ神社云〻三代實録〈二の巻〉に 奉ルレ授二大和國従五位下當麻山口神ニ正五位下ヲ一また 〈三の巻〉遣シテ二使ヲ諸社ニ一奉ル二神寶幣帛ヲ一云〻従五位下守圖書 頭當麻ノ真人清雄為ス二當麻社ノ使ト一云〻今昔物語〈旧本十一 の巻第卅一語〉に大和ノ國葛木ノ下ノ郡ノ當麻ノ郷云 云拾芥抄〈下本巻〉諸寺ノ部に當麻ハ大和也右大臣豐成公」五九オ 始ム本願曼陀羅云〻本居氏〈宣長〉曰〈古事記傳卅八〉當麻路は 河内の石川郡より大和の葛下の郡へ出る山路 にして二上山の南に在て今の世に竹ノ内越とい ふ是なり云〻此外所見おほかれとさまてはこ ちたければ引出ず 第十六さいでしまく入道 ○源平盛衰記〈卅三の巻〉落書に〽赤さいで白たなごひ にとりかへてかしらにしまく小(コ)入(ニフ)道(ダウ)これ記ノ文ニ 云ク平家西国へ落チ下リ給テ後ハ世ノ騒(サワキ)ニ引レテ資 財雑具東西ニ運ビ隠シ京白川ニモテ吟(ニヨビ)ケレハ」五九ウ 引(ヒキ)失スル者モ多ク深キ井ノ中ニ入レ穴ヲ掘テ埋メナ ドセシカバ打破(ヤフリ)朽(クチ)損(ソン)ジテ失シバカリ也サスガ 残ル物モ有シゾカシ木曾五万余騎ヲ引卒シテ上 洛シテ武士京中ニ充(ミチ)満(〳〵)テ家々ニ乱レ入リ門ニハ白 旗ヲ打立(タテ)テ家主(イヘヌシ)ヲ追出シ財寶ヲ追(ツヰ)捕(フ)ス云〻狼 藉不レ斜ナラ殆ント人倫ノ所為トモ不レ覺遙ニ替劣(カヘオトリ)シタル源 氏也トゾ沙汰シケル何者(ナニモノ)ガ所為ニテカ有ケン 院御所法住寺殿ノ四足ノ門ニ札ニ書テ立タリ ケリト云〻與清曰赤(アカ)さいでは赤き布(ヌノ)の切(キレ)にて 平氏の赤旗にたとへたる也さいでは師説〈村田春海」六〇オ 翁〉」に節用集〈左部〉に割出ハ布ノ切(キレ也)也とあれどこれ割栲(サキタヘ) にて左支(サキ)の支(キ)を音便に以(イ)といひ多倍(タヘ)を約(ツヾメ)て弖(テ) といひたる也といはれしがよし青(アヲ)和(ニギ)幣(テ)自(シラ)和(ニギ)幣(テ) などの弖(テ)におなじければ也栲(タヘ)は絹布(キヌヽノ)の總(スベ)名(ナ)に て細(ホソ)く織(オリ)たるを和(ニギ)妙(タヘ)荒く織(オリ)たるを荒(アラ)妙(タヘ)といへ りこれらのコトは別處(コトヾコロ)にいふべし後撰集〈秋下〉詞書 に紅葉(モミヂ)と色(イロ)こきさいでとを女のもとにつかは して云〻また〈哀傷〉法皇の御ぶくなりける時に ひいろのさいでにかきて人におくり侍ける云 云枕草紙〈春曙抄二の巻〉過にし方悲しき物の段にひゞ」六〇ウ なあそびのてうどふたあゐえびぞめなどのさ いでのおしへされてさうしのなかにありける を見つけたる云〻また〈春曙抄五の巻〉なまめかしき物 の段に殿(トノ)守(モリ)司(ヅカサ)などの色々のさいで〈印本作二さいく一水戸本作二 さいて一〉をものいみのやうにてさいしきつけたる などもめづらしく見ゆと云〻宇治拾遺物語〈四の 巻〉佐渡ノ國に有ルノレ金條に袖うつしにくろばみたる さいでにつゝみたる物をとらせと云〻また〈十三 の巻〉唐人の女羊(ヒツジ)に生れたる条にうせにしむすめ 青き衣をきて白きさいでしてかしらをつゝみ」六一オ てと云〻なと物に見え大蔵卿〈行宗〉集に保延五年 五月三日禁中にて縁よりおちて侍しに成通中 納言もとより〽をさなはやなくいへのさいてら うにしりてころもにかくときくはまことかとも よめり此歌いと〳〵心得がたし又小笠原光清弓 之紀岡本記なとにつるさいてありこは弓の絃 輪にまく絹にて今ツルキヌといふ物なるよし 伊勢氏〈貞丈〉赤鳥随筆((ママ))にいへり頭(カシラ)にしまくは 頭(カウベ)に纏(マトフ)ことにてしはしすゑしありくなどのし におなしく為の字義也洛陽田楽記に後(シ)巻(マキ)とあ るは田樂の後に立て行ク人の事にて今俗に踊(ヲトリ)屋(ヤ)臺(タイ)の助人(スケビト)なといふ者にて 為(シ)纏(マキ)とはおなしからず」六一ウ 第十七うらわかみ ○萬葉集〈四の巻〉の大伴家持歌に〽浦(ウラ)若(ワカ)見(ミ)花(ハナ)咲(サキ)難(ガタ)寸(キ)梅(ウメ) 乎(ヲ)殖(ウヱ)而(テ)人(ヒト)之(ノ)事(コト)重(シゲ)三(ミ)念(オモヒ)曽(ゾ)吾(ワガ)為(ス)類(ル)此歌夫木抄〈三の巻〉 春ノ部〈三〉にも載たり萬葉集〈巻の八〉の丹生ノ女王ノ旋(セ)頭(ドウ)歌(カ) に〽高(タカ)圓(マト)之(ノ)秋(アキ)野(ノヽ)上(ウヘ)乃(ノ)瞿(ナデ)麦(シコ)之(ノ)花(ハナ)下(ウラ)壮(ワ)香(カ)見(ミ)人(ヒト)之(ノ)挿(カサ) 頭(シヽ)瞿(ナデ)麦(シコ)之(ノ)花(ハナ)同集〈十の巻〉の柿本人麿集ノ歌に〽夕(ユフ)去(サレバ)野(ヌ)邊(ベノ) 秋(アキ)芽(ハ)子(ギ)末(ウラ)君(ワカミ)露(ツユニシ)枯(カレテ)金(アキ)待(マチ)難(ガタシ)こは古今六帖〈第六〉雜ノ思部 に下ノ句霜にかれかね君まちかねつと有伊勢物 語〈四十八段〉に昔男いもうとのいとをかしけなるが 老ひきけるを見をりて〽うらわかみねよけに」六二オ 見ゆる若草の人の陸ばん事をしぞ思ふ此を古 今六帖〈第六〉春の草ノ部新千載集〈戀一〉などに在原ノ業平 の題とせり家集には見えず曽根ノ好忠ノ家集に〽お ほあらきの小笹が原や夏を涼みはたまく葛は うらわかみかも後拾遺〈春下〉に三月はかり野の草 をよみ侍りける藤原義孝〽野辺見れば弥生の 月のはつるまでまたうらわかきさいたづまか な大和物語〈上巻〉に忠岑かむすめありと聞てある人 なんえんといひけるをいとよき事也といひけ りをとこのもとよりかのたのめたまひし事こ」六二ウ の比のほとにとなんいへりけるかへりことに〽わ かやとの一本薄うらわかみむすひ時にはまた しかりけりとなんよみたりけるまことにいとち さきむすめになん有ける云〻風雅集〈春上〉崇徳院 御歌〽春くれは雪けの沢に袖たれてまたうら わかきわかなをそつむ新續古今集〈春上〉前中納言 雅孝歌〽もえ出て烟みしかき初草のまたうらわか かき野邊の色かな夫木抄〈春一〉若菜部に後徳大寺 左大臣〽うらわかみつめどたまらぬゑぐのは をかたみにのみもおほせつるかな同抄〈春二〉若草」六三オ 部に従二位忠定卿〽見わたせは春は難波のう らわかみあしの軒葉の浅みどりなる同抄〈春三〉春 駒部大蔵卿有家〽かすみゆく難波のあしのう らわかみ汀の駒も春をしるらし此は建保名所 百首の題也同抄〈春五〉雉部に忠度朝臣〽さいたつ ままたうらわかきみよしのゝ霞かくれにきゝ すなく也此歌は家集または万代集((ママ))に出た り夫木抄〈夏一〉葵部に大納言師頼卿〽日かけ山生 るあふひのうらわかみいかなる神のしるしな るらん此は堀川百首の歌なり夫木抄〈秋五〉葛部二」六三ウ 条天皇大后宮摂津〽たまさかにあふ坂山のま くす原またうらわかしうらみはてじを同抄〈雜四〉 野部源頼綱朝臣〽さいたづまうらわかゝりし しめし野のしのゝをすゝきほに出にけり同抄 〈雜七〉浦部前中納言定家卿〽春の色は今日こそみ つのうらわかみあしの若葉をあらふ白波此題 は建保名所百首難波津の題也新勅撰集〈恋四〉民部 卿成範〽思ひきやまたうらわかき初草の秋を もまたでかれん物とは玉葉集〈春上〉常盤井入道前 太政大臣〽春日野にまたうらわかきさいたつ」六四オ ま妻こかるともいふ人やなき長方卿集に〽武 蔵野はすくろか中の下わらひまたうらわかし 紫の塵此題夫木抄〈春三〉早蕨部にも見ゆ右の題ど もをかうがへ渡すに末(ウラ)君(ワカ)みにて草木の末葉の 若きにいふよしの舊説ども一わたりはさもと 聞ゆ歌林樸樕拾遺にウラハ末ノ詞ナリウラワ カミ藤ノウラハナド云云〻契沖阿闍梨か代匠 記ノ四の下巻にうらは上なり末なり若見は末葉 などの若きをいふ云〻又云源氏に藤のうら葉 弓のうら筈と用云〻谷川氏か倭訓栞〈四の巻〉の宇ノ部」六四ウ にうらわかみ弱(ワカ)草(クサ)によめり春の草の葉末わか わかしきをいふ也云〻また万葉〈七の巻〉詠レ河歌に 波(ハ)祢(ネ)蘰(カヅラ)今(イマ)為(スル)妹(イモ)乎(ヲ)浦(ウラ)若(ワカ)三(ミ)去(イ)来(サ)率(イ)去(サ)河(カハ)之(ノ)音(オト)之(ノ)清(サヤケ)左(サ) 同集〈十一の巻〉寄物陳思歌に50波祢蘰今為妹之浦若咲 見慍見著而四剱解此歌古今六帖〈第二〉人部袖中抄 〈廿の巻〉夫木抄〈雜十〉蘰部には詞を誤て載たり同集〈十四 の巻〉未勘國譬喩歌に〽乎佐刀奈流波奈多知波奈 乎比伎余知氐乎良無登頂礼抒宇良和可美許曽 蜻蛉日記〈中巻〉にかうらんにおしかゝりてとばか りまぼりゐたればかたきしに草の中(ナカ)にそよ〳〵」六五オ しらしたるものあやしきこゑするをこはなに ぞととひたれば鹿のはふなりといふなとかれ いのこゑにはなかざらんと思ふほとにさしは なれたる谷のかたよりいとうらわかきこゑに はるかにながめなきたなりきく心ち空也とい へはおろか也云〻続千載〈春上〉後京極摂政〽春日 のゝ草のはつかに雪消てまたうらわかき鶯の こゑ櫻井基輔家集〈上巻〉に〽時鳥またうらわかき 初こゑはまたさとなれぬしるしとぞきく為尹 千首〽はつ草のまたうらわかくきこえけり野」六五ウ 上のかたの鶯のこゑ拾遺愚草員外〈上巻〉に〽過が てにつめとたまらぬなつなかなうらわかくな く鶯のこゑ右の歌詞ともによればたゞわかき ことにいふともきこゆ契沖法師が勢語臆断〈((ママ))の((ママ))巻〉 に末の字にあらすたゝ若きことなるよしいひ賀 茂翁萬葉考〈十一の巻の考〉にはうらはやをら也弱(ヤヲラ)にて 宇良〻〻と照れる春日といふも弱ら〳〵の心に てうら若みといふに均し云〻與清曰うらわか みは葉末の稚にいふとも又たゝ若きにいふと も先達の説なれとくはしからすこは万葉八の」六六オ 巻丹生ノ女王の旋頭歌に于壮香見と有を活字本 には丁壮香見異本には下壮香見なと書たりこ は下(ウラ)壮(ワ)香(カ)見(ミ)と有が正しくて心をも表裏の裏を もウラといへは表はさしもあらねと下はいと 若〳〵き㒵を底(ウラ)若(ワカ)さにとはいへる也されは葉末 にも限らず底(シタ)に若(ワカ)き㒵を含(フクミ)たる物にいふ詞也 けり 第十八答於屋代弘賢之問 ○大あらき万葉三に大(オホ)皇(ヲミ)之(ノ)命(ミコト)大(オホ)荒(アラ)城(キ)乃(ノ)時(トキ)尒(ニ)波(ハ)不(アラ) 有(ネ)跡(ド)雲(クモ)隠(カクレ)座(マス)この荒城(アラキ)は荒籬(アラガキ)の略語にて殯(モガリ)をい」六六ウ へりと云説さもあるべし同七に如(カ)是(ク)為(シ)而(テ)也(ヤ)尚(ナホ) 哉(ヤ)將(オイ)老(ナム)三(ミ)雪(ユキ)零(フル)大(オホ)荒(アラ)木(キ)野(ノ)之(ヽ)小(シ)竹(ノ)尒(ニ)不(アラ)有(ナ)九(ク)二(ニ)兼盛 集に〽51君が代をまちしもしるし大あらきの里 のさかえを見るがたのしさ曽丹集に〽おほあ らきの小笹が原や夏を浅みはたまく葛はうら わかみかも夫木抄〈雜四〉に長能〽大あらきのとほ 野の外にすむ人を見すてゝゆけば袖ぞつゆけ きこれらは地名と聞ゆれば神名帳の大和ノ宇智 郡ノ荒木神社ある所なるべし52古今ノ雜上に〽おほ あらきの杜の下草おいぬれば駒もいさめず53か」六七オ る人もなし後撰雑二忠岑〽おほあらきの杜の 草とやなりにけんかりにだに来てとふ人のな き同躬恒〽人につくたよりだになし大あらき の杜の下なる草の身なれば拾遺夏忠岑〽大あ らきの杜の下草しけりあひてふかくも夏の成 にけるかな同雑ノ春躬恒〽いたつらにおいぬべ く也54あおほあらきの杜の下なる草葉ならねと六 帖二に〽おほき鷹のいまとしなれば大あらきの 杜の下草人もかりけり此哥貫之集三に初句お ぼつかなとありこれらの下草をよみ合せたる」六七ウ は地名にあらず大なる荒木の立(タテ)る杜也曽丹集 十二月中の哥に〽おほ荒木のおほくの枝もな びくまて夜半にさびしき冬の夜の風万葉十一 に如(カ)是(ク)為(シテ)哉(ヤ)猶(ナホ)八(ヤ)成(ナリ)牛(ナ)鳴(ム)大(オホ)荒(アラ)木(キ)之(ノ)浮(ウキ)田(タ)之(ノ)杜(モリ)之(ノ)標(シメ) 尒(ニ)不(アラ)有(ナク)尒(ニ)といふも浮田の杜に大なる荒木立れ ばしかよめる也されど此万葉十一の哥は七の 巻の哥の誤にても有べし曽丹集四月中の哥に 〽大あらきの下草までに風ふけばなびきて神を まつりあへるかもと有は賀茂の社をいふにや ともおほゆおほあらきかく三種(ミクサ)に別れたれば」六八オ 思ひわくべし又曽丹集に〽よそに見しおもあ らの駒も草なれてなつくばかりに野は成にけ り此哥夫木抄雜七には二の句おほあらきの駒 とありさては大(オホ)荒(アラ)木(キ)の木間(コマ)とつゝけし序哥に て駒といはん料に縁語もていひながしたる也 因に云右に引出し曽丹集十二月中の哥の夜半 にさひしき冬の夜の風とあるは夜と云詞二ツあ ありて聞ぐるしなともいふべけれどさにあらず まづ夜半と云詞賀茂翁の夜間の義といはれし は頑(カタクナ)也こはたゝ夜の事にも夜深の事にもいふ」六八ウ に55三更と書たるを〈七の巻八の巻九の巻十の巻十九の巻〉ヨハとも ヨナカともヨクダチともよめり古今ノ雑下に 〽風ふけばおきつしら浪たつた山夜半にや君が ひとりこゆらん左注に夜ふくるまで琴(コト)をかき ならしつゝ云〻古今六帖ノ五に〽玉のをのた えてみじかき夏の夜は夜半になるまでまつ人 のこぬ續千載夏寂蓮〽ほとゝぎすあり明の月 の入がて56に山のはいつる夜半の一こゑこれら はみな夜(ヨ)深(フケ)の事にて曽丹の夜半にさびしきと いへるも夜ふけにさひしきにて同義なれは妨(サマタケ)」六九オ なし ○ふし原しば原猿丸大夫集に〽しなかどり稲名 のふし原青山にならん時にを色はかはらん此 哥によりて思ふにふし原は木立の青葉になら ぬ間をいへるにやふしつけの木も葉(ハ)なき柴(シバ)を 水中に漬(ツケ)たる也さればしば原は茂(シゲ)葉(ハ)原(ハラ)の義に て葉のあるにいひふし原は葉なき枝のさまを いへる也ふしは節(フシ)にて葉のちりし後は木(キノ)節(フシ)の あらはに見ゆるよりいへるなるべし和名抄ノ木ノ 具ノ部に四聲字苑ニ云ク節ハ草木ノ擁腫ノ処也也和名布之(フシ)今」六九ウ 按ニ従フレ竹者ハ竹節也従フレ草者ハ草木ノ節也也見ル二玉篇ニ一とあり神 代紀に蒼(アヲ)柴(フシ)籬(ガキ)といへるは生(アヲ)柴(フシ)籬(ガキ)にて今の世に いふ生(イケ)垣(ガキ)也是も葉(ハ)のなきほどはふし垣(ガキ)と57い ひ葉(ハ)あるをりは青(アヲ)柴(フシ)垣(ガキ)といへりと見ゆ後世し ば垣(ガキ)といふは葉のある枝もてかこへば也ふし しばといふも葉のなき柴なるをしば58をそへて 重言(カサネイヒ)しにや尚可レ考 ○とわたるとわたるといふ詞は門(ト)渡(ワタル)るにいへる と飛(トビ)渡(ワタ)るとたゞ渡ることにいへるとの三義あり 古今雑上に〽わかうへに露ぞおくなる天の川」七〇オ とわたる舟のかいのしづくか此哥伊勢物語に も見ゆこは川(カハ)門(ト)を渡るよし也新勅撰雑二前関 白〽河浪をいかゞはからん舟人のとわたる梶 の音はたえねど是もおなし飛(トビ)渡(ワタ)るよしによめ るは相如(スケユキ)家集に((ママ))かげろふの水にとわたる螢 よりもはかなくみしは夢かうつゝか拾遺愚草ノ 中に〽はまびさしなけのかたみか友千鳥とわ たり過る沖の小島に同下に((ママ))59あまつ風初雪し ろしかさゝぎのとわたる橋の有明の空月清集ノ 下に〽をちかたの浦人今やねさめしてとわた」七〇ウ る千鳥近く鳴くらん續後拾遺冬照慶門院ノ一条 〽さえまさるさほの河原の月影にとわたる千 鳥聲ぞふけぬるこれら也又鳴わたることのみに いへるも有されど渡の誤なるべし壬二集ノ中に 〽住吉の松やつれなき夕しくれとわたりかへ る淡路しま山續古今秋上為家〽見るまゝに秋 風さむし天の原とわたる月の夜ぞふけにける 玉葉ノ雑二万里小路前右大臣〽沖つ風更行空に あかしがたとわたる月の影のさやけさこの外 にもおほかれどわつらはしけれは引出ず」七一オ ○60けこのみわもり散木集に〽61なかれつるけごの みわもりかずそひてさや田の早苗とりもやら れず按になかれつるは酒宴の席にて盃(サカヅキ)の廻(メクリ)流(ナガル) るゝ㒵(サマ)也けごのみわもりは食(ケ)篭(コ)の酒盛(ミワモリ)にてけ ご62はもと強(コハ)飯(イヒ)を笥(ケ)にもりたるを後に比(ヒ)女(メ)飯(イヒ)も る椀の名にもいひ及(オヨ)ぼせる也伊勢物語にけご のうつはもの63と有みわ64は酒をいへり飯(メシ)椀(ワン)に酒(サケ) を盛(モ)れるをあまた呑酔(ノミエヒ)たる㒵(サマ)也さや田は遠江 國佐(サ)益(ヤ)郡の田也こは田夫(タコ)か酒宴の席にて飯(メシ)椀(ワン) にてあまた酒(サケ)を呑(ノミ)ゑひ苗(ナヘ)もとられぬまでにな」七一ウ れるよし也 第十九答於盤瀬醒之問 ○足(タ)袋(ビ)〻〻宗五大草子ノ上巻に足袋の事殿中へ は御免候はではえはき候はず候御免の時は必 御足袋を一足被下候又入道同朋は御免の沙汰 なくはき候人の内衆も主人の御免候へばはか れ候いかさま無紋の皮ふすべ皮をば不レ可レ用出 陳の時はふすべ皮たるべし云〻和名抄ノ履襪ノ部 に覃皮履ハ唐令云諸舃履並ニ烏(クロキ)色(イロ)舃ハ重(カサネ)皮(ガハノ)底(ソコ也)履ハ單(ヒトヘ)皮(カハノ) 庭(ソコ也)65云〻和名与レ履同シ今按ニ野人以二鹿皮一為シ一半ノ靴ト一名ヲ曰フ二」七二オ 多(タ)鼻(ビ)ト一宜クシレ用フ二此ノ覃皮(タビ)ノ二字ヲ一乎云〻重之集ノ上に春くら うどたびといふくつ66を花につけて得させたる 〽あし引の山の櫻も見にゆかじこのたびえたる くつのをしさになと見え67中山傳信録日本風土 記などにも載たり古は皮(カハ)足(タ)袋(ビ)のみなりしに寛 永の比より草(モメ)綿(ン)天下に遍(アマネ)くなりて草(モ)綿(メン)足(タ)袋(ビ)の 製おこりさて苧(ヲ)ざし木(モ)綿(メン)ざしは四(ヨツ)谷(ヤ)にて製(ツク)る を四(ヨツ)谷(ヤ)指(ザシ)と称し苧(ヲ)指(ザシ)は68傾(ケイ)城(セイガ)窪(クボ)指(ザシ)とも又は鷹匠(タカジヤウ) 足袋(タビ)とも称して賞(モテ)観(ハヤ)せり又甲(カフ)掛(カケ)足(タ)袋(ビ)といふも あり此三種をすべてわらぢがけと名づく女子」七二ウ は絹(キヌ)の足袋(タビ)をも用ふみな近世の製作也 ○金(キン)打(チヤウ)の誓(セイ)言(ゴン)俗に誓を立る時にキンチヤウとて 男子は刀剣などを打合せ女子は鏡なとを打合 するはもと或は猪(ヰノコ)を斬て若シ違変せば此猪の如 からんといひ或は刀を折リ矢を折て変約せば我 身もかゝらんと誓ひ女子は鏡を破(ワリ)てたとへに せしを真言家69に金丁(キンチヤウ)の法とて守覚法親王の左 記にくはしく記されし事あるにとり合せてキ ンチヤウとは呼(ヨベ)る也金打と書べきを省(ハブキ)て金丁 と書は70古實也とぞ」七三オ ○馬(バ)鹿(カ)者(モノ)々〻〻といふ語太平記〈十六〉本間孫四郎遠 矢の条に如何ナル推参ノ馬鹿者ニカアリケン 云〻同書〈廿三〉土岐頼遠参リ合ヒ御幸ニ一致ス二狼藉ヲ一条に如何 ナル馬鹿者ゾ一々ニ奴(ヤツ)原(ハラ)蟇(ヒキ)目(メ)負(オフ)セテクレヨト 匐(ノヽシ)リ云〻なと見え節用集にも載(ノセ)て破(バ)家(カ)とも書 たるはいづれも借字也こを馬鹿の字に泥(ナヅミ)て趙 高が故事に引あてし説はいみじきひがこと也馬(バ) 鹿は煩計(ボケ)の通音にて源氏明石〈湖月抄四十三丁オ〉に入道 が事をいへるにいとゞぼけられてひるは日ひ とりいをのみねくだし71夜はすくよかにおきゐ」七三ウ てづゞのゆくへもしらずなりにけりと手をお しすりてあふぎゐたりとあり此外物語書にぼ け〳〵なども書たる挙るに遑(イトマ)なし ○天守城の天守は近江安土城に起れるよしいへ るはひが事也細川両家記上巻に摂津國伊丹城 の天守にて腹切し事見え勢州四家記にも出て 安土城よりもはやくありし製也 ○繪馬本朝文粋十三の巻大江ノ匡衡ノ北野天神ニ供ル二御 弊并ニ種々ノ物ヲ一文に色紙繪馬三疋云〻此ノ文朝野群 載二の巻にも載(ノ)す法華験記ノ下巻ノ紀伊國ノ美(ミ)奈(ナ)倍(ベノ)」七四オ 道祖神の条に沙門恠念巡リ二見ルニ樹ノ下ヲ一有リ二道祖神ノ像一朽(クチ) 故(フリテ)逕(ワタリ)二多年ノ歳ヲ一雖レ有二男形一無レ有コト二女形一前ニ有リ二板繪馬一前足 破損ス沙門見二了リテ繪馬ノ足損スルヲ一以テレ糸ヲ綴リ補ヒ置キ二本ノ所ニ一畢ヌ云〻 舊本今昔物語ノ十三の巻ノ第卅四語に道祖神ノ形 チ造リタル有リ其ノ形旧ク朽テ多ノ年ヲ経タリト 見ユ男ノ形ノミ有テ女ノ形ハ无シ前ニ板ニ書 タル繪馬有リ足ノ所破レタリ道公是ヲ見テ夜 ルハ此道祖ノ去ケル也ケリト思フニ弥ヨ奇異 ニ思テ其ノ繪馬ノ足ノ所ノ破タルヲ糸ヲ以テ綴 テ本ノ如ク置ツト云〻此説元亨釋書九の巻ノ道」七四ウ 公ノ傳にも見ゆ宣胤卿ノ記ノ永正十七年十一月九日 の条に明日多武峰社ノ遷宮也関白ノ御使ハ衛門佐〈十才〉宣 綱云〻宣秀相伴ニ下ル繪馬二枚進ス云〻なと所見枚(アゲ) 挙(ツク)しかたし続日本紀神護景雲三年二月乙卯の 条に伊勢太神宮の馬形見え雄略九年ノ紀新撰姓 氏録左京皇別ノ下日本紀竟宴歌などに誉(ホム)田(ダノ)陵の 土(ハニ)馬(ウマ)もありて生馬の代(カハリ)に土(ハニ)馬(ウマ)木(キノ)馬(ウマ)繪(エ)馬(マ)なとな りし72こといとはやくよりのわざ也太平記廿九ノ阿 保ト秋山カ河原軍の条に其ノ霊仏霊社ノ御(オン)手(タ)向(ムケ)扇 團(ウチ)扇(ハ)ノバサラ繪(エ)ニモ阿保秋山が河原軍トテ書(カヽ)」七五オ セヌ人ハナシ云〻といへる霊社の御手向も繪 馬の事にてそは必馬に限らず他(アダシ)形(カタ)の繪を書て 奉れるをも繪(エ)馬(マ)とはよべる也神社啓蒙ノ或問南 嶺遺稿一の巻草盧漫筆神道名目類聚抄倭訓栞 などにも繪馬の事あり南嶺遺稿に園記といふ ものを引て建暦年中伊豆の三島の社へ八幡太 郎陸奥軍の圖ありといへるはうけがたし園記 といふは桂秋齋か例の偽造の書名なるべしか ら書にも唐ノ鄭還が古傳異に王昌齢馬當山謁スレ廟 乃命シテ使レ賚二酒脯紙馬一献ス二于大王ニ一また丹鈆録に呉ノ泰」七五ウ 伯ノ祠在リ二閶門之東ニ一毎ニ二春秋一市人相率テ牲レ醴ヲ多シ二善馬一採二 輿シテ美女一以献スレ之ヲなど有 ○六十六部回國の経聖新撰和漢合圖ノ承平二年の 段に頼朝房納ム二法花ヲ於大社ニ一六十六部ノ始也云〻桂川 地蔵記ノ上巻に或ハ有リ二六十六部回國ノ之経聖ノ負ヘル一レ笈云 云奇異雑談集ノ一の巻人の面に目鼻なくして口 頂の上にありてものをくふ事の条に津の國の 聖道一人〈名藤坊〉九世戸さんけいのついでに予が 居所にきたりて数日逗留の時かたりていはく 津の國に一人の聖道あり日本六十六ケ国を修」七六オ 行するに国ごとに十月廿日逗留してその国中の 名所旧跡大社験佛残りなく一覧をとげてかへ る也云〻妙法寺記に彌勒二年丁卯云〻六十六 部ノ写経供養云〻など見え塩尻五の巻にも六 十六部廻国順礼の事あり尚可考 ○木から落た猿俗語に便なくなりたるを木から 落た猿のやうといふは源平盛衰記廿四の巻〈十一 丁ウ〉に木ヲ離レタル猿ノ迎ヤ儲セヨトテ云〻文 選西都賦に猨狖失フレ木云〻などあるにおとれり と見ゆ」七六ウ 第二十答椿仲輔之問 ○比(ヒ)滿(マ)沙(サ)伎(ギ)理(リノ)梁(ヤナ)天武紀四年四月庚寅ノ詔に四月朔 以後九月三十日以前莫シレ置コト二比滿沙伎理ノ梁ヲ一とある は三代實録類聚三代格などに載(ノセ)たる元慶六年 六月三日の官符に毒(ドク)流(ナカシ)を禁(イマシメ)られしにおなしく 河中大小の魚虫こと〳〵く死せん事を憐(アハレミ)玉ひての わざ也比滿を水戸本の書紀また釋日本紀など には比彌に作りたれど通音なればいつれにて もすべし谷川士清が通證に比滿沙伎理ハ者遮(サエキル)レ隙(ヒマヲ) 之義也也荀子ノ註ニ石絶ヲレ水ヲ為スレ梁ト所二以也取ル一レ魚ヲ也捜神後記ニ」七七オ 所謂ル蟹断モ亦此意也唐書咸亨中禁ス二作テレ簺捕コトヲ一レ魚ヲといへ るにて其義知べし隙(ヒマ)もらさじと魚を遮(サヘ)留(トヾム)る梁(ヤナ) を制(トヾメ)られし也今河湖中に立て魚(イヲ)海(ノリ)苔など取料 の竹木をヒヾといふも比滿比弥の名に据れる にや曽丹集にえりさすとよみたるを言塵集ニひ び木のよし注したり ○都(ツ)婆(バ)波(ヽ)山(ヤマ)都(ツ)婆(バ)波(ヽ)小(コ)都(ツ)婆(ヽ)延喜式曰時祭式73造酒 式などに都(ツ)婆(バ)波(ヽ)山(ヤマ)都(ツ)婆(バ)波(ヽ)小(コ)都(ツ)婆(ヽ)波(ハ)あり都(ツ)婆(バ)波(ヽ) は空(ウツボ)瓫(ヘ)にてウツボペ74のウ75ヲ省(ハブキ)きホとヘをハ76に 通はしたる語とおほゆそは瓫(ヘ)都(ツ)婆(バ)波(ヽ)匜(ハニサブ)短(ヒキ)女(メ)杯(ツキ)」七七ウ 盞(ツキ)など並(ナラベ)挙(アゲ)たるにても知べし其ノ形今は知ルべか らねど清濁酒を納(イレ)もし煖(アタヽメ)もする器と見ゆ瓫(ヘ)は いと深からぬにいひ都(ツ)婆(バ)波(ヽ)は深(フカ)く殊(コト)に中の空(ウツボ) なるにいひ匜(ハニサブ)は柄(エ)有ル物にいへるにや短(ヒキ)女(メ)杯(ツキ)と 77盞とは酒(サケ)を酌(モル)器也さて山(ヤマ)都(ツ)婆(バ)波(ヽ)とある山は 大の字の誤にて大(オホ)都(ツ)婆(バ)波(ヽ)なるべしそは小(コ)都(ツ)婆(バ) 波(ハ)に對(ムカヘ)たる名なれば也儀式には參河國の産物 のよし見ゆ ○等(ト)呂(ロ)須(ス)伎(キ)延喜ノ大嘗會式造酒式などに等(ト)呂(ロ)須(ス)岐(キ) 見え儀式に參河国ノ等(ト)呂(ロ)須(ス)伎(キ)〈造酒式にも參河国所造ノ等呂須岐とあ」七八オ り〉あり匡房卿ノ記ノ天仁元年ノ記にも造酒司所レ供等(ト) 呂(ロ)須(ス)岐(キ)見えて酒五升納(イル)器也名義78和名抄に参河 国設樂郡設楽ハ和名之(シ)多(タ)良(ラ)とあればシタラ杯ノ シ79を省(ハブ)きタラ80をトロ81と通はしいへりと見ゆ今 参遠両国の境志(シ)等(ト)呂(ロ)といふ處〈今の荒井の邊〉にて造る 焼物をシトロ焼82といふも等(ト)呂(ロ)須(ス)伎(キ)の遺風なる べし ○下総国豊田郡和名抄に下総国ハ管十一葛錺〈加止志加〉 千葉〈知波〉印(イナ)幡(バ)匝(サフ)瑳(サ)海上〈宇奈加美〉香取〈加止里〉埴83生〈波尓布〉相 馬〈佐宇万〉猿島〈佐之万〉結城〈由不岐〉豊田〈止与太〉とあり民部」七八ウ 式ノ上またおなし頭書に延喜四年十二月十日改テ二 岡田郡ヲ一為ス二豊田郡一と見ゆ神名式ノ上に下総國岡田 郡ノ桑原ノ神社といへるは改ざる已前の名をしる せし也拾芥抄ニ下総国十一郡とて豊田郡の下に 元ハ岡田延喜廿年改ハ二豊田ト一としるし別に千田郡を 加ヘたり十一は十二の誤千田は岡田の誤なるべ くおもふよしは古本ノ節用集に大管十二郡とし 岡田を加ヘたれば也されば上古岡田郡といひし を延喜年中〈延喜式頭84には四年とし拾芥抄には廿年とす〉豊田に改め 鎌倉の末室町の始などに二郡に分て十二郡と」七九オ せられし来べしまた吾妻鏡によれは葛錺郡を 分(ワケ)て葛西葛東とせられし事もありと見ゆ 第廿一くがにあがれるいを ○阿佛尼ノ十六夜日記ノ長歌に〽須磨と明石のつゞ きなるほそ川山の谷川にわづかにいのちかけ ひとてつたひし水のみなかみもせきとめられ ていまはたゞくがにあがれるいをのごとかぢを たえたる舟にゝてよる方もなくわびはつる子 を思ふとてよるのつるなく〳〵都出しかど云〻85 陸にあがれる魚とは金光明最勝王経〈巻第十〉捨身」七九ウ 品に大車王の第三子摩訶薩埵太子大慈悲心を 起し身を大竹林の餓虎に投與し時其母国太夫 人悲傷の事を説(トケ)る条に爾ノ時夫人迷問稍ク止ミ頭髪 蓬乱シ両手モテ槌レ冑ヲ宛二轉シテ于地一如ク二魚ノ處ル一レ陸ニ若(カクノ如)生シテ二失フレ子ヲ悲泣ヲ一 而言(イハク)云〻と見えたる故事によれるなるべしま た荘子ノ外物ノ篇に有二中道ニシテ而呼者一周顧視スレハ車轍ノ中ニ有リ二 鮒魚一焉周問テレ之曰鮒魚来レ子何為スル者ソ耶(ヤ)對テ曰ク我ハ東海ノ 之波臣也也君豈有テ二斗升ノ之水一而活サンヤレ我ヲ哉周曰ク諾我且ツ 南(ノ方)遊二吳越86之王ニ一激シテ二西江ノ之水ヲ一而迎ヘンレ子可ナランカ乎鮒魚忿然トシテ作シテ レ色ヲ曰ク吾得テ二斗升之水ヲヲ一然シテ活ン耳(ノミ)君乃チ言フハレ此ヲ曾ヲ不レ如三早ク索メンニ二」八〇オ 我ヲ於枯魚ノ之肆ニ一云〻とも見ゆ 第廿二歌道の養子 ○兼載雑談に俊成卿の嫡子に兵部卿家長といふ 人ありしかど無器用なるにより寂蓮を歌道の 養子にせられし也その後定家といふ子出来て 後寂蓮は斟酌せしなり寂蓮は俗名中務少輔定 長といへりとあり養子は神代紀ノ上に天照大神 の素戔嗚尊の御子を養玉ひしを始にて続日本 紀ノ二の巻假寧令義觧などに見え續世継八重の しほぢの巻にはやしなひ子とあり後漢書ノ順帝」八〇ウ 紀五代史ノ唐ノ太祖ノ家人傳その外から書の所見も おほかり 第廿三つくり丘 ○和泉国内ノ神名帳に大島郡従四位上造(ツクリ)岳(ヲカノ)社前あ り按に造(ツクリ)岳(ヲカノ)はもと作道(ツクリミケ)築山(ツキヤマ)などの意にて新に 造(ツク)りし丘(ヲカ)の後に地名になりしものなるべし 第廿四野井 ○神名帳に石見ノ國安濃郡野井ノ神社あり野井は野 原の中なる井のことなるべし武蔵野の井頭(ヰノカシラ)の 池相模野の大沼(オホヌマ)なとの類掘(ホリ)たる井に限らず池」八一オ 沼の類にても野中なるは野井といふべし野中 の清水などおなし心也 第廿五哉の字 ○世になま古學者だつ人かなに哉の字をかくを いみじきあやまりとおもひたるはわらふにた へぬこと也萬葉ノ七に君(キミガ)為(タメ)浮(ウキ)沼(ヌマ)池(イケノ)87菱(ヒシ)採(トルト)我(ワガ)染(ソメシ)袖(ソデ)沽(ヌレニ)在(ケル) 哉(カモ)同十一に公(キミガ)目(メヲ)見(ミマク)欲(ホリシヲ)是(コノ)二(フタ)夜(ヨ)千(チト)歳(セノ)如(ゴトモ)吾(ワカ)戀(コフル)哉(カモ)また 行(ユケトモ)々(〳〵)不(アハヌ)相妹(イモ)故(ユヘ)久(ヒサ)方(カタノ)天(アメノ)露(ツユ)霜(シモ)沽(ヌレニ)在(ケル)哉(カモ)などの加毛(カモ)は 後の加奈(カナ)におなじ又顯宗紀に美飲喫哉此ニハ云フ二于(ウ) 魔(マ)羅(ラ)你(ニ)烏(ヲ)野(ヤ)羅(ラ)甫(フ)屡(ル)柯(カ)侫(ネト)一とある柯(カ)侫(ネ)も通音にて」八一ウ 加(カ)奈(ナ)におなじければこれらによりて哉の字か かんことくるしからずと知べし 第廿六壽の假名 ○須の假名に壽の字をかくは十王経に樹(キ)ニ有リ二荊棘(オドロ)一 宛モ如シ二鋒匁ノ一二ノ鳥栖(スミ)掌(ツカサドル)一ヲ名ケ二無常鳥ト一二ヲ名ク二抜目鳥ト一我レハ汝カ 舊里ニテ化シテ成ラ二𪇖鷜ト一示シレ怪ヲ語(ナ)二鳴(ク)別(ホ)都(ト)頓(ヽ)宜(ギ)壽(ス)ト一〈此鳥近シ二呉語ニ一云テ二祈家命ト一鳴ク〉 我ハ汝カ舊里ニシテ化シテ成テ二烏(カラス)鳥ト一示シレ怪ヲ語(ナ)二鳴(ク)阿(ア)和(ワ)薩(サ)加(カト)一〈此鳥遠シ二呉語ニ一病ス来レハ将セ二 命尽ント一〉とあるをより所とす無常鳥は杜鵑(ホトヽギス)抜目鳥は 烏(カラス)なり此経は圓融一條などの御代に偽作せし 物にて安然和尚の抄物〈題昭袖中抄〉88日蓮坊の十王讃」八二オ 歎抄暦應の比89暮露々々草子源氏河海抄などに も引用たればいと古書也またうけられぬ書な れど大同類聚方の假名にも壽(ス)の字をおほく書 たり 第廿七等身の佛 ○等身の佛像は栄花物語更級日記舊本今昔物語 吾妻鏡などその外古書におほく見ゆこは人の 身の丈(タケ)にひとしく佛をつくりたることゝおもふ べからす二中歴ノ第三ノ造佛歴ノ寸法の条に頌ニ曰フ丈 六尺又ハ五三尺一搩手半周尺三佛出世ノ長(ミタケ)八ヘ尺也」八二ウ 是ヲ表スルカ二佛ノ尊躰ノ相ヲ一故ニ一倍シテ謂フ二之ヲ丈六ト一也為ニ三衆生ニ悟ラセン二無常ヲ一 其ノ壽百歳五分ニシテ減二一分ヲ一唯八十也也〈廿為二一分一〉八尺ハ者佛出 世ノ時大夫ノ等身謂フ二之ヲ半丈六ト一也五尺ハ者弘法傳ハル二漢土ヨリ一 時ノ人長也也近代謂二之ヲ等身ト一三尺ハ者釈尊為ニ二瞿(ク)師(シ)羅(ラ)長 者ノ一所ノレ現スル身也也一尺六寸ハ者准二スル也丈六ニ一也一搩者従フ二母ノ肘 節ニ一異二也予(ワガ)其ノ腕節ニ一也手半ハ者其ノ手ノ之半ノ分量也也所ハ謂ル人 在ル二母胎ニ一時至テ二于第廿七箇ノ之七日ニ一人相皆備ル以テレ手ヲ掩ヒ レ面ヲ蹲(ウツク)踞(マリテ)而坐ル其ノ時身ノ長與(オナジ)二母一搩手ニ一滿チ二卅八箇ノ之七 日ニ一已テ出生ス也因ルカ二養育ニ一故ニ成ル二八尺五寸ノ身ト一云〻是レ依テ二東 山ノ隠上人ノ説一に粗(ホヽ)注スレ之ヲとあるに据(ヨレ)は五尺を等身の」八三オ 佛像といへる也諭祇経ノ下巻ノ金剛吉祥大成就品 に復説ク畫像曼拏攞法ハ取リ二浄キ素氈(シロヌノヲ)一等シテ二自身ノ量(タケニ)一而圖二畫ス 之一凡一切瑜伽中ノ像皆自身ヲ自ラ坐シテ等シテレ量(タケニ)畫クレ之ヲ云〻西域 記ノ五の巻鞨若鞠闍國の条に伽藍ノ東ニ起ス二寶臺ヲ一高サ百 餘尺中ニ有リ二金ノ佛ノ像一量(タケ)等シ二王身ニ一云〻など見え宗ノ何薳 が春渚紀聞ノ五の巻撞キレ鐘ヲ畫レ像ヲ作ス二追薦一条には亡者 の等身ノ像を画て糊(ノリ)し事あり 第廿八更級日記 ○菅原ノ孝(タカ)標(スエ)ノ朝臣ノ女(ムスメ)のさらしなの日記は地名のつ いでいとみだりなりそは女(ムスメ)十三になるとし父」八三ウ が上總ノ介の任はてゝのほるにぐしたりしほど のことそれよりつぎ〳〵の事をもいと年へて後し るしたンなればしとけなきがもとよりの體裁な るべし中の文(コトバ)に二三年四五年へだてたることを しだいもなく書つゞくればやがてつゞきたち たるすぎやうさめきたれどさにはあらず年月 へだゝれることなり云〻又所〻になりなどして たれも見ゆることかたうあるにいとくらい夜六 波羅にあンなる甥のきたるにめつらしうおぼえ て〽月もいでゝやみにくれたるをばすてをな」八四オ にとて今宵たづねきつらんとぞいはれにける 云〻なとあるにて後にしるせし書なること又信 濃にくだりし事などもおもふべしさるを山岡 明阿弥の校本とて安田躬絃がもたる本に古本 を引て地名のついでをたゝしたるありその古 本いとうけられぬものにて明阿弥の私に考出 し説を古本にかゝりなといとあざむきしなンめ りそは逸著聞集なども此法師自つくりて古代 めきたる奥書をそへ世人をまとはかしたる例 もあればなり余が見しは元禄十七年の刊本扶」八四ウ 桑拾葉集ノ本群書類従ノ本橘千蔭が校本余が家蔵 の古写本二種齋藤彦麿が家の冩本岸本由豆流 が家の写本清水濱臣がもたる難波人若山滋古 が古印本謄(シキ)写(ウツシ)の本など凢て九種也この中ひと つも明阿弥の校本におなじきものなけれはい よ〳〵地名の正しきはその本の正しからざること をしりはてぬさて更級日記といへるは題号は いとすゑに更級にくだりしよしあれば也この 作者は右大将道綱母の姪(メヒ)にてざえかしこきぞ うなればかの蜻蛉のにきにもおさ〳〵立おとる」八五オ ぬふみは作り出たンなるべし 第廿九雞冠花 ○多識編ノ濕草類ノ部に鶏冠ハ和名今按ニ土利左加久左(トリサカクサ) 俗称ス二計(ケ)伊(イ)土(ト)計(ケト)一云〻節用集計部草木門に雞頭花 ケイトウゲ云〻節用集大全ノ計集ノ草木門に雞頭 花ハ鶏冠花也也有二掃帚扇面瓔珞等一皆以二其花ノ形一名レ之 也云〻大和本草巻七〈廿五丁オ〉花草類部に雞冠花々 紅白黄三色アリ品多シ鮮紅ニシテ大ニ重ナル者 上品ナリ錦雞頭ト云南京ノ種尤ヨシ好種ヲマ キテモ変シテ醜クナルアリシゲクウヱテ花初テ」八五ウ 開ク時アシキヲハ早ク抜去テ好花ヲ養フベシ 三四月根ヨリ苗ヲ生ス六月ヨリ花サキ霜後ニ 萎ム凡五箇月ノ間シボマズ百日紅山茶花海紅 ナド花久シクアリトイヘドモ花落テカハル〳〵サ キツヾク事久シキ也一花ノ如此久シキニ堪ル 事雞冠花ニシクハナシ其葉嫩キ時可レ食性アシ カラズ草花譜曰有二紫白同帯ノ者一名二二色雞冠ト一實ヲ マキテ遅ク生スルハ花ヨシ云〻本草啓蒙十一 の巻濕草類上〈廿三丁オ〉に雞冠ケイトウ一名洗手花 〈群芳譜〉杜若〈葯圃同春〉一朶雲〈間情偶寄〉紫冠〈蘇氏韻輯〉波羅奢〈秘傳花鏡〉」八六オ 俗ニケイトウト呼ブ雞頭ノ意ナルベシ然トモ此 花ハ雞ノ冠ニ似タリ雞頭ニハ似ズ唐山ニハオ ニバスノ實ヲ雞頭ト云雞冠ニ數種アリ一種茎 短ク僅ニ五寸90ニシテ大ナル花ヲ開テ高麗ゲイト ウ又南京ゲイトウチヤボケイトウト云漢名壽 星雞冠〈群芳譜〉廣東雞冠〈同上〉一種花ノ形圖ニシテ末尖 レルヲヤリゲイトウ又スギナリケイトウト云 漢名掃雞冠〈花史左編〉一種花ノ形チ扁大ナルヲイサ カゲイトウ又ヒラゲイトウト云漢名扇面雞冠 〈群芳譜〉此外ニモ種類甚多シ一種掃帚雞冠ノ形ニ」八六ウ シテ花ノ末及傍ニ細枝ヲ出シ其梢各小扇面ノ如 ナルモノ出テ多ク下垂スルヲミダレゲイトウ 又イヤウラクケイトウト云漢名瓔珞雞冠〈群芳譜〉 一種紅黄二色間リ開クモノヲサキワケゲイト ウト云漢名二色雞冠〈花史左編〉二喬雞冠〈同上〉唐山ニハ 五色相間ルモノアリ五色雲〈間情偶寄〉トイフ云〻滑 稽雑談十六の巻八月下に雞冠花春種をまく時 器に入て其器の形に花形を發すといふ未考云 云汝南圃史十の巻に雞冠花佛書名波羅奢花形 高三五尺葉似筧而尖亦可食其花褊而舒長状類」八七オ 雞冠有紫白淡紅三色亦有紅白間者就中又有如 纓珞者各種形状不一浣花雑志云清明下シレ子撤過シテ 即用レ糞澆ク可レ免二雀啄一子細黒蔵於花中瑣砕録云種 雞冠子立撤則株高坐撤則株低盛扇撤之則如團 扇散鬚徹之則成纓珞如欲雙色各被半邉紙麻縛 之然屢試不験又有矮雞冠種有金陵来栽置階下 若侏儒然一名壽星雞冠此花秋91興二雁来紅十様一錦争 レ竒競レ秀極為圃中點綴唯白雞冠子主治婦人淋症 最験云〻祕傳花鏡五の巻に雞冠花一名波羅奢 隋在皆有三月生苗高者五六尺其矮種只三寸長」八七ウ 而花可大如盤有紅紫黄白豆緑五色又有妃央二 色者又紫白粉紅三色者皆宛如雞冠之状扇面者 惟梢間一花最大層々巻出可愛若掃箒雞冠宜高 而多頭又若瓔珞花光小而雑亂如箒又有壽星雞 冠以矮為貴者雞冠似花非花開最耐久經霜始蔫 俱収子種撤下則糞澆可免蠱食云〻食物本草十 八ノ濕草類ノ二本草綱目十五〈卅九丁オ〉濕草類上廣群芳 譜五十二の巻花譜などに見え詩賦なともおほ かりまた海菜に雞冠菜あり和名抄十七海菜部 に楊氏漢語抄ニ云ク雞冠菜ハ土(ト)里(リ)佐(サ)加(カ)乃(ノ)里(リ)式ノ文ニ用フ二鳥」八八オ 坂苔ヲ一云〻類聚名義抄にもトリサカノリと見ゆ 以呂波字類抄二の巻止部殖物の条に雞冠菜ト サカノリ俗用二鳥坂苔一云〻節用集止部に雞冠海 藻トツカサ云〻冝禁本草追加にトツサカ又ム カデノリ云〻和歌食物本草上〈十三丁ウ〉止部にとつ さかとよめる歌三首あり大倭本草八〈四十一丁ウ〉雞 冠菜ハ和品也順和名抄ニ出タリ其形雞冠ノ如シ食フ ベシ紅色也附テレ石ニ生ス云〻與清曰雞冠花は多識編 にトリサカグサともケイトゲともいふよし見 えこれ今のケイトウ花也雞冠菜は海菜にて今」八八ウ 唐舩交易の品也伊豆海邉におほしこれトリサ カノリともトサカノリともトツサカともいへ り其主治禁忌は和歌食物本草によみたれは閲 て知べし雞冠花は唐の羅鄴が詩に一枝濃艶對二 秋光一露滴風揺向二砌旁一暁景乍チ看ル何處カ似タル謝家ノ新染 紫羅ノ囊なとよりして宋元明人の詩おほかり貞 和集九の巻〈卅一丁ウ〉草木部に真浄が矮雞冠の詩あ り矮雞冠は今俗ナンキンケイトウとよふこれ 也又五祖及ヒ率菴が雞冠花の詩あり92俳諧糸衣の 発句に〽けいとうの花のさかりや八九月余が」八九オ 雞冠花の歌〽君か代の秋ににほひて行末も長 鳴鳥のとさか花かな93谷中94随時苑の圃中にうゑ たるにいとよく生しけり花もこよなくて八九 月の95竒観也96菜花97苗實共に食て美味也98牡丹芍薬 にもまさりて花寿の久きと艶色の深きとは世 に似るものなし私に花公99と名づけたるは100花王 に對し此君十八公なとの称をも101おもひよりて の102わざ也103 第三十いし〳〵 ○北山殿行幸記〈八丁オ〉に常の御所夜のおとゞの御」八九ウ 衣いし〳〵の御まうけもいかめしき事どもきこ えしかどもそれまではのぞきもまゐらせねば 云〻又〈十二丁ウ〉次に104関白いし〳〵公卿しだいにちや くざす云〻又〈十五丁オ〉そのゝち関白いし〳〵次第に まかで玉ふ云〻又〈十九丁オ〉御まうけの事ども御ま しいし〳〵とけいめいし給ふ云〻思ひのまゝの 日記〈十一丁オ〉に近比まゐらぬしよしいし〳〵までも とゝのへさせ玉ふ云〻雲井の春〈八丁ウ〉にいし〳〵 の人〳〵云〻又〈十一丁ウ〉いし〳〵けんぞうの座にまゐ り玉ふ云〻御湯殿上記〈永禄五ノ五ノ十六の条〉に今日は御祈」九〇オ 祷どもあり女中の御なかへ御さかづきまゐり てみな〳〵105御いし〳〵と御いはひあり云〻按にい し〳〵は以(イ)次(ジ)々(イ)〻(ジ)の字音也西宮記ノ正月部ノ下五日ノ 叙位ノ議の条の裏書に四條大納言ノ説ニ云ク著ス二議ノ―所ニ一時 一ノ大臣入ルレ自レ南以(イ)次(シ)ノ大臣以下ハ入リレ自リ二艮ノ角一但雖トモ二以次ノ 大臣ト一執筆ノ之時可シレ入ルレ自リレ南而トモ納言執筆ノ之時猶可ルレ入ル レ自リレ艮云〻又著ク一御前圓座ニ一之時以(イ)次(シ)ノ大臣執筆者ハ猶 先ツ著ク二自ラノ座ニ一之後随テ二御氣色ニ一可キレ著ク二上座ニ一欤云〻二水記ノ 大永二ノ正ノ二ノ淵酔の条に下﨟ノ貫者勧盃ノ事云〻第 一ノ大臣ノ之外取ルレ酌ヲ人無ヤレ之欤已(イ)次(シ)之(ノ)大臣ハ只盃許リ欤」九〇ウ 云〻などあるをかうがへ合せて知べし (以下白紙)」九一オ はしがき及び凡例 本書は小山田与清著『松屋外集』のうち、初編二〇巻、二編七巻からなる系統の伝本を翻刻、校合して研究者・江湖好学の志に提供するものであり、巻一に続いて巻二を刊行する運びとなった。また、訓点や捨て仮名なども完全には一致せず、伝本研究の進展を今後に期すこととしたい。この翻刻では国立国会図書館本を底本として、もりおか歴史文化館本(1499)を対校本文として採用した。もりおか歴史文化館本には南部家旧蔵の『松屋外集』が他に写本二部、刊本一部が存在している。底本、対校本文については巻一のはしがきで示した程度のことしかまだ分かっていないが、小さくない異同をもつ項目もある。 翻刻の凡例を説明する。まず冒頭に私に内題と目次を示した。目次は項目番号と頁数で示した。内容は次頁以降の本文中の目次を参照されたい。翻刻は国立国会図書館本の本文に従い、字取り、返り点、捨て仮名字も忠実に翻刻するようにつとめた。割書については原則〈〉に本行と同じ文字サイズで示し、割書内の返り点も翻刻した。字形が不明瞭な字やUnicodeで定義のない字形、使用フォント(IPAmj明朝)に割当がない字については通行字体を利用した。行頭の筆の尻による圏点は「○」。和歌に付された庵点は「〽」、踊り字については字形を参照して「〻」「々」を、改丁については表裏ともに『」』を付した。丁数は墨附丁数と表裏の別を漢数字で示した。校合に際しては本文異同が認められる場合に異同を示し、アラビア数字の文末脚注を付す形で位置を示した。捨て仮名・返り点の異同も大きいが無視した。 対校においては、もりおか歴史文化館本(1499)を「も」として、かぎかっこ内に直前の文字との異同を示し、対校本文にその文字がない場合は「ナシ」と記し、底本にない文章が挿入されている場合には(追加)を末尾の線以降を校勘記として付している。長文の入れ替えが生じる場合には底本の本文と「=」で対校本文の入れ替えを示したが、巻二にはそういう事例はないようだ。対校本文の提示は底本と同じ基準で示したが、改丁については省略した。国立国会図書館本に見られる朱点などについても脚注で示した場合がある。南朝系図はいずれの伝本も朱で単線が引かれるが、印刷の都合で墨線とした。また、系図を完全に再現することは難しいので、親子関係が分かるように若干字取りを変更している。なお組版における問題により、一部返り点やカーニングに位置ずれがある他、準假名が底本と変わっている。たとえば振り仮名中の「ヿ」などの略字は「コト」で開くようにした。捨て仮名に使われる「也」はなるべく漢字で再現した。一部は漢字で示さざるを得ない箇所もあった。附属のCDには本文データ及びフィールドコートを除いたテキストデータをも付した。巻一とは行詰め字詰めが異なることを含め、丁数表記を漢数字に変更するなど体裁が異なる点もあるほかいくつか変更がある。ご寛恕を願う次第である。書名や人名の検索には便利かと思う。翻刻の許可を頂戴したもりおか歴史文化館に深く御礼申し上げる。なお、本書はJSPS科研費JP22K13040、JP21J00181の成果である。 令和六年三月十一日梅田径記 翻刻松屋外集巻二 目次 目録1頁 第一3頁 第二6頁 第三6頁 第四8頁 第五8頁 第六10頁 第七11頁 第八12頁 第九13頁 第十19頁 第十一20頁 第十二25頁 第十三41頁 第十四49頁 第十五56頁 第十六62頁 第十七64頁 第十八69頁 第十九74頁 第二十79頁 第廿一81頁 第廿二82頁 第廿三82頁 第廿四83頁 第廿五83頁 第廿六83頁 第廿七84頁 第廿八85頁 第廿九88頁 第三十92頁 校勘記93頁 松屋外集二」(外題) (一丁空白) 松屋外集巻之二 目録 第一おほよそ衣 いざとほしゆきのよろしも肩ぬぎ 第二しらさ雲 小雲 第三よろこぶ雲 慶雲喜雲 第四ゐのこ雲 第五みづまさ雲」一オ 黒雲魚鱗雲 第六鵲の鏡 第七梁塵 第八白(シラ)木(ユ)綿(フ)幣(ミテクラ)四手(シデ)カタソギ 木(ユフ)綿麻(アサ)栲(タク)荒(アラタ)妙(ヘ)和(ニキ)妙(タヘ)玉串(タマグシ) 千木氷木(チギヒギ) 第九強盗熊坂長範 第十郢(エイ)曲(キヨク)一(ヒト)節(ヨ)切(キリ)尺(シヤク)八(ハチ)中(チユウ)啓(ケイ) 第十一經房遺書考 第十二答荒木田久守南朝系圖」一ウ 津嶋天王社1 第十三宰相大將 参議非参議八座(ヤクラ)やくらの司 もろゆき 第十四いわちどり いわけいわけなきつゞは小(チヒサ)きをいふ 長渕の濱名草の濱千鳥 第十五哆𡺸(タギ)摩(マ)知(ヂ) 尓(に)の意の乎(ヲ)与(ヨ)の心の乎(ヲ) 大坂山口がてんかも當(タイ)麻(マ)」二オ 第十六さいで しまく入道 第十七うらわかみ 第十八答屋代弘賢之問 おほあらきおほあらきの里おほあらきの杜 大荒木の駒夜半(ヨハ)ふし原ふしづけ しば原とわたるけこのみわもり 第十九答磐瀬醒之問 足袋皮(カハ)足(タ)袋(ビ)木(モ)綿(メン)足袋絹(キヌ)足袋 金(キン)抄(シヤウ)の誓言(セイゴン)馬(バ)鹿(カ)者(モノ)天守繪馬」二ウ 六十六部回國の経聖木から落た猿 第二十答椿仲輔問 比(ヒ)滿(マ)沙(サ)伎(ギ)理(リノ)簗(ヤナ)えりさす都(ツ)婆(バ)波(ハ) 山(ヤマ)都(ツ)婆(バ)波(ハ)小(コ)都(ツ)婆(バ)波(ハ)等(ト)呂(ロ)須(ス)伎(ギ) 下総豊田郡 第廿一くがにあがれる魚 第廿二歌道の養子 第廿三つくり丘 第廿四野井 第廿五哉の字」三オ 第廿六壽(ス)の假名 第廿七等身の佛 第廿八更級日記 第廿九雞(ケイ)頭(トウ)花(ゲ) 矮(ナンキン)鶏冠(ケイトウ)雞(トサ)冠(カ)菜(ノリ)2 第三十いし〳〵 (四行空白)」三ウ 松屋外集巻之二 武蔵多西平小山田與清稿 越後高關平澁谷永田保訂 第一おほよそ衣 ○古語拾遺に仍テ就テ二於倭ノ笠縫ノ邑一殊ニ立テ二磯城(シキ)ノ神(ヒモ)籬(ロギ)ヲ一奉リレ遷二 天照大神及ヒ草薙ノ劔ヲ一令二皇女豊鍬(トヨスキ)入姫(イリヒメ)ノ命(ミコトヲ)一(ヲ)奉(イツキ)レ齋焉(イツキマツラシメ玉フ)其ノ 遷シ祭ルノ之夕ヘニ宮人皆参リ終(ヨモ)夜(スカラ)宴(トヨノ)樂(アカリシテ)歌(ウタヘ)曰(ラク)美夜比登能於(ミヤヒトノオ) 保(ホ)與(ヨ)須(ス)我(カ)良(ラ)尓(ニ)伊(イ)佐(サ)登(ト)保(ホ)志(シ)由岐能與呂志母於(ユキノヨロシモオ)保(ホ) 與(ヨ)須(ス)我(カ)良(ラ)尓(ニ)自注に今ノ俗(ヨヒト)歌曰美(ミ)夜(ヤ)比(ヒ)止(ト)乃(ノ)於(オ)保(ホ)与(ヨ) 曾許呂茂比佐止保志由伎乃与侶志茂於保与曽(ソコロモヒサトホシユキノヨロシモオホヨソ)」四オ 許(コ)呂(ロ)茂(モ)詞(コトハノ)之轉(ウツル也)也按ニ美(ミ)夜(ヤ)比(ヒ)止(ト)乃(ノ)は宮(ミヤヒト)人ノ之也於(オ) 保(ホ)与(ヨ)須(ス)我(カ)良(ラ)尓(ニ)ハ大(オホ)夜(ヨ)過(ス)乍(カラ)尒(ニ)也也大ハ宴樂(トヨノアカリ)の夜(ヨ)の 盛事をほめて大(オホ)夜(ヨ)といふ豊樂の豊(トヨ)におなし伊(イ) 佐(サ)登(ト)保(ホ)志(シ)は率通(イサトホシ)也率を伊(イ)佐(サ)とのみいへるは伊 豫の伊(イ)佐(サ)庭(ニハ)なとの例いとおほかり通(トホシ)は徹(ヨトホシ)夜の 意にて夜(ヨ)一(ヒト)夜(ヨ)寐すしてうたけし徹(トホ)す也俗に夜(ヨ) 通(トホ)し立通(トホ)し起(オキ)とほしなといふもおなし萬葉集 〈十の巻〉に居(ヲリ)明(アカ)し今宵(コヨヒ)は飲(ノマ)んとよめるもまた徹(ヨトホ)夜(シ) 乃義也由(ユ)伎(キ)能(ノ)与(ヨ)呂(ロ)志(シ)母(モ)は行の宜母(モ)にも母(モ)は助 辞也行は常夜行来経行なとの行におなしくて」四ウ 時刻の移るをいふ神楽歌に鶏(トリ)は鳴(ナク)とも歌(アソ)遊(ヒ)て ゆかんなといへる行もおなし宮人(ミヤヒト)か大終夜(オホヨスカラ)に 率(イサナヒ)起(オキ)居(ヰ)て宴(ウタ)樂(ケ)し時刻の移行(ウツリユク)かおもしろくよろ しきとなり此哥の解を神楽哥の注古語拾遺の 注なとにおろ〳〵いへるはいとまさしき考とも にて取リ用るに足す又俗歌といへる方の於(オ)保(ホ)与(ヨ) 曽(ソ)許(コ)呂(ロ)茂(モ)は大(オホ)装(ヨソ)衣(コロモ)比(ヒ)佐(サ)止(ト)保志(ホシ)は膝(ヒサ)通(トホシ)にて襴著(スソツケ) 衣は膝の下に裔いと長けれはなりと賀茂翁の いはれし説よろし由(ユ)伎(キ)能(ノ)与(ヨ)呂(ロ)志茂はその衣を 着3て行貌のよろしきといへるを由を誤として」五オ 神楽に支乃与呂之(キノヨロシ)毛(モ)与(ヨ)と改たるに据(ヨリ)て著の宜 きなりと賀茂翁いはれたれと古語拾遺の諸本 いつれも由の字なれは舊に従ひて妄(ミタリ)に改むへ からす神楽哥の方にては着(キ)の宜(ヨロシ)母(モ)と心得るか よし大(オホ)凢(ヨソ)衣(コロモ)雪(ユキ)の宜(ヨロシ)もなといふ説はいとうけか たし夫木抄〈冬部三〉に天仁二年十一月家ノ歌合神樂 藤原ノ盛仲〽宮人は神のいさむるうれたさにおほ よそ衣ぬきそみたるゝ此歌の心は神の禁(イ)制(サ)む る慨(ウレハシ)さに大装衣をぬきみたるといひて肩(カタ)を脱(ヌキ) 乱(ミタレ)舞(マフ)貌(サマ)を神の禁(イサメ)にてすきかましきわさせられ」五ウ ねは心の乱(ミタレ)たるによせていへる也宮人は舞(マイ)人(ヒト) 也千五百番ノ歌合ノ嘉陽門院ノ越前か哥に榊とると よ宮人の神あそひともよめり神のいさむるう れたさは神の制止(イサメ)給ふかうれはしきと也伊勢 物語に恋しくはきてもみよかしちはやふる神 のいさむる道ならなくにといふとうらうへ也 ぬきそみたるゝは舞人の肩(カタ)を脱(ヌキ)みたるゝことに て五(コ)節(セチ)の肩(カタ)脱(ヌキ)なといふこともあり夫木抄〈冬三〉に三 嶋ノ社に奉りける神樂をしらていふ哥宮人権僧 正公朝〽霜のうへに雪をかさねて宮人のおほ」六オ よそ衣さえあかしつゝ此哥の心は宮人の大(オホ)装(ヨソ) 衣(コロモ)の霜雪にさゆるよし也さと宮人振といふ名 はやく古事記ノ允恭の段にも見えたりき 第二しらさ雲 ○夫木抄〈雑一〉或抄古哥しらさくもよみ人しらす 〽天のはらよこきりわたるしらさ雲月にもまか ふはやくけねかし此しらさ雲ものにをさ〳〵見 えす此哥の心によれは白(シラ)小(サ)雲(クモ)の心にや月の夜 ちきれたるしら雲のあるか月にもさはりてま かはすへけれははやく消(キエ)よとよめるなるへし」六ウ 小を佐(サ)といふは三樹考に例を挙たれは閲(ミ)て知 へし小雲の字も詩ノ薈兮蔚兮の箋に薈蔚之小雲 不レ能レ為二大雨一と見ゆ 第三よろこふ雲 ○千五百番ノ歌合に土御門内大臣〽もろ人のあふく のみかは君か代は空によろこふくもゝありけ り此哥夫木抄〈雑一〉にも載たり按によろこふ雲は 慶雲也卿雲慶雲なと相通(アヒカヨ)はして書けり續日本 紀〈三の巻〉類聚國史〈百六十五の巻〉などにみえ延喜ノ治部式ノ 大瑞の条に慶雲ハ状若ニシテレ烟ノ非スレ烟若ニシテレ雲非スレ雲と注(シル)され」七オ たり史記ノ天官書に若ニシテレ煙ノ非スレ煙ニ若ニシテレ雲非スレ雲ニ郁々紗々トシテ 蕭索綸囷アリ是ヲ謂フ二卿雲ト一〻〻見ハス二也喜氣一也注に正義ニ曰ク卿 音慶云々漢書ノ天文志の説亦おなし同書ノ礼樂志 に甘露降リ慶雲出ツ云々晋書ノ天文志ノ中に瑞氣一日二 慶雲一若レ煙非レ烟若レ雲非レ雲郁々紛々蕭索輪囷是謂二 慶雲一亦曰二景雲一此喜氣太平ノ之應云々などもあり 源氏ノ藤裏葉の巻の河海抄哢花抄提要目安湖月 抄ノ如菴説などに紫雲を慶雲なりともいへり韻 府に鷗陽詹カ徳勝ノ序を引て謄二歡心一揚ク二喜雲ト一見え たる喜雲もよろこふくもと訓(ヨム)へし藝文類聚〈一の」七ウ 巻天部〉雲の条に孫子カ瑞應圖ニ曰ク景雲ハ太平之應也也一ニ 曰ク非レ氣ニ非レ煙ニ五色紛縕タリ謂フ二之ヲ慶雲ト一云々同書〈九十八の巻祥 瑞部上〉慶雲の条にも挙て紛縕を氛氳に作る又景 雲卿雲などの故事をも載す武備志〈百六十一の巻占度載〉 占雲氣の篇に瑞氣ニ三アリ一ニ曰ク慶雲若レ烟非レ烟如レ雲非レ 雲郁々紛々蕭索輪囷是謂二慶雲一亦曰二景氣一此喜氣也 也太平ノ應云々管窺輯要〈五十六の巻〉瑞氣の条に一ニ曰ク 慶雲一ニ曰ク軽雲若レ烟非レ烟若レ雲非レ雲郁々紛々蕭索 輪囷是曰二慶雲一一ニ曰ク二景雲一此喜氣也太平ノ之應也一ニ曰ク 昌光赤如ク二戠4狀一聖人起而受ルコトハレ命則見ル云々なとも見」八オ ゆ此外挙にいとまなし 第四ゐのこ雲 ○夫木抄〈雑一〉源仲正ノ家集ゐのこ雲の哥に〽雲はらふ 月の光におひにけりはしりちりぬるゐのこ雲 かなこは鶴林玉露〈十五の巻〉范石湖占雨詩に飛雲走 群羊停雲浴三豨云々武備志〈百六十一の巻占雲氣一〉氣之戰 陣の条に軍行有テ二白雲一如レ猪ノ来臨スル者ハ大驚也冝ハレ備フ云〻 また〈百六十二の巻占氣雲氣二〉氣之軍敗の条に軍上ノ氣中有二黒 雲一如二羊形一或如二猪形一者此尾觧ノ之氣軍必敗ル云〻また 軍上ノ氣如ク二群羊群猪一在ルハ二氣中一此衰氣也撃テハレ之必勝云〻」八ウ 管窺輯要〈五十三の巻〉雲氣不祥占に白雲如キハレ猪ノ所レ當ル軍 夜須ク二警備フ一軍驚之兆也云〻また〈五十四の巻〉将軍ノ氣の条 に或如二群猪一在二霧氣中一皆衰気也云〻また〈五十五の巻〉 如二群猪一在二於氣中一為二敗軍一云々晋書〈天文志中〉に黒氣如ニシテ二 壊山ノ一墜ル二軍上一者名曰二營頭氣一或如二群羊群猪一在ハ二氣中ニ一 此哀氣也云〻なと猪雲の名から(漢)くに(土)ゝもきこ えたれは本朝にもさる名ありしなるへし 第五みつまさ雲 ○慈鎮和尚の拾玉集〈四の巻〉百首歌の中に〽すゑはれ ぬ水まさ雲にもる月を空しく雨のよはやおも」九オ はん此哥夫木抄〈雑一〉にも水まさ雲と題して収(イレ)た り写本には水まさ雲5ともあれと藻汐草にもみ つまさ雲とあれは多本に従へしこは水増雲の 義なるへし為尹百首に夕立早過〽夕立の水まさ 雲のはや過て涼しくうかふみかの月かけ一本 には水ます雲ともあり周礼〈廿六の巻宗伯礼官之軄〉保章氏 以テ二五雲ノ之物(イロヲ)一辨ス二吉凶水旱降農6流之祲家ヲ一云〻注に 鄭司豊公7雲色黒為レ水云〻升菴外集〈二の巻〉望氣経 の条に黒雲多レ水云々晋書〈元文志中〉に雲甚潤テ而厚ハ大 雨必暴ニ至ル四始ノ之日有テ二黒雲ノ氣一如ク二陣厚大重ル者ハ多レ雨」九ウ 云〻古徴書〈十の巻〉春秋感精符に冬至ノ日見二黒雲一有 レ水云〻武備志〈百六十一の巻占雲氣一〉氣ノ之戰陣の条に凢安スルコト レ營ヲ有テ二黒雲一如キ二鳴鶏ノ状一与二營門一相對セハ宜クへしレ移ス二営高阜ニ一天必 大ニ雨リ河水泛漲ス防ケレ有ルヲ二沈溺ノ之患一云〻管窺輯要〈卅六の巻壁宿〉 雲氣干犯占に黒氣入レハレ壁ニ有リ二破國凶一ニ曰ク有二大水一云 云なと見え同書〈五十四の巻〉風雨の条萬用正宗ノ〈一の巻〉 天文門なとにも黒雲必雨ルよしありこれを水(ミツ)増(マサ) 雲(クモ)といふへし本間游清曰豊前小倉の藩士秋山 光彪語けるはこの大江戸にて鰯(イワシ)雲といひて魚 鱗の形せる雲をわがすむあたりにては水まさ」一〇オ 雲といへりと語れり又仲田顕忠ぬし語られし は先年江ノ島へ行とて程谷驛に宿かりし時宵は 雨ふりて暁方に雲間の月ほのかに出たりこゝ にあひやとりせる飛脚の有けるが壁をへたて て人に物いふを聞は今宵は水まさ雲にて月が 明らかならぬといへり立のいそきに其飛脚は いづこの人とも問正さず水まさ雲の義8をもた つねもらして今に口をしといへり今其夜のさ まを思ひやるに慈鎮和尚の水まさ雲にもる月 をとよみ給へるによくかなへるやう又此両人」一〇ウ の話をもて考ふれは水まさ雲といへる名今世 もかた〳〵に有とみえたり猶俟二後考一云〻按に淮 南子覧冥訓水雲魚鱗とあるは此いわし雲の説 にかなへり 第六鵲の鏡 ○夫木抄〈夏三〉文永十年毎月一首ノ中民部卿為家〽か さゝきの鏡の山の夏の月さし出るよりかけも くもらす同書〈秋四〉家集月歌ノ中為家卿〽天のはら ひかけさしそふ鵲のかゝみとみるは秋のよの 月同書〈雑二〉御集慈鎮和尚〽かさゝきの鏡の山の」一一オ 夏の月さし出るよりかけもくもらす按に此哥 新拾遺〈秋下〉にも家十五首哥に月前大納言為家と て載たれは慈鎮和尚の哥とせるは誤也鵲の鏡 は月の異名也唐ノ李嶠か月ノ詩に桂ハ生ス三五ノ夕蓂ハ開ク 二八ノ時分輝度リ二鵲鏡一流彩入二蛾眉一云〻王維か清如タル 玉壺ノ水ノ詩に暁ニ浚ク飛鵲鏡宵ニ映ス聚螢ノ書云〻李白カ詩 に明々(タル)金鵲ノ鏡了々(タル)玉臺ノ前云〻王勃カ上ル二皇甫常伯ニ一 啓に鸞鑣就テレ路ニ駑駿相懸リ鵲鏡臨テレ春ニ妍媸自遠シ云〻 なと見えたるにて知へし 第七梁塵」一一ウ ○次郎百首笛藤原仲實〽吹たつる笛のしらへの 聲きけはのとけきちりもあらしとそおもふ此 哥夫木抄〈雑十四笛部〉にも載(ノセ)たり土左日記に又ある 人にしくになれとかひうたなとうたふかくう たふにふなやかたのちりもちりそらゆく雲も たゝよひぬとそいふなる云〻列子湯問篇に薛(セツ)譚(タン) 學フ二謳(ウタヲ)於秦青ニ一未タレ窮シテ二青カ之技キヲ一自謂ラク盡セリトレ之ヲ遂ニ辭シテ歸ル秦青モ 弗(スシテ)レ止(トヽメ)餞(ハナムケシ)二於郊衢(サトノチマタニ)一撫(ウチテハ)レ節(ウシキヲ)悲歌(アハレニウタフ)聲振ヒ二林ノ木ニ一響(ヒヽキ)遏(トヽム)行ク雲一薛譚 乃チ謝(ワヒテ)求シテレ反ランコトヲ終マテレ身ヲ不二敢テ言ハ一レ歸ランコトヲ秦青顧(カヘリミ)謂テ二其友ニ一曰ク昔韓娥 東ノカタ之クニレ齊ニ匱(トモシ)レ糧(カテニ)レ過(ヨキリテ)二雍門ニ一鬻(ヒサキテ)レ歌ヲ假(カル)レ食ヲ既ニシテ去ルニ而餘音遶(メクリテ)二梁欐(ウツハリヲ)一」一二オ 三日不レ絕左右以ラク其人弗トレ去過ルコト二逆旅ニ一〻〻ノ人辱シムレ之韓 娥因テ曼聲哀哭ス一里(ヒトサトノ)老幼悲ミ愁ヘ垂レテレ涕ヲ相對テ三日不レ食ハ 遽(ニハカニ)而追(オヒトヽム)レ之ヲ娥還テ復タ為ニ曼聲長歌ス一里(ヒトサト)老幼喜躍抃舞シテ 弗レ能ハ二自禁(タフルコト)一忘ル二向(サキノ)之悲ヲ一也乃厚ク賂レテ發(ユカシム)之故雍門ノ之人至マテ レ今ニ善スルハ二歌哭一效(ナラヘル也)二娥カ之遺聲ニ一云〻此説博物志〈八の巻〉史補ノ 篇にも出て餘音遶(メクリテ)二梁欐(リヤウレイヲ)一三日不レ絶の欐ノ字なし梁 欐はうつはり也劉子ノ精神篇ノ注に韓娥善歌欲二入 レ齊唱歌一行至二雍門一値二雨雪ニ一粮盡ス欲二歌ヲ乞一レ食雍門ノ人不 レ識以レ杖撃ツレ之韓娥遂ニ悲哭ス雍門ノ人聞二其哭聲一皆悲泣スルコト 三日為ニレ之不レ食ハ有智ノ者謂テレ娥曰子既ニ善ク歌フ可シ二停テレ哭ヲ而」一二ウ 歌フ一韓娥即唱歌ス其歌清暢可レ動二梁塵ヲ一雍門ノ人聞レ之又 三日忌二其ノ食ヲ一也云〻藝文類聚〈四十三楽部三〉歌部に劉向 別録ニ曰ク有リ二麗人歌フ一レ賦ヲ漢興以来善キ二雅歌ニ一者ハ魯人虞公也 發スレハレ聲清哀蓋動ス二梁塵ヲ一云〻同〈四十四の巻楽部四〉箏ノ部ノ梁ノ簡文 帝ノ箏ノ賦に使ム二長廊之瓦ヲシテ虛墜(ムナシクオチ)梁ノ上ノ之塵ヲシテ染(ソマ)一レ衣(キヌニ)云〻杜 氏通典〈百四の巻楽五〉歌の条に有リ二漢ノ有9虞公一善ク歌フ令シメム下梁上ノ 塵ヲシテ一起上云〻なと見えし梁塵も共に餘音逹󠄄ル二梁欐一に 起れる語也本朝の古書に梁塵秘抄梁塵秘抄口 傳集梁塵愚按抄なと名つけ古文におほく韓城10カ 之塵と書るものみなこれを据(ヨリトコロ)とす」一三オ 第八白(シラ)木(ユ)綿(フ)幣(ミテクラ)四手(シデ)カタソギ ○木(ユ)綿(フ)ハ穀(カヂノ)木(キ)ノ皮ヲ剥(ハキ)テ晒(サラ)シタルヲ云フ穀(カヂノ)木ハ紙 ニスクカウゾト云フ也11梶(カチノ)葉(ハ)ノ紋(モン)ナドモ此ノ木ノ葉 ノ形ヲ取レル也其ノ色白キユヱ白(シラ)木(ユ)綿(フ)ト云フ此レヲ 布(ヌノ)ニ織(オレ)ハ最(イト)柔(ヤハラカ)ナルユヱ柔抄(ニギタヱ)ト云フニキハ柔(ヤハラカ)ナル 事タヘハ約(ツヽシテ)テテトモイフサイデナト云モ裂布(サキヌノ) ニテ細(コマカ)ニ裂(サキ)タル布(ヌノ)也キヲイト云ハ音便也然(サ)レ バニギテト云フハ柔(ニギ)妙(タヘ)ノ約(ツヾメ)談(コトバ)白(シラ)ニギテト云ハ白(シラ) 木(ユ)綿(フ)モテ織(オリ)タル柔布(ヤハラカナルヌノ)ト云フ事也此レヲ神衣ノ料ニ 奉リ又白木綿ノマヽニテモ奉ル也ヌサト云フモ」一三ウ 此ノ妙(タヘ)ヲ細(コマカ)ニ切テ神ニ奉ルハコロモヲ手(タ)向(ムク)ル義ニト レル也ヌサハ禱麻(ネギアサ)也ネギヲ約(ツヽメ)テヌト云ヒフサ ヲ省(ハブキ)テサト云フ古語拾遺ニ麻(アサ)謂二之ヲ総スサトモ一ト見ユ神ニ 請(コヒ)禱(ネガフ)トテ奉ル麻(アサ)ノ心也其ノ衣ハ木綿(ユフ)ニテモ麻ニ テモ織レバ通(カヨ)ハシテイヘル也又青(アヲ)和(ニギ)手(テ)トハ麻 ハ木綿ヨリモ色劣(オト)リテ青(アヲ)ケレバ麻(アサ)モテ織(オリ)タル 柔(ニギ)布(テ)ヲ云フ也柔(ニギ)妙(タヘ)ニムカヘテ荒(アラ)妙(タヘ)ト云ハ荒(アラ)ク織 タル布(ヌノ)也ユフト云フ名ハ物ヲ結(ユフ)モノナレバ也又 タクト云ヒ栲(タク)縄(ナハ)栲(タク)綱(ツナ)ナドモ云フハ手繰(タクル)義也麻(アサ)ニモ 木綿(ユフ)ニモ渉(ワタ)リタル12總名也後世ハタグルト濁(ニゴリ)テ」一四オ イヘド古ハ清テタクルト云ヘル也 ○弊(ミテグラ)ハ滿座(ミテグラ)ニテ座上ニ充滿セシメテ奉(タテマツ)ル義欤又 ハ手(テ)ニ持(モチ)テ座(クラ)ニ備(ソナフ)ル義ニテ御(ミ)手(テ)座(クラ)物(モノ)欤又ハ手(タ) 向(ムケ)座(クラ)ニテ御手向座(ミテクラ)物(モノ)ノ義欤トマレカクマレ座(クラノ) 上(ウヘ)ニ滿備(ミテソナ)ヘテ奉ル物也座トハスベテ物ヲ置(オ)ク 処ヲ云フ倉モ物ヲ置ク家(ヤ)也馬ノ鞍ハ人ヲ乘セオク 処也位(クラヰ)ハ人ノ就(ツイ)テ居ル処也サレバミテグラノ クラハ物ヲ滿(ミチ)テ置(オ)ク処ニテ臺(ダイ)ナドヲ云ベシ後 ニ幣束(ヘイソク)ヲミテグラト云ハ上古榊(サカキ)ニ木綿(ユフ)ヤ玉ヤ 鏡ヤクサ〴〵ノ物ヲ付テ手(タム)向(ケ)種(グサ)ニセシヲマネテ」一四ウ 紙(カミ)ニテ作(ツク)リ轉(ウツ)リテハ金銀ノ幣(ヘイ)ナド云フモ出来タル 也太(フト)玉串(タマグシ)ト云フハ太(フト)ハホメタル詞タマクシハ玉 ヲツケタル串(クシ)欤又ハ手(タム)向(ケ)種13手(タム)向(ケ)串(クシ)欤此レモ臺(クラ)ニ 充テ奉ル由ニテミテグラトハ書ル也 ○木綿四手ハ木綿(ユフ)ハ前(マヘ)ニイヘル如ク穀(カヂノ)木(キ)ノ皮ヲ 剥(ムキ)テ晒シタルニテ今ノ苧ヨリモ色白キ物也四(シ) 手(デ)ハ下垂(シヅタレ)シヅタレノツヲ省(ハブ)キタレヲ約(ツヾメ)テテト 云フシダリ柳シダリ尾ナドノシダリモ下垂(シヅタレ)也下(シモ) ヲシヅト云ハ下(シヅ)枝(エ)下(シツ)情(コヽロ)ナト例多シ又省(ハブキ)テシト ノミ云フハ高倉下ヲカクラジト云フ類也上古榊(サカキ)」一五オ ニ木綿(ユフ)玉(タマ)鏡(カヾミ)ナド付テ弊(ミテグラ)ニセシヨリ神ニ木(ユ)綿(フ)付(ツケ) タル榊(サカキ)ヲ太(フト)玉(タマ)串(クシ)トテ奉リ後ニハ木(ユ)綿(フ)ヲ紙ニカ ヘテ榊ニ付ケ或ハ榊ナラヌ竹ナドニ挟(ハサミ)テ木綿(ユフ) 四手(シテ)トモ幣束(ヘイソク)トモ云フ事トナリヌ又左(シ)縄(メ)ナドニ 付ル紙モ木綿(ユフ)ヨリ思ヒヨリタルニテ木綿(ユフ)下垂(シテ)ノ 義ナリ ○カタソギハ宮柱ノ屋根(ヤネ)ノ千木(チキ)ノ片(カタ)方(〻)殺(ソキ)タルヲ 云フ千木(チキ)亦ハ氷(ヒ)木(ギ)トモ云ヘリ肱(ヒヂ)ノ如ク組合(クミアハ)セタル 木ナレバ肱(ヒヂ)木(キ)ナルヲ上(カミ)ヲ省(ハブキ)テハ千(チ)木(ギ)下(シモ)ヲ省(ハブキ)テ ハ氷(ヒ)木(ギ)ト云フ也カヤ葺(ブキ)ノ屋根(ヤネ)ノ押(オサ)ヘニ前後ノ軒(ノキ)」一五ウ ノ端(ツマ)ヨリ頂上(ヤノムネ)マデ木ヲ二本ヤリチガヘタル末(スヱ) ノ長ク出タルサマヲ千木(チキ)高領(タカシリ)ナド云フモ千木高 ク顕(アラハ)レタル家ニソコヲ領シ住義(スムヨシ)也片ソギノ行(ユキ) 合(アハ)ヌト歌ニヨメルモ木ヲヤリ違(チガ)ヘシ上ノ前後 ヨリ行合フ処ヲ云フ又風雅集ニ度會ノ朝棟ガカタソギ ノ千木(チキ)ハ内外ニカハレドモチカヒハ同ジ伊勢 ノ神風トヨメルハ内宮ニハ内ヲソギ外宮ニハ 外ヲソグト云フ後ノ定メアルニ据(ヨ)レル也 以上略考四箇條所答平戸城主松浦14源凞朝臣之 問也」一六オ 第九強盗熊坂長範 ○強盗(カウタウ)熊坂(クマサカ)長範(チヤウハン)といふもの美濃國赤坂の宿(スク)にて 夜討し牛若丸に討たれし事は烏帽子折ノ謡曲(ウタヒ)熊坂 謡曲(ウタヒ)なとに見えたれどもと作り物語なれば信(ウチ) 用(ヒク)べくもあらず此(コ)は義経記に陸奥の金(カネ)商(ウリ)吉次 牛若をぐしてくだりけるに近江國鏡(カヾミノ)宿にやど れる夜強盗仙道(センダウ)の大(ダイ)将(シヤウ)出羽ノ國人由(ユ)利(リノ)太郎越後ノ 国頸(クヒキ)城郡ノ人藤澤入道信濃人さんの権頭の子息 さんの太郎八代(ヤツシロ)のごんの守遠江人蒲ノ与一駿河 人奥津(オキツノ)十郎上野人とよ岡(オカノ)源八など夜討してみ」一六ウ なうたれ中にも藤澤入道大長刀にて戦しが遂(ツヒ) に牛若に討れしよし見ゆこれを翁(マヒ)の烏帽子(エボシ)折(オリノ) 草子に美濃國青(アオ)墓(ハカノ)宿にて熊坂のちやうはんと いふものヽ夜討せしよしに引直(ヒキナホ)して作りたる を謡曲(ウタヒ)はそれによりて又作りなほしたるもの 也されば熊坂長範は義経記の藤澤入道が事な るを雜々拾遺に賀州ノ熊坂太郎長範といふは藤 原氏なり武勇たくましかりしが後に盗賊の頭 となり近江の国鏡又は美濃路へ立こえ往来の 旅人をはぎとり世を渡るよししるせしはいみ」一七オ じき妄説也謡曲拾葉抄に異本義経15といふもの を引て熊坂張樊といふ盗(ヌスヒト)は加賀ノ国熊坂ノ人なる が美濃国赤坂ノ宿にて夜討し牛若丸に討れしよ し記せるもいと〳〵うけがたし又張良の張の字 と樊噲の樊の字をとりて智勇を表(ヘウ)したる名と いへるもしひごと也烏帽子折草子にくまさかの ちやうはんおやこ六人とも見え七歳のとしは じめて馬(ムマ)を盗みそれより強盗の大将軍(ダイシヤウグン)となり 五人の子どもゝ各(オノ〳〵)ぬす人のわざにかしこくて 世に横行(ワウキヤウ)せしよしなどあれば六十ばかりの翁(オキナ)」一七ウ なりけんことおしはかられ烏帽子折ノ謡曲(ウタヒ)に六 十三といへるもさもとおもはるゝ也然(サ)て長範 が年齢形粧などは義経記の藤澤入道がさまと 烏帽子折ノ草子烏帽子折ノ謡曲(ウタヒ)熊坂ノ謡曲(ウタヒ)など考て 押量(オシハカル)べし○又按陸奥人熊坂邦子彦が文章諸論 に熊坂四郎長範の事を記して信州の名族とし 保元の役に左馬頭義朝に従て白川殿を攻奉り しものとす又平氏の粟(アハ)を食(ハム)を恥(ハヂ)て剽掠(ヒキハギ)を業(ワサ)と せしを伯夷叔齊が節(セツ)に比したるなどみなしひ て己(オノレ)か先祖とし其名をかゝやかさんための文」一八オ 飾也家系譜牒は私の説を主張せるもあれば従 ひ用ひがたきはた少(スクナ)からす熊坂長範に子孫あ りといふ事もいかゞあらん熊坂は地名にて相 模ノ國愛甲郡にも熊坂村あり又平家物語七の巻 北國下向の条に信濃と越後の境なる熊坂山に 陣をとると見え盛衰記ノ廿八の巻北國所々ノ合戦 の条同卅の巻平氏ノ侍共亡ル条などに熊坂とある も同處ときこゆこはもと山の隈(クマ)の坂(サカ)の事にて それに起(オコ)れる名なれはさる地名諸国におほか るべくそこに住(スミ)たる人熊坂を称号とせしもあ」一八ウ またなるべければ熊坂氏必ス長範が子孫といは むもいかゞ也烏帽子折ノ草子に据(ヨ)れば父子六人 こと〴〵く討れたれば子孫なしといはんかたま さるべし又義朝に従ヒて白河殿を攻奉りし熊坂 四郎は名(ナ)乗(ノリ)も傳はらねば長範也といふ證(アカシ)もな しされば金商(カネウリ)吉次をおひやかせしといふ熊坂 長範は作(ツク)り名にて藤澤入道が前名なること義経 記烏帽子折ノ草子を考合せて知(シル)べし長範が事蹟 實録にはたえて見えさるを強(シヒ)てありし人とせ んはいかにそや續本朝通鑑ノ六十二の巻にも俗」一九オ 説ニ義経殺スト二強盗熊坂長般及ヒ其ノ従数人ヲ於赤坂ニ一蓋シ与二 由利藤澤之事一相謬リ傳ル者ト乎といへり緒論に邦乘 を閲(ケミ)し野史氏を考フといへるは俗書に己が闇推 の説をくはへてかく古書に見えたり顔に書出 しなるべしそは文辞のみを崇(タフト)びて皇國(ミクニ)の事實 を踈(オロソカ)におもふものおほかれば也藤澤入道を熊 坂長範と改めしは當(ソノ)時(カミ)藤澤氏にはゞかる人な とありてのわさにやさて牛若金商吉次末春に 具して東國に下れるよしは平治物語三の巻盛 衰記四十六の巻同劔の巻なとに見えたれと鏡ノ」一九ウ 宿にて強盗を討し事は義経記を出處とす本朝 事蹟考に青野原といへる説はかたはらいたし 右強盗熊坂長範考ハ所レ也答二平戸侯ノ隠居松浦静山君ノ 之問ニ一也 第十郢(エイ)曲(キヨク)一(ヒト)節(ヨ)切(キリ)尺(シヤク)八(ハチ)中(チユウ)啓(ケイ) ○郢(エイ)曲(キヨク)とは催馬楽(サイバラ)今様(イマヤウ)朗詠(ラウエイ)なにゝても歌謡の名 にて郢曲といふ一(ヒトツ)の謡物(ウタヒモノ)あるにあらず徒然草 野槌に此辨見ゆ今世朗詠をうたふをのみ郢曲 と心得たるはひか事也さて朗詠の曲(フシ)今様の曲(フシ) 神樂催馬樂風俗の曲(フシ)の類呂律の声調各別なる」二〇オ べけれど今の世の猿樂謡(ウタヒ)と長唄(ナガウタ)と相違フかことく はあらさるべし必竟は朗詠の曲(フシ)にて新作の詞(コトハ) をうたひ作(サ)略(リャク)をも加(クハ)へて今様とはいへるにや 白拍子といふは拍子とる名にて長門本ノ平家物 語に白拍子をかぞへすましなどもあり此今様 の舞に一(ヒト)節(ヨ)切(キリ)を用たるは古書にをさ〳〵見あた らねど一節切は洞簫尺八の同属にて少(スコ)しづゝ 趣(オモムキ)をかへたる也一節切の長(タケ)一尺八分あるも尺 八の名に叶(カナ)ひたり白拍子の作者信西入道が後 白川院に奏奉(ソウシタテマツ)りし保元三年内宴を再興せるを」二〇ウ り尺八をもつくり出て用たるよし続世継内宴 の巻に見えたればよしあることにや寛永以後三 絃にあはせてふく一節切は宗佐高瀬(タカセ)などより 大森宗勲に傳はり宗勲その製作をも吹様をも 斟酌せしなるべし宗勲は和泉ノ堺人にて紫の一 本に宗勲が切たる葛の葉風といふ銘の一節切 かとありそは紙鳶〈下巻元禄十二年刊本〉倭漢三才圖會〈十八 の巻樂器類部〉類聚名物考〈樂律部五〉雅遊漫録〈五の巻〉など考て しらる尺八は和名抄〈音楽部〉源氏物語〈末摘花〉なとに 出たればはやくより傳はれるを保元の比には」二一オ 再興したる也また舞の中(チユウ)啓(ケイ)を襟(エリ)にさすことさも あるへけれど古画などの證今とみに見出がた し中啓はいにしへの蝙蝠(カハキリ)扇にて源氏ノ紅葉ノ賀に 源内侍が顔をおほひしこと見ゆ末(スエ)廣(ヒロ)といふはた これ也今の俗間の扇は檜(ヒ)扇(アフギ)の形に厚紙を折竹 骨を用て製れるにて寶の蝙蝠(カワキリ)にはあらす出家 の一束(イツソク)一本(イツホン)とも束本(ソクホン)ともいひて厚紙一束〈十帖なり〉 中啓一本を臺に積(ツミ)て礼式(レイシキ)の進物にするも蝙蝠(カハキリ) にてこれ古代より男女出家すへて用ひし物也 右所シレ答ル二平戸隠居静山老候ノ之問ニ一也」二一ウ 第十一經房遺書考 ○文政元年摂州能勢郡野間庄野村16ノ民勘兵衛修二理シ 其ノ居宅ヲ一於テ二梁上ニ一得タリ二古文一巻ヲ一同州池田ノ里人山川正 宣〈俗称二大和屋大三郎一〉喜テ而謄二冩シ之ヲ一記シテ二其所由ヲ於巻尾ニ一云ク此レ建 保中左少辨藤経房朝臣ノ遺書無シトレ疑也廼チ別ニ冩シ二二通一 以テ二一通ヲ一納メ二於能勢ノ陣屋ノ之帑蔵ニ一以テ二一通ヲ一納テ二於出野ノ若 宮八幅17ノ祠中ニ一將ニストレ傳ント二於不窮ニ一云フ ○あまりをまりと書て十とせまりなとあるは賀 茂翁〈真渕〉の文体にならへるにて建保の比の体に あらず」二二オ ○麿(マロ)とあるも建保の比は丸と書たるがおほし近 世の古学者麿(マロ)麻呂(マロ)滿(マロ)など好(コノミ)て書クことなり ○大輔ノ判官といへる名目いといぶかしこは大夫ノ 判官をかくおもひ誤れるなるべし大夫ノ判官は 五位したる廷尉の嘉号なりまた郡司景家とい ふ名もいかにぞや ○御幸は院にまうす例にて西宮記北山抄などよ り後は必ス主上に行幸院に御幸と書こと也こはミ ユキとかイデマシとか訓(ヨム)へく心得てみだりに 書たるなり建保の世の人にかゝる誤はたえて」二二ウ なし ○典内侍これはナイシノスケの事を俗にスケノ ナイシといふより典の字をスケに當(アテ)てみだり に書たる也典侍を音(オン)には清(スミ)てテンシ訓(クン)には清(スミ) てナイシノスケと訓(ヨム)例也 ○舟をありそにつけなどいへるありそも荒磯(アライソ)の 約語にて萬葉におほかりこれもなきさとか磯 とか岸とかいふが中むかしのくちつきなるを や ○おもぶせしてはおもてぶせといふ詞よりさか」二三オ しらに思ひまうけし也 ○おとゆふはをとはひの夕を省(ハブキ)て古言らしくは なしたる也すべて古言は切約とおもへるにや 〽そゝりらがひまりげたはきゆく土手の西瓜(スイクワ)の皮 ですべるへうなりといへる狂歌さへふとおも ひ出られていとおかし ○市女が笠てふものに似たると云〻てふといふ 詞此外にも見ゆ文詞にはといふと書クを歌詞に は約(ツヾメ)ててふとよみ万葉にはとふともちふとも よめり古本ノ神楽哥の詞書にてふとあるのみに」二三ウ て外の書にはをさ〳〵見あたらずさるを賀茂翁 のともすれは何てふ〳〵と書れたるを見まねび てのわざ也建保の比にはふつになき事也 ○主上を八ノ宮とまうし〈安徳天皇也〉崩御の後若宮八幡 とあはせ御やまひ祭りければ云〻こは若宮 八幡を由縁ありげにせんとての傅會妄作也又 あはせやまひ祭りといふも例の古(フル)めかしく 作り出たる詞也 ○種長は君の来(クル)見(ミ)の御つくり哥を原にもて来見 権現とあかめ奉れりと云〻〈原は地名也来の字今ひとつすべし〉」二四オ こは上の文に十月廿四日はつ雪ふりて道にめ なれし山〻のいとめつらしくいつもの峰に御 幸ありて〽初雪をめてつゝこゝにく(クか)る18見れは 峯はきのふに似ずもありけり此峯を里人は来(クル) 見(ミ)山あるはくるみが峰ともいふとあるうた也 これも望里なる来見権現といへる叢祠を所由 ありげにせんとてまうけ出し説なり ○従四位上侍従行左少辨藤原経房この位署いと 不審なり従四位上行左少辨侍従藤原朝臣経房 とあるべきことわりなりそは軄原抄ノ後附の位署」二四ウ 式を見てもしらるゝにさるすぢもたどらぬも のゝしわざ也又公卿補任辨官補任など考るに 経房は安徳後鳥羽などの朝に仕へて治承四年 に左中辨正四位下寿永三年に左大弁参木同年 九月に権中納言後に正二位大納言にも進たる 人也従四位上行左少弁といふこと無稽にて笑ふ べし ○假(カ)名(ナ)遣(ヅカヒ)手尓乎波(テニヲハ)のみたりなるは山川正宣が跋 にもうけひきたるよしにしるし又経房といふ 人片田舎にさすらひて土民になり下り年さへ」二五オ おぼれての筆なればとて見ゆるしもすべしさ れど其時代手尓乎波は正しかりしをかく誤べ くもなく近世萬葉家といふもの出来て後の詞 つきなるもうけがたき證也古学〈万葉家の類也〉は実に 千古卓越の道なれど片田舎人が賀茂翁本居宣 長なとの著書をよみそれに心うつりて偏見固 陋にのみなりゆき道理をさとらざるはいかに ともせんすべなしさる方か本やぶりの村学者 ぞかゝるえせごとしいでゝ世をあざむかんと はすめるそは木曽義仲がおのれうましとおも」二五ウ へる田舎料理を猫間ノ黄門に強(シヒ)すゝめけむにひと しく鶯鳩が大鵬をわらへるがごとくなとにや ○山川正宣いみじくしんじて奥書せるはいかに ぞや正信は本居宣長が門徒のよしきこえ仙足19 石碑の解をも著したればかゝるえせものにま どふへくもあらじをなにゆゑにかありけむ知 りてうけがひ顔したらんには学者の心にあら ず不レ知してしむじたらんには愚蒙のかぎりと いふべしそも〳〵の隆房の書を偽作せるよしは かの伊勢のわたりになま田舎学者ありてその」二六オ 里の叢祠をたふとげにいひなし己が家系なと を世にあら20さばやとおもへる愚癡心に起れる 也さるは深田源内が大系圖を偽作し駿河ノ志豆 波多の社官が類聚国史の冩本に己が仕フる社を 總社のよし書加ヘて世を欺キたる類也具眼の学者 一観せばいかにつくりかまふるとも忽にその 偽を見あらはしつべきを管見固陋の心より猿 丸が笋(タケノコ)を盗(ヌスミ)折(クヂキ)て己(オノ)が耳(ミヽ)を塞(フタグ)ごときわざすなるぞ をかしきや 第十二答荒木田久守南朝系圖」二六ウ ○尾藩ノ儒官秦氏及ヒ津島ノ宮司氷室氏などより尋 問とてその問書の文をもて御問の条左に御答 申候 ○南朝紹運録は天野信景が手より出候ものにて 古本を以て増訂せし書なり後に大和人竹口栄 齋増補して一書とす悉委しといへども正史に 對(ムカヘ)考ればなほ牽強傅會なきにあらす ○宗良親王の御子尹良親王及ヒ御孫の良王の御事 は浪合記の外所見なし新葉集李花集信濃宮ノ傳 などに見えて北朝にとらはれ給ひ年経て後永」二七オ 和三年九月京にて薨じ給へるは宗良の御長子 興長親王と申て母は狩野介貞長女也尹良親王 は興長のさし次(ツギ)の御弟にて母は知久四郎左衛 門尉敦貞が女とも又は井伊介道政が女ともい へり尹良をユキヨシと訓(ヨム)は尹は廣韻に進也と 注したればユキとよみしなりされど姓名録抄 拾芥抄宗二が節用集新撰類聚往来伊呂波字類 抄などに太〻(タヾ)と訓てユキと訓たる例なければ なほ太〻(タヾ)と訓んかたしかるべくや良は右の書 ともに与之(ヨシ)とよみ拾芥抄には羅(ラ)ともよみたれ」二七ウ ど後醍醐天皇の御子の御名の仮(カ)名(ナ)に書たるも のにみなよしとあればこれもたゞよしとまう すべくおぼゆ浪合記も天野信景が手に書候へ ば彼か増訂なと候はむ欤極なし21とは申かたく候 ○日本史ノ菊池武光が傳に菊池武朝申状を引て将 軍ノ宮としるされしは征西将軍ノ宮懐良の御子良 宗にて母は武光が妹也貞治二年誕生菊池北朝 降参の後人臣に列し後醍(ゴダヰ)院越後守良宗と名の り九州に漂白して死去のよし後醍院系図に見 ゆ懐良は後醍醐天皇第十四の御子にて後村上」二八オ 院のさし次の御弟也明史名山蔵などには良懐 とあり ○天野信景塩尻一の巻に尾張津嶋牛頭天皇ノ祠ノ社 傳ニ欽明天王ノ元年鎮座云〻〈不レ見エ二日本紀ニ一牛頭天王ノ名此時未レ有ラ〉改 暦雜事記ニ聖武帝ノ天平五年吉備皈朝於テ二播磨ニ一逢フト二牛 頭天王ニ一廣峯社記及ヒ峯相記同シレ之ニ按ニ續日本紀無シ二此 説一吉備津嶋社記ニハ嵯峨帝再建ト云々〈日本後紀類聚国史等無下建二牛 頭天王祠一事上當時夭疫多シ然トモ亦無下祭二牛頭天王ヲ一説上〉清和帝貞観十一年以二津 嶋天王一勧二請スト山城ノ國祇園ノ社一三代實録無シ二此ノ説一二十 二社註式及ヒ改暦雜事記峯相記廣峯古證文皆以二」二八ウ 播州飾磨郡廣峯ノ牛頭天王一為二京師祇園ノ本祠ト一凢國 史無シ二牛頭天王ノ之事一然ハ則中世以後所レ祭欤東鑑ニ見エ二 尾州津島ノ社ノ名一と見えて定説なし ○倭訓栞に津嶋午頭天王の社は嵯峨天皇の御宇 祠を建ツされど神名式には載せず神主の初は尹 良親王の二男良新王より起るといふ智證大師 の傳にも見えたれば由来久しとあるは浪合記 に依て書たる也尹良新王は尹良親王に作るべ し智證大師の傳に見えたりといふは津嶋神の 事にて神主を指せるにあらずさて津島牛頭天」二九オ 皇の事三善清行朝臣の天台宗延暦寺座主円珍ノ 傳今昔物語ノ十一の十一語元亨釋書ノ三の巻の傳 などにはみえねど圓珍山王明神を祈りしを神 社考に素戔嗚神のよしいへるに起れる説なる べし津島の名は名寄の長明か歌夫木の中務の みこのうた宗長手記名所方角抄などにみゆ南 朝系図を作りて御覧ニ入候 ○南朝系図〈按ニ南朝之称始テ見ユ二于太平記十九巻青原軍ノ条ニ一焉〉 (二行空白)」二九ウ 後宇多院第二ノ皇子母ハ談天門院藤ノ忠 ○後醍醐天皇子内大臣師経公ノ養女実ハ参議忠継卿ノ 女也也正應元十一二降誕御諱尊治文保三二 廿七践祚延元四八十六崩葬于吉野塔尾山 陵宝筭五十一本朝皇胤紹運録増鏡皇年 代畧記太平記 尊良親王母冷泉為世卿女贈三位為子慶長元誕 生一品中務卿延元三三六生二害于越前 国金崎城一御年廿称二22一宮一紹運録増鏡太 平記 守永親王一品上野太子蓋称二一品宮一或称二宇都 峰ノ宮及ヒ西應寺ノ宮ト一新葉集元弘日記 結城古文書 良玄大僧正母ハ蓋従一位右大臣公顕公ノ女御匣 殿二条関白良基公ノ猶子入二室一條」三〇オ 院一二十四世門跡傳南朝紹運圖 女王母大納言典侍増鏡一本 南朝紹運録圖ニハ為二女王二人一 世良親王母参議實俊卿ノ女遊戯門院ノ一条上野太 守又太宰ノ帥元徳二九十七薨称二河端宮一 紹運録増鏡常楽記 女王紹運録 護良親王母ハ民部卿ノ三位大納言師親卿ノ女二品天 台座主兼二梨本大塔両門跡一故称二大塔宮一 元弘元還俗同三征夷大将軍建武二七廿三 為二足利直義一被レ害二於鎌倉一紹運録太平記 陸良親王一本紹運録圖作二常良一母北畠准后親房 卿妹征夷大将軍正平十五年謀反自害」三〇ウ 太平記寺院文書纂櫻雲記紹運圖南方 記傳按ニ石川忠総自記ニ遊行十二代上人ハ大塔 宮ノ御子云〻甲府一蓮寺系圖遊行十二代尊 観上人亀山院ノ御子常盤井殿一品式部卿恒 明云〻常盤井殿第四子遊行十二代上人尊 観云〻此与二石川記之説一相矛盾 女王母ハ竹原八郎女 太平記 宗良親王母ハ同二尊良一正和二誕生天台座主尊證延 元元還俗一品中務卿名二宗良一征東将軍 天授三落飾元中二八十薨二于遠江國井伊谷一 年七十三新葉集者称二信濃宮一或上野親王 新葉集太平記天台座主記信濃宮傳 興良親王母ハ狩野介貞長女天授三九月薨二于京 都一新葉集李花集信濃宮傳」三一オ 尹良親王母ハ知久四郎左衛門敦貞女或云井伊 介道政女於二信濃國一生害浪合記 女王一本南朝紹運圖大橋三河守定省室 良王母ハ世良田政義女住二于尾張津嶋一 大橋氏ノ祖浪合記 良新母同二良王一 信重母ハ大橋貞元女 静尊法親王母ハ参議實俊卿女初ノ諱恵尊又尊珍 嘉暦三正晦親王宣下聖護院御入 室紹運録釋家官班記」三一ウ 恒性法親王大寛寺23御入室元弘三十九於二越中國一 為二北條一被レ害称二越中宮一紹運録門跡 傳太平記 滿良親王母ハ中納言宗親卿ノ女親子元弘三誕生称二 花園宮一後落飾号二無文選24禪師一渡元帰朝 之後歴中25七閏三廿二於二遠江国一入寂年六十 凢無文元選禪師行状元弘日記佐伯杏仙蔵 古文書 恒良親王母ハ新待賢門院正中元誕生建武元正廿 三立坊延元〻十月北國下降同三七十 二為二足利尊氏一被二鴆殺一年十五太平記紹運 録増鏡 成良親王母同レ上正中二誕生建武元鎌倉下向号二 將軍一亦上野宮同三七月為二尊氏一被二鴆殺一 年十四太平記紹運録 看良親王」三二オ 尊親法親王又名二果尊一母ハ少納言ノ内侍四条隆資卿ノ 女紹運録新葉集 法仁法親王母ハ従三位為道卿ノ女正中二誕生初ノ諱ハ 躬良又省良仁和寺御入室正平六二 廿二叙二二品一同七十廿五遷化年廿八紹運 録仁和寺御傳 人皇九十六代 ○後村上院諱ハ義良母ハ新待賢門院廉子嘉暦三九月│ │降誕元弘三親王宣下延元〻御元服三│ │品陸奥太守同三八十七御即位正平廿三三│ │十一崩御年四十一神皇正統記太平記元│ │弘日記鳩嶺雑事記花営三代記│ ││ │懐良親王母ハ従三位為道卿延元中九州下向居二│ │于肥後国八代一元中中薨号二牧宮一或阿蘇│ │宮鎮西宮高田宮九州宮征西将軍宮太平記│ │紹運録後醍院系圖按明史名山蔵等ニ諱ヲ作二│ │良懐一」三二ウ│ │良宗母ハ菊池武光妹正平十五誕生後号二後醍院│ │越後守一死二于九州一後醍院系圖│ ││ │良忠後醍院伊豆守其子孫仕二嶋津家一│ │後醍院系圖│ ││ │聖助法親王母ハ少納言内侍菅原在仲卿ノ女│ │聖護院御入室紹運録│ ││ │玄圓法親王母ハ従二位守子後ノ山本左大臣ノ女一乘│ │院御入室紹運録諸門跡譜│ ││ │皇子母ハ中納言典侍親子宗親卿ノ女│ │紹運録│ ││ │皇子母同二護良一紹運録」三三オ│ ││ │皇子母同二法仁一阿蘇宮│ │紹運録│ ││ │皇子母ハ昭訓門院ノ近衛│ │紹運録│ ││ │懽子内親王母ハ後京極院為二伊勢斎宮一後光嚴院ノ中│ │宮其後称二宣政門院一入二于保安寺一落飾│ │紹運録増鏡女院小傳新葉集作者部類│ ││ │准后紹運録│ ││ │祥子内親王母ハ新待賢門院元弘三為二伊勢斎宮一称二│ │前斎宮一後入二于保安寺一落飾号二長慶門│ │院一歴代皇記新葉集紹運録作者部類南朝│ │紹運圖│ │妣子内親王女同二護良一今林尼衆│ │紹運録」三三ウ│ │帷子内親王一品異本紹運録│ │作二懽子一│ │欣子内親王母新待賢門院今林尼衆号二鷲尼一│ │紹運録作者部類│ │皇女母同二世良一今林尼衆│ ││ │皇女母ハ遊義門院ノ左兵衛督ノ局為忠卿女│ │今林尼衆紹運録│ ││ │皇女母同二尊良一│ │紹運録│ │皇女紹運録│ ││ │皇女紹運録」三四オ│ ││ │皇女母後宇多院権中納言女房│ │紹運録│ ││ │皇女母基時女│ │紹運録│ ││ │皇女母民部卿局関白基嗣公室│ │後離別紹運録│ ││ │皇女母一品實子山階左大臣女│ │紹運録│ ││ │皇女母大納言局│ │紹運録│ ││ │皇女母坊門局│ │紹運録│ │皇女母後室町院│ │紹運録」三四ウ│ │皇女母同二法仁一26│ ┌──────────────────────────────┘ │人皇九十七代 ○│後亀山院母嘉吉門院福恩寺関白ノ女也諱凞成正 │平廿三三月御即位元中元27閏十月与二北 │朝一御和睦之後住二于嵯峨大覺寺一應永元二廿 │二28太上天皇即日御落飾法ノ諱覚理灌頂又ハ金 │剛心同卅一四十二崩宝筭未レ詳紹運録和 │漢合運吉野拾遺椿葉記皇年代畧記 │長慶院母同上諱寛成 称二玉川宮一花咲松 尊聖大僧正日本史 惟成親王母大蔵卿局中努卿又式部卿又太宰帥 落飾之後号二梅陰祐常一古今系圖新葉 集五百番歌合」三五オ 秦成親王母ハ同二後亀山院一正平十五年誕二生於住吉一 太宰帥及式部卿後為二後亀山院太子一元 中〻薨新葉集南朝紹運圖 世恭親王母ハ従二位教子 説成親王母ハ新待賢門院ノ冷泉上野太守号二護性院 宮一或五常院宮南帝系圖諸門跡譜 圓悟大僧正母ハ楠正儀女住二于圓満院一 諸門跡譜 帥成親王兵部卿出家シテ号二恵梵一 新葉集李花集奥書 良成王鎮西ノ宮古系圖 憲子内親王一品宮 新葉集」三五ウ 皇子 小倉宮御母中宮信子土御門右大臣顕信卿女也 住二于嵯峨一椿葉記 教尊大僧正諱ハ恭仁後勧修寺ニ御入室大僧正兼二安 詳寺ノ々努一椿葉記諸門跡譜 尊義王万壽寺ノ宮空因還俗シテ称二尊義王二嘉吉三九廿 三乱二入于北朝内裏一簒二神器一後敗死ス椿葉 記櫻雲記南方記傳 尊秀王母ハ色川左兵衛盛定女也一宮又称二自天親 王一長禄元於二吉野山一被レ害上月記南方記 傳後崇光院御記 忠義王二宮或称二河野宮長禄元於一吉野山一被レ害 上月記南方記傳」三六オ 尊雅王長禄二六月被レ害 上月記 ○系統未詳之分 最恵法親王南朝紹運圖後酉酉ノ29皇子母ハ山本左大 臣ノ女新葉集異名見ユ一説ニ玄圓法 親王御周人云〻 深勝法親王亀山院ノ御孫父ハ常盤井式部卿恒明親王 為二後村上院御猶子一後住二于相 模藤沢山一遊行十二代上人称二南門跡一新葉 集紹運録南朝紹運圖按ニ甲府一蓮寺遊行十 二代上人系圖ニ常盤井恒明御子弟一ハ帥親王 全仁第二ハ酉酉寺ノ座主二品親王深勝第三ハ酉 酉寺ノ座主一品親王杲尊第四ハ遊行十二代上 人尊観為二後村上天皇之太子一云〻 仁譽法親王深勝法親王ノ御弟東南院入室 新葉集紹運録南朝紹運圖」三六ウ 懐邦親王一本南朝紹運圖後二条院皇孫式部 卿邦世親王子天野信景説ニ為二後酉酉ノ 皇子一 尊融禪師南朝紹運録為二後酉酉ノ皇子一 保安寺ノ宮春蘭和尚 石見宮正平七五十一於二八幡山一被レ討 豫章記 植田宮後愚昧紀ニ云天授三八十一故宮僧正ノ御 子植田宮於二鎮西一被レ討 高田宮應永ノ初起二兵ヲ於東國一軈而自害 陸奥河沼郡牛澤組塔寺澤八幡宮長帳 右南朝系圖取二捨シテ花咲松南山巡狩録残櫻記等ノ之 説一而作レ之 第十三宰相大将」三七オ ○源氏物語葵の巻〈湖月抄本第一頁〉にたゞ春宮をぞいと 恋しうおもひきこえ給御うしろみのなきをう しろめたうおもひきこえて大将の君によろづ きこえつけ給ふもかたはらいたきものからう れしとおぼすまことやかの六条の御息所の御 はらの前坊の姫宮菊宮にゐたまひにしかば大 将の御心ばへもいとたのもしげなきを云〻 ○河海抄〈葵の条〉に源氏参議ノ大将ノ事天平神護元年改二 授刀一衛為二近衛府一平城天皇ノ大同二年四月廿二日 改ム二近衛一大将藤原ノ朝臣内麻呂ヲ〈大納言真楯男〉為二左」三七ウ 近衛大将一改ム二中衛ヲ一大将坂上ノ田村麻呂ヲ〈従三位葛田 丸男〉為二右近衛大将ト一 参議兼ル二大将ヲ一例 〈右大臣不比等男〉藤原房前〈中衛大将〉 〈左大臣武智丸男〉同豐成〈中衛大将〉 〈右衛士ノ府生國勝男〉吉備真吉備〈中衛大将〉 〈参議乙丸男〉藤原ノ是公〈同上〉 〈右大臣清丸男〉大中臣ノ諸魚〈近衛大将〉 〈右大臣是公男〉藤原ノ雄友〈中衛大将〉 〈大納言真楯漢〉同内麿〈近衛大将〉」三八オ 〈正四位下大原男〉文屋綿麿〈左近衛大将〉 〈右大臣内丸男〉藤原ノ冬嗣〈左近衛大将〉 〈右大臣継縄男〉男乙(タク)叡(トシ)〈中衛大将〉 〈兵部卿網継男〉藤原ノ吉野〈左近衛大将〉 〈贈太政大臣清友男〉橘氏公〈右近衛大将〉 〈右大臣良相男〉藤原ノ常行〈右近衛大将〉 〈右大臣師輔男〉同伊尹〈左近衛大将〉 ○花鳥餘情〈葵の条〉に源氏の君を大将といふこと此巻 よりはじまる也大将は参議より丞相までも兼 帯する職也源氏は此時参議ノ大将なり云〻」三八ウ ○源氏物語ノ若菜の上巻〈湖月抄本第九頁〉に廿がうちには 納言にもならずなりにきかしひとつあまりて や宰相にて大将かけ給へりけん云〻 ○栄花物語ノ布引瀧の巻〈印本十九の巻廿一頁〉に大将にはと のゝ三位中将宰相にならせ給て大将かけさせ 給ひつ云〻〈按承保四年四月九日藤師通参木大将になられしことなり〉 ○公卿補任ノ白河院ノ承保四年〈十一月十七日改元承暦〉の条に参 議正三位藤ノ師通三月廿七日任二正中将一四月九日 兼二左近衛大将一十二月十三日任二権中納言ニ一十六云 々〈按に補任ノ中ニ此外参木大将の所見あり〉」三九オ ○官職秘抄〈上巻〉参議の条に兼ル二大将ヲ一例氏公常行二條 關白内大臣云〻〈按に氏公は右大臣橘氏公也常行は藤冬嗣公孫良相公男なり 関白内大臣は後二條関白師通公也承暦元三廿七任二参議一同四月九兼二左大将一〉 與清按に宰相大将とも参議大将とも通(カヨ)はし書 るは宰相は参議の別名なれば也寛正本ノ職原抄ノ 首書〈奥書に寛正五年甲申五月上旬之條以二権大外記隼人正ノ家ノ本ヲ一書冩讀合了とあり余が許 に物学せらるゝ渡邊輳ぬしの家に祕傳せられたり〉に書二此官ヲ一則参議ト書レ之 呼フコトハ二其人ヲ一則曰フ二宰相殿ト一也有テ二八人一而紛シキコトハ則加ヘテレ氏ヲ呼ブ二゙宰 相藤゙宰相ナト一也云〻首書ノ印本に書ク二位署ヲ一時ハ参議也也呼フ レ名ヲ時ハ宰相也書ク時或ハ源参議菅参議呼フレ名ヲ之時ハ藤゙宰30」三九ウ 相平゙宰31相也也人多キカ故ニ以テレ氏ヲ別ツ云〻と見ゆ漢土の宰 相は上相の事にて其義は高承が事物紀原〈四の巻〉 にくはし本朝宰相の名始て續日本紀〈十の巻神亀五年三 月丁未の段〉に出たれど公卿にわたれる称にて参議 にかぎらねは参議の別名に定めいへるはそれ より後なるべし参議は職員令に大納言四人掌ル レ参二議スルコトヲ庶ノ事ヲ一義解に謂ハ與二右大臣以上一共ニ参二議スル也天下之 庶事ヲ一云〻續日本紀〈二の巻大宝二年五月丁亥の条〉に勅シテ二従三位 大伴ノ宿祢安麻呂正四位下粟田朝臣眞人従四位 上高向(ムコノ)朝臣麻呂従四位下下毛ノ朝臣古麻呂小野ノ」四〇オ 朝臣毛人ニ一令ムレ参二議セ朝政ヲ一云〻などあるは定れる官 名とも聞えず公卿補任に大寳二年以後代々参 議の官ありしゆえに記されたれどこは後の書(カキ) 續(ツギ)の条なれば信(ウケ)かたし補任〈霊亀三年十一月十七日改テ為二養老元年一〉 に霊亀三年十月廿日従四位下藤朝臣房前任二参 議一云〻續紀〈十一の巻天平三年八月丁亥の条〉に依テ二諸司ノ擧ニ一擢テ二式部 卿縣(アガタ)守(モリ)兵部卿従三位藤原朝臣麻呂大蔵卿正四 位上鈴鹿ノ王左大辨正四位下葛城ノ王右大辨正四 位下大伴ノ宿祢道(ミチ)足(タリ)六人一並ニ為二参議ト一云〻なとある」四〇ウ を実任の始とやすべきまた権参議准参議非参 議あり権参議は續紀〈十の巻天平元年二月壬申の条〉に以テ二太宰ノ 大貳正四位上多治比ノ真人縣守左大辨正四位上 石川ノ朝臣石足禅正ノ尹従四位下大伴ノ宿祢道足一権ニ 為ス二参議ト一云〻補任〈神亀六年八月五日改テ為二天平聖暦元年一〉に神亀六年 二月日多治比真人縣守任二権三木一三月二日叙二従 三位一兼ヌ二太宰大貳ヲ一云〻また天平三年八月日従三 位藤原ノ朝臣麻呂任二権参議一云〻官職秘抄〈上巻〉参議 の条に権参議ノ例天平元年云〻〈按に元年は三年の誤也〉など 見ゆ准参議は補任〈平城天皇の条〉大同元年閏六月三」四一オ 日従四位吉備ノ朝臣和泉任二准参議一云〻官職秘抄〈上巻〉 参議の条に准参議ノ例大同元年云〻とあり非参 議は一概にいひがたしそは位に就(ツキ)て云フと官に 就(ツキ)ていふとの二種(フタクサ)あり三位以上の人の官なく て位ばかりなるをいふ一(ヒトツ)なり最初より官に任 ぜず位ばかり進(スヽミ)たる亡(バウ)三位以上と官をば辞し て位ばかりになりたる散三位以上とを共に非 参木と称す又参木の官に任じたる人の致仕(チジ)し32 して前官にてあるは四位にても非参議の例也 これらは位に就(ツキ)ていふ非三木にて職原抄ノ近衛」四一ウ 大将ノ篇の首書に二三位以上ノ之人無キヲハ二官職一者都テ曰フ二 非参議ト一但前ノ宰相ハ雖トモ二四位ト一又是レ非参議ノ之列也也 太宰大貳の篇に所謂ル非参議ノ四位是也也といひた るにて明(アキラカ)也又位は四位にても参木に任ずべき 人のいまだ参木に任ぜずしてあるほどをいふ 二ツなり源氏物語帚木の巻になま〳〵のかんだち めよりも非三木の三四位どもの世のおほえく ちをしからずもとのねざしいやしからぬか云 云これは三木已上を公卿としてそれに對(ムカヘ)て三木 ならぬ家族(イヘガラ)のものを非三木の三四位といへる」四二オ 也〈若菜の上巻にも非参木の四位とあり〉同書ノ竹川の巻に右兵衛ノ督ノ 右大弁にてみな非参木なるを云〻是は三木に 任ずべき人のいまだ任ぜざるほどをいへる也 〈藤の33裏葉の巻にも非参木のほどなにとなきわか人こそふたあゐはよけれど有〉職 原抄ノ蔵人所の篇に非参木ノ大弁とあるも同義也 試(コヽロミ)にいはゞ左右ノ大弁左右ノ中将左右ノ衛門ノ督左右ノ 兵衛ノ督蔵人ノ頭年労ある左中弁式部大輔の御侍(ジ) 讀(ドク)たる人〈本朝文粋六の巻正四位下式部大輔菅原ノ文時の請状に非参議ノ之四位ノ中文時 已ニ為二第一一也ともみえたり〉などみな非参木の四位也これら は官に就(ツキ)ていふ非三木也参議はもと朝政に参(マジハリ)」四二ウ 議(ハカル)よしの称にてその朝政に與(アヅカ)らぬは非参議也 また参議の官に任ずべき人のいまだ任ぜざる ほど或は位階のみ進(スヽミ)たるなども非参議34にて公 卿補任に従三位長屋ノ王和銅二年十一月一日非 参議云〻従三位藤原ノ朝臣武知麻呂養老二年非 参議云〻従三位藤原ノ朝臣宇合(ウマカヒ)神亀三年正月七 日非参議云々従三位藤原ノ朝臣弟真天平四年正 月非参議云〻などおほかり参議権参議非参議 を並置(ナラベオカ)れし事も見ゆ寶積類書〈十二の巻官職部〉に圓城 寺殿ノ類聚抄ニ非参議弄花ニ云ク不ルレ任セ二参議ニ一二三位之人」四三オ 又公卿ノ前官共ニ称二非参議ト一畢竟不ルレ預二大政官之政務ニ一 人之事也也花鳥餘情ニ云ク不ルレ任二参議一三位四位称ス二非参 議ト一ともありかく官位に就(ツキ)て非三木の称あるを 分別すべし参議の字面漢書ノ公孫弘カ傳に與リ二参ル謀 議ニ一云〻母将隆カ傳に與リ二参ル謀議ニ一云〻匡衡カ傳に與リ二参ル 事議ニ一云〻などみえたれど直(タヽチ)にいへるは後漢書ノ 賈復カ傳に與二公卿一参二議ス國家ノ大事ヲ一云〻班固カ傳ノ下に 為シテ二中護軍一與ニ参議ス云〻董均カ傳に輙チ令シテ二釣35参議一云〻 晋書ノ孝武ノ定王皇后ノ傳に臣等参議ス云〻周書ノ竇熾カ 傳に常ニ與ニ参議ス云〻などあるを出処とす又参議」四三ウ を八座といへるも別名也職原抄〈上巻〉参議の条に 八座トハ者異朝ノ八座トハ其職各別也也本朝ハ聖武天皇ノ天平 三年置ク二参議一大同ノ御宇罷テ二参議一置ク二五畿七道ノ観察使一 〈合八人〉弘仁ノ御宇罷テ二観察使一皆為二参議一云〻八人ナルコト自レ此 而始ル依テレ之ニ有リ二八座之號一云〻百寮訓要抄に参議云 云是はむかしより八人當時も子細なし八座と 申也云〻故實拾要〈十二の巻〉参議の条に當官を八座 ノ臣ト云フ是レ非ズ二唐名ニ一八人八疊ニ列座ス故ニ八座 ノ臣ト称ス云〻文徳實録ノ八の巻〈齋衡三年四月庚寅の条〉に 恨ラレ不ルヲレ登ラ二八座一云〻本朝文粋ノ六の巻〈菅三品請二従三位一状〉に伏」四四オ 檢故實儒者之式部大輔以十年已下勞必拝八座 之例云〻など見ゆ漢土の八座は晋書職官志に 後漢光武以三公曹主歳盡考課諸州郡事改常侍 曹為吏部曹主選舉祠祀事民曹主繕脩功作鹽池 圍苑事客曹主護駕羗胡朝賀事二千石曹主辭訟 事中都官曹主水火盜賊事合為六曹拝令僕二人 謂之八座尚書雖有曹名不以為號靈帝以侍中梁 鵠為選部尚書於此始見曹名及魏改選部為吏部 主選部事又有左民客曹五兵度支凢五曹尚書二 僕射一令為八座云々唐六典〈一の巻尚書令の条〉に後漢以二」四四ウ 尚書令僕射及ヒ六曹尚書一為ス二八座ト一云〻今ハ則以テ二二丞 相六尚書ヲ一為ス二八座ト一云〻杜氏通典〈廿二の巻歴代尚書八座附の条〉 に八座ハ後漢以二六曹尚書一拝二令僕二人一謂二之八座一魏 以二五曹尚書二僕射一令一為二八座一宗斎八座與レ魏同 〈晋梁陳不レ言二八座之数一〉隋以二六尚書左右僕射及令ヲ一為ス二八座ト一大 唐與レ隋同云〻〈文献通考五十二の巻職官考説亦同〉此外所見おほ かれど本朝の八座と異(コト)也又相公といふも参議 の異名也いにしへ善相公藤相公澄相公菅相公 野相公江相公〈已上本朝文粋所見〉などきこえ故實拾要〈十二 の巻参議の条〉に相公ト云モ参議ノ非ス二唐名ニ一といへりこ」四五オ れも漢土にては丞相を尊称せる也文選〈廿七の巻行旅 下〉王仲宣か従軍ノ詩に相公征ス二関右一注に善カ曰ク曹操 為ルガ二丞相一故ニ曰ク二相公ト一也とあるにて知べしさて参議 の和名は和名抄〈五の巻職官部〉に本朝式員令ニ云ク参議於(オ) 保(ホ)万(マ)豆(ツ)利(リ)古(コ)止(ト)比(ヒ)止(ト)とみえたるを北山抄袋草紙 軄原抄ノ聞書寶石類書などやうの書にマツリゴ トマウチギミ或はマジハリハカルなどよめる は誤也高大夫實無が百寮倭歌に参議を〽よみ かける道に賢き名を得つゝものしり人や今ぞ みしらんとよめり36後拾遺集序にやくものつか」四五ウ さにそなはりて云〻藻塩草〈十五の巻人倫異名部〉に宰相 やくものつかさ云〻異名分類〈二の巻人倫部〉に八座軄(ヤクラノツカサ) 欤云〻綺語抄〈中巻官位部〉にもろゆき宰相をいふ云〻 第十四いわちどりいわサいわけなきすゞ は小きをいふ長洲の濱名草の濱千鳥 ○兼輔卿ノ集に女のうらみてなきけるに〽いわ千 鳥あやなかるねはたれゆゑにながすの濱のな かずもあらなん女かへし〽物思ふなぐさの 濱のいわ千鳥なくさむ間にぞなきまさりける 松永氏〈貞德〉云〈歌林樸樕一の巻〉岩千鳥ハチトリノ名也云」四六オ 云與清曰此説ひがこと也貫之朝臣自筆の本〈堤中納言 集〉にもいわちどりと書れて岩(イハ)とは假名たがへ り濱千鳥浦千鳥河千鳥などはその住(スミ)所(ドコロ)により ておほせし名なれど岩千鳥といひてはことわり きこえず今按にいわ千鳥は驚(オドロ)きさわぐよりい へる名なるべし日本紀雄略紀〈前紀〉に駭惋イワケ アワテヽ云〻安閑紀〈元年〉に驚駭イワケテ云〻皇 極紀〈二年〉に喘息イワケテ云〻なとみな驚きさわ ぐ37意の字をいわけと訓(ヨミ)たり〈釈日本紀秘訓同〉さて轉(ウツ) りては物語書に幼稚をいわけなきといへるも」四六ウ 物におとろきやすきよしの名也源氏物語ノ紅葉 賀に心なげにいわけてきこゆるはなどさぶら ふ人にもきこえあへり云〻夕霧になほいとい わけてつよき御心おきてのなかりける云〻繪 合にゆめにもいわけたる御ふるまひあらばこ そ云〻螢にいわけたるひゞなあそびなどのけ はひの見ゆれば云〻栄花物語かゞやく藤壺に いわけたることなく云〻などあるも幼くこめき たるさまをいへり契沖阿闍梨〈源注拾遺二〉いわけ といへるはいわけなきなればいわけなきもな」四七オ きは付たる字にておほけなきの類也無(ナキ)の字の 心にはあらぬなるへし云〻谷川氏〈士清〉云〈倭訓栞三〉い わけなき幼稚を物にかくいへりいとけなしと おなじ物におどろきやすき時なれば驚駭をい わけといふ義に通へりいわけてとも侍れば是 もなきは助の詞なるべし云〻師説〈春海翁〉云〈假字拾要〉 伊(イ)は宇(ウ)比(ヒ)の約にて稚(ワケ)の義和氣(ワケ)は若(ワカ)の義にてう ひわかきといふ詞ならん欤駭の字をいわけて と讀るもをさなき人は物におどろきやすきも のなれはおどろくことをいわけといふにやとも」四七ウ おもはるされと此詞さだかにはいひがたし猶 正しき證を得るをまつべしまた紀に喘息の字 をイワケと訓るはおどろくをイワケといふよ り轉(テン)じたる訓と見ゆイワケハ息涌(イキワク)の義欤イキ をイとのみいへることもワクをワケとかよはし いへることも古語おほし喘息の字をよめるが此 語の本義なるべしさて物におどろく時はいき づかひなともあらげになるものゆゑ驚(オトロ)くことに もいひ又をさなき人は心しづまらでいきづか ひなどしづかならねばをさなき事をもしかい」四八オ へる也云〻與清曰いわけなきといふ詞三代實 録の宣命に幼少〈八の巻卅六の巻〉幼稺〈廿九の巻也〉などの字を 訓(ヨミ)たりされどこれはイトケナキとも訓(ヨミ)つべし 古今六帖〈三の巻〉に〽あふことのかたよせにするあ みの目にいわけなきまで恋かゝりぬる夫木抄 〈雜十六〉に知家〽世の中はいわけなき子のおもぎ らひ見しがなきにはねこそおかるれ38などよめ り物語の詞に見えたるは舉(アゲ)つくすへからず是(コレ) 等(ラ)を思ひわたしていわ千鳥は駭(イワ)千(チ)鳥(トリ)の義なる ことしるべしいわはよわと通ひて心よわく驚き」四八ウ さわぐよしの詞ときこゆ萬葉集〈七の巻〉に〽佐(サ)保(ホ) 河(カハ)爾(ニ)小(アソ)驟(フ)千(チド)鳥(リノ)夜(サ)三(ヨ)更(フケ)而(テ)爾(ソノ)音(コエ)聞(キケ)者(バ)宿(イネ)不(ラレ)離(ナク)爾(ニ)とあ る小驟千鳥をアソブチドリノと訓(ヨメ)る古訓うけ がたし驟は説文に馬ノ疾歩也也玉篇に奔也也詩ノ小雅ノ 注に小ク疾キヲ曰フレ驟トまた凡ソ疾速ヲ曰フレ驟トなと見え雄略紀 〈前紀〉に驟ハシリテとも訓たれは雉のさをども鮎(アユ) のさばしるなとにむかへてサバシルチドリと も訓(ヨム)べく又イワケチドリとよまんもしかるべ し駭(オドロキ)てさばしりさわく義なれば也壬生ノ忠岑の 〈夫木抄夏二〉〽夏川のいはねをわくるいわ千鳥つひ」四九オ にさてやは世をば過さんとよめる歌によりて 岩根をわくる物なれば岩千鳥といふと思ふへ からすわとは39通音なればかくいひ重(カサネ)ねたるの みにて古歌に例おほし此歌の意は岩根のかた きをわくるいわ千鳥のごとく思ふを通らでや通 すらんとよめりいわ千鳥によわといふ詞をよ せて女の心づよきに己が心よわきよしをそへ たる也又清輔朝臣〈家集〉の水草隠スレ橋といへる題に て〽まこも草たづきもしらず成にけりいわけ のすゞや沼のまろ橋といふ歌ありいわけのす」四九ウ ずは弱(ヨワ)気(ケ)のすゞにてまこも草の力(チカラ)なきさまな るをいふ欤すゞとは草木のしげりたるをいふ 詞にてすゞめがくれ〈曽丹集〉すゞめとなれるかげ 〈山家集夫木抄夏二〉などよめりそはしゞの通音にてしげ みの事をいふしゞとは繁(シゲ)きをいへるにてしゞ ね〈散木集〉などもおなじ此しゞねすゞめのゆゑよ しは末にいふべし此歌の意はまこも草の便(タヅキ)もし らぬばかり生(オヒ)しげりたればそのよわげなるす ずのしげみの上をや橋にはかへて渡るべきさ れどたふれまろひぬべく思ふよしをよせてま」五〇オ ろばしとはよまれしなるべしそれに篠(シノ)をもす ずといへはやがて篠(シノ)にとりなして射分(イワケ)の篠(スヾ)矢(ヤ) とよせられたりとも聞ゆさてはしめの兼輔朝 臣の歌の意は女をいわ千鳥にたとへていわ千 鳥よしる40あやなく無益に泣音たつるは何ゆゑ ぞなかすの濱といふもあるに濱は千鳥の栖處(スミカ) なれはそこの名を思ひて泣(ナカ)ずあれかしとよみ かけられたる也女のかへしの意は名字の濱と いふ名によりて物おもひもなぐさむやとおも ふに中〳〵なげかれていよ〳〵泣(ナキ)まさると也な41か(〃)」五〇オ すの濱は日本紀〈履中紀五年〉に出テテ二於是渚(スノ)崎(サキニ)一令ム二祓(ハラ)除(ヒセ)一云 云谷川氏〈士清〉云〈通紀十七の巻〉摂津ノ國河邊郡ノ長洲村云〻 拾遺集〈恋一〉よみ人しらず〽人しれずおつる泪は つのくにのながすと見えで袖そくちぬるまた 〈恋五〉よみ人しらず〽こひわびぬかなしきこともな くさまんいづれながすの濱べなるらん空穂嵯 峨院に〽しほたるゝことこそまされ世の中を思 ひなかすのはまかひなくて相模家集に〽いの ちだにながすにあらはつのくにのなにはのこと そうれしかるべき又〽つのくにのなにはの事」五一オ もおもはずて長洲にあそふたづのよをしれ為 家集〈新撰六帖〉〽わが袖の海となる尾は津のくにの ながす泪のつもり也けり勅撰名所和歌抄出〈濱部〉 に長洲ノ濱ハ摂津ノ河辺郡云〻十四代集名寄〈濱部〉にナ カスノ濱ハ摂云〻歌枕名寄〈十六の巻〉に摂津國ノ長洲ノ濱 云〻類字名所和歌集〈三の巻〉に長洲ノ濱ハ摂津河辺郡 濱河尾云〻陸西遊行囊抄〈三の巻〉に長洲は神崎川 ノ西邊神崎ノ駅ノ南ヲイフ云〻摂津志〈八の巻〉河 邊郡ノ村里ノ部に東長洲中長洲西長洲属ス二一邑ニ一云〻 摂陽群談〈五の巻〉に長州ノ濱川邊郡長河村42ニ属ス云」五一ウ 云此外古歌も古書の所見もあまたあれどふよ うなれば引出ず名草の濱は和名抄〈五の巻〉の紀伊國ノ 郡名に名草奈久佐国府云〻日本紀〈神武紀〉に六月 軍至テ二名草ノ邑一則誅二名草戸畔(トベ)者ヲ一云〻〈旧事紀同〉舊事紀〈四の 巻〉に紀伊ノ名草姫ヲ為レ妻云〻また〈五の巻〉紀伊ノ國ノ造智 名曽ガ妹名(ナ)草(クサ)姫(ヒメヲ)為レ妻云〻續日本紀〈三の巻四の巻九の巻廿六の 巻卅の巻卅四の巻卅五の巻〉より後の史に名草郡おほく見ゆ 日本後紀〈廿一の巻〉に弘仁二年八月丁丑廃ス二紀伊國萩 原名草賀太三ノ驛一以レ不ルヲレ要ナラ也云〻また〈廿二の巻〉弘仁三 年四月丁未廃二紀伊國ノ名草驛一更置二萩原驛一云〻延」五二オ 喜式〈式部式〉に名草郡為二神郡一云〻萬葉集〈七の巻〉に〽名(ナ) 草(クサ)山(ヤマ)事(コト)西(ニシ)在(アリ)来(ケリ)吾(ワガ)恋(コフル)千(チ)重(ヘノ)一(ヒト)重(ヘモ)名(ナ)草(クサ)目(メ)名(ナ)國(クニ)後撰集 〈恋三〉よみ人しらず〽きのくにの名草の濱は君なれ やものいふかひありときゝつる夫木抄よみ人 しらず〽きのくにのなぐさの濱に貝ひろふあま のめざしのおとゝなりせば新撰哥枕〈八の巻〉有家 〽思ふことしばしなくさの濱千鳥あとこそかよへ 和歌の浦浪此外古歌おほかれと證にすべから ぬをば引出ず紀路歌枕抄に名草浦山名草郡紀 三井寺村の山をいふ浦山共に此所也云〻玉勝」五二ウ 間〈九の巻〉に名草山は紀三井寺也云〻紀伊名所圖 會〈五の巻〉海士郡部に名草山三井山の惣名也名ぐ さの濱は名草山の西のふもとに有云〻與清曰 千鳥(チドリ)は百(モヽ)鳥(トリ)五百津(イホツ)鳥(ドリ)百千(モヽチ)鳥(トリ)に對(ムカ)へて多(オホク)の鳥を させる名なれど萬葉集に河千鳥夕波千鳥など よめるは一種の物ときこゆ和泉式部家集〈四の巻〉 詞書にはちどりのこゞ43ひとつたてる源平盛衰 記〈卅一の巻〉青山琵琶の条には二羽の千鳥飛出テな ともありこは貝原氏〈篤信〉が千ドリ河海ノ水邊ニ アリ類種44アリ其形鶺鴒又鴫ニ似タリ〈大倭本草十五〉と」五三オ いへる物なるべしそは百千鳥もあまたの鳥を □(原本不明いふカ)45なるに又鶯のことくしてよめる歌おほかるが ことし千鳥の歌は瓊(ニ)々(ニ)許(ギ)根(ネノ)尊の濱津(ハマツ)千鳥(チドリ)とよま せたまへるをはじめとす〈神代紀下〉千鳥百千鳥のこと は末にいふべし 第十五多(タ)𡺸(ギ)摩(マ)知(ケ)尒の心の乎与の心の乎大坂 山口がてんかも當麻 ○日本紀〈十二の巻〉履中紀ノ天皇ノ御歌に〽於明佐箇珥阿(オホサカニア) 布(フ)夜(ヤ)烏(ヲ)等(ト)謎(メ)烏(ヲ)游(ミ)知(チ)度沛麼哆駄珥破(トヘバタヾニハ)能(ノ)邏(ラ)孺(ブ)多(タ)𡺸(ギ) 摩知烏能流(マヂヲノル)紀ノ文に爰ニ仲(ナカツ)皇子(ミコ)畏テレ有コトヲレ事将ニレ殺シマツラント二太子一密ニ」五三ウ 與シテ二兵ヲ圍二太子ノ宮ヲ一時ニ平群(ヘグリノ)木(ツ)菟(クノ)宿称物部ノ大前(オホマヘノ)宿祢漢(アヤノ) 直ノ祖阿(ア)知(チノ)使主三(オミミ)人(タリ)啓ス二於太子ニ一云〻不レ信(ウケ)〈一云太子酔以テ不レ起〉 故レ三人扶ケマツリテ二太子ノ不ルヲレ在サ令レ乘(ノセマツリテ)レ馬ニ而逃ゲ之〈一云大前ノ宿祢抱二太子一而乘レ馬〉仲ツ皇 子不シテレ知ラ二太子ノ不ルヲ一レ在サ而焚ク二太子ノ宮ヲ一通夜(ヨモスカラ)火不レ滅(キエ)太子到マシテ二 河内ノ國ノ埴生(ハニフ)坂ニ一而醒(サメ)之(タマフ)顧(カヘリミ玉ヒ)二望難波ヲ一見(玉ヒテ)二火ノ光ヲ一而大ニ驚ク急カニ 馳テ之自リ二大坂一向ヒレ倭ニ至マシテ二于飛鳥ノ山ニ一遇(アヒ玉ヘリ)二少女(ヲトメニ)於山口ニ一問ヲ之 曰ク此山ニ有リヤレ人乎對テ曰執レルレ兵ヲ者(ヒト)多(サハニ)滿(イバメリ)二山中ニ一宣(メクリ)廻(カヘリテ)自リ二當(タキ)摩(マ) 經(チ)一踰(コエタマヘ)之太子於レ是以為(オモホサク)聴テ二少女(ヲトメノ)言ヲ一而得ツトレ免ルルコトヲレ難(ワザ)則(ハヒヲ)歌テ之 曰云〻古事記〈中巻〉履中記に伊(イ)邪(サ)本(ホ)和(ワ)氣(ケノ)命云〻到二于 多遅比(タチビ)野(ヌニ)一而寤(サメマシテ)云〻到二於波迩賦(ハニフ)坂一望(ミヤリ)二見(玉フニ)難波ノ宮ヲ一其ノ」五四オ 火猶(ナホ)炳(アカシ)云〻到(イタリ)二幸(マセル)大坂ノ山口一之時遇(アヒ玉フ)二一(ヒトリノ)女(ヲミ)人(ナニ)一其ノ女人 白之(マウサク)持(モタル)レ兵人(ツハモノヲ)等(ドモ)多(アマタ)塞(セキタリ)二茲(コノ)山ヲ一自リ二當岐麻道(タキマヂ)一廻應(メクリテ)越(マス)幸(ベシト)爾(カレ) 天皇歌シテ曰云〻與清曰ク哆(タ)𡺸(ギ)麻(マ)知(チ)は曲(マガレル)道(ミチ)をいふ紀ノ 文に當摩經と書れしも直(タヾ)路(ミチ)ならぬよし也さい ふよしは常陸風土記に行方ノ郡當麻ノ郷古老曰ク倭(ヤマト) 武(ダケノ)天皇巡行過(スギ玉フニ)二于此郷ヲ一有リ二佐伯(サヘキ)一名曰フ二鳥(トリ)日(ヒ)子(コト)一縁(ヨリテ)二其ノ逆フニ一 レ命(ミコトノリニ)随二便路(ミチユキブリニ)一煞(コロシ玉フ)即チ幸ス二屋形野ノ之頓(トツ)宮(ミヤニ)一車駕所ノレ経ル之道(ミチ)狭(セバク) 地(トコロ)深(フク)浅(アサシ)惡キ路ノ之義謂フ二之ヲ當(タギ)麻(マト)一〈俗ニ云多(タ)〻(ギ)支〻斯〉と見え古事 記〈中巻〉景行記に倭建命云〻到二當藝野ノ上(ウヘ)ニ一之時詔者(ノリ玉ヘルハ) 吾(アカ)心恒(ツネハ)念(オモヘリ)二自(ヨリモ)レ虚(ソラ)翔(ユカント)行一然ルニ今吾(アガ)足(アシ)不シテレ得レ歩(アユム事ヲ)成(ナレリ)二當藝(タギ)斯形(シノカタチ)ヲ一」五四ウ 故レ號(ナヅケテ)二其ノ地ヲ一謂フ二當藝(タギ)ト一也〈美濃國多藝郡〉とあるも御足の曲(マカ)り て舟の舵(タギレ)の如なれる也〈舵(タギレ)はか今の梶(カヂ)也委クかぢ緒(ヲ)の条にいへり〉 出雲國の多(タ)藝(ギ)志(シ)之(ノ)小(ヲ)濱(バマ)も〈古事記上巻〉濱辺の曲(マガ)れる よしの名なるべし當麻(タイマ)46てふ地ノ名も出来(イデキ)し也ま た多伎(タギ)てふ地ノ名神社(ヤシロ)の名など諸国(クニ〳〵)におほかる は曲道(タギマヂ)によれるも瀑布によれるもあるへけれ ば其地を極(キハ)めずては觧(イヒ)がたし多(タ)岐(ギ)麻(マ)の麻(マ)は稲(イナ) 日(ヒ)都(ヅ)麻(マ)佐(サ)〻(ヽ)木津(キヅ)麻(マ)浦(ウラ)末(マ)なとの麻(マ)にて地の廻(マハリ)た るさまを云詞也浦(ウラ)箕(ミ)浦(ウラ)廻(ハ)などもおなじ御歌の 意は大坂に遇(アヘ)る少女に道とへば直(タヾ)路(ミチ)をば告(ノラ)ず」五五オ して曲(マガレル)道(ミチ)を告(ノリ)たるよし也阿(ア)布(フ)夜(ヤ)の夜(ヤ)は助辞烏(ヲ) 等(ト)謎(メ)烏(ヲ)の烏(ヲ)は爾(ニ)の心の烏(ヲ)也また余の心の烏(ヲ)と してもきこゆ仁徳記〈五十年〉歌に和(ワ)例(レ)烏(ヲ)斗(ト)波(ハ)輸(ス)儺(ナ) 云〻允恭記〈十一年〉歌に余(ヨ)留(ル)等(ト)枳(キ)〻(ド)〻(キ)弘(ヲ)云〻萬葉 集三の巻赤人宿祢歌に衣(キヌ)借(カサ)益(マシ)矣(ヲ)云〻六の巻に 不所(オモホヘズ)念来(キ)座(マセル)君(キミ)乎(ヲ)佐(サ)保(ホ)川(カハ)乃(ノ)河(カハ)蝦(ツ)不(キ)令(カセ)聞(ズ)還(カヘシ)都(ツ)流(ル)香(カ) 聞(モ)十五の巻に伊(イ)敝(ヘ)妣(ビ)等(ト)乃(ノ)伊(イ)豆(ヅ)良(ラ)等(ト)和(ワ)禮(レ)乎(ヲ)等(ト)婆(ハ) 波(ハ)云〻これらの烏(ヲ)は尒(ニ)の心也また古事記〈上巻〉に 伊(イ)邪(ザ)那(ナ)美(ミノ)命(ミコト)先(マヅ)言(ノリ玉ヒ)二阿(ア)那(ナ)迩(ニ)夜(ヤ)志(シ)愛(エ)袁(ヲ)登(ト)古(コ)袁(ヲ)後(ノチニ)伊(イ)邪(ザ) 那(ナ)岐(ギノ)命(ミコト)言(ノリ玉ヒ)二阿(ア)那(ナ)迩(ニ)夜(ヤ)志(シ)愛(エ)那(ナ)袁(ヲ)登(ト)賣(メ)袁(ヲト)一云〻素戔嗚(スサノヲノ)尊ノ」五五ウ 御歌〈古事記上神代記上〉に曽能夜幣賀岐袁(ソノヤヘガキヲ)云〻日本武(ヤマトタケノ)尊 の御(ミ)火(ヒ)焼(タキ)之(ノ)老(オキ)人(ナノ)歌〈古事記景行記日本紀ノ景行記熱田大神縁起〉に比(ヒ)迩(ニ) 波(ハ)登(ト)袁(ヲ)加(カ)袁(ヲ)云〻なとは余(ヨ)にかよへる袁(ヲ)なり於(オ) 明(ホ)佐(サ)箇(カ)は坂(サカ)の大(オホキ)なるによれる名にて諸国(クニ〳〵)にお ほし於(オ)佐(サ)加(カ)といふも朋(ホ)を省(ハブキ)ていへるのみそは 小(コ)坂(サカ)長(ナガ)坂(サカ)などいふ地名に對(ムカ)へおもふべしこの 御歌のは大和河内の堺(サカヒ)にて二(ニ)上(シヤウ)山の北を越(コユ)る 道也本居氏〈宣長〉曰〈古事記傳廿五の巻〉若櫻宮の段〈古事記履中記〉に 大坂ノ山口とあるは河内の方より上(ノボ)る口なり又 孝徳天皇の大阪ノ磯(シ)長(ナノ)陵も河内ノ石川郡にて此山」五六オ 〈二上山也〉の西面也さて此道はいにしへはむねと往(カ) 来(ヨヒ)し大道なりしを今はさはかりの大道にはあ らず穴蒸越(アナムシゴヘ)といひて葛下郡穴蒸村と云より河 内国古市ノ郡飛鳥村に到り古市などを経(ヘ)て難波 の方にかよふ道也さて穴(アナ)蒸(ムシ)村(ムラ)に並ひて逢坂(アフサカ) 村と云あるは大坂なるべきを後世にはおほと あふと一ツに唱(トナフ)るから誤りて逢の字を書なるべ し云〻さて此ノ地の古書に見えたるは和名抄〈六の 巻〉大和国ノ葛上郡ノ郷名に大坂云〻〈印本に太坂47と書るは誤なり〉 神名式〈上巻〉大和国ノ葛上郡ノ大坂山口ノ神社云〻〈こは大和」五六ウ の方より上る山口にて此御哥よませ玉へるは河内より上る山口なれば東西の別ありさて和 名抄には葛上郡と見えたるに神名帳に葛上郡と有は堺近きゆゑ此方彼方に隷たることありし にて別処にはあらす〉崇神記〈古事記中〉に大坂神云〻應神記〈古事 記〉に大坂ノ道中云〻履中記〈古事記下〉に到二大坂ノ山口一云 云崇神記〈日本紀五〉に武埴安彦與(ト)二妻(ツマノ)吾(ア)田(タ)媛(ヒメ)一謀反逆(ミカトカタブケントテ)與シテ レ師ヲ忽ニ至ル各〻分(クバリテ)レ道而夫(ヲトコハ)従リ二山城一婦ハ従リ二大坂一共ニ入テ欲レ襲ン二帝(ミヤ) 京(コヲ)一云〻また倭(ヤマト)迹(ト)々(ド)姫(ヒメノ)命云〻箸(ハシニ)撞(ツキテ)レ陰(ホドヲ)而薨(カクレマシヌ)乃葬ル二於 大市一故レ時ノ人号テ二其墓(ハカヲ)一謂二箸(ハシノ)墓(ミハカト)一也是ノ墓ハ者日ハ也人作(ツクリ)夜ハ 也神作(ツクレリ)故運テ二大坂ノ山ノ石ヲ一而造ル48自リレ山至テ二于墓ニ一人民相踵(ツイデ) 以テ手(タ)逓傳(ゴシニシテ)而運ブ焉時ノ人歌テ曰ク〽飫(オ)明(ホ)佐(サ)介(カ)珥(ニ)莬(ツ)藝(ギ)」五七オ 廻(ノ)煩(ボ)倒(レ)屢(ル)伊(イ)辞(シ)務(ム)邏(ラ)塢(ヲ)多(タ)誤(ゴ)辞(シ)珥(ニ)固(コ)佐(サ)麼(バ)固(コ)辞(シ)介(ガ)氐(テ) 務(ム)介(カ)茂(モ)此歌の意は大坂(オホサカ)に継登(ツキノボ)りて重立(カサナリタテ)る磐石(イハ) 群(ムラ)なれどかくおほくの人の手(タ)越(ゴシ)にして箸(ハシ)墓(ハカ)ま て取(トリ)傳(ツタ)へんには遂(ツヒ)に越(コシ)得(エ)んかと也介(カ)氐(テ)務(ム)は得(エ) ん也万葉に不勝不得なとの字をかてなくとよ みて介(ガ)氐(テ)は將(タ)レ勝(ヘン)將(エ)レ得(ン)なといふにおなじ箸(ハシ)墓(ハカ)は 大和ノ城上郡ノ箸(ハシ)中(ナカ)村にありて其間(ソノホト)近からす天武 紀上〈日本紀廿八〉に初メ将軍吹(フケ)負(ヒ)云〻遣二佐味ノ君少(スクナ)麻呂一 率ヰテ二數百人一屯(タムロセシム)二大坂ニ一云〻また聞テ四近江ノ軍至ルト三レ自リ二大坂ノ道一 而將軍引ヰテレ軍ヲ如(ユク)レ西ニ到テ二當(タキ)麻(マノ)衢ニ一云〻また將軍吹負既ニ」五七ウ 定ラ二倭ノ地一便チ越テ二大坂ヲ一往ク二難波ニ一云〻同紀下〈日本紀廿九〉に八 年十一月云〻初テ置(オク)二關(セキヲ)於竜田山大坂〈印本誤て大江と書たり〉 山ニ一仍テ難波ニ築ク二羅城(ソトグルワヲ)一云〻續日本紀〈十五の巻〉に斐(ヒ)太(ダ)ハ始メ以テ二 大坂山ノ沙一治メシ二玉石一之人也云〻三代實録〈二の巻〉に授ク二 大和國従五位下大坂山口ノ神ニ正五位下ヲ一云〻また 〈三の巻〉大和國大坂山口神ニ遣シテレ使ヲ奉ルレ幣ヲ為ニ二風雨ノ一祈ル也焉云 云諸陵式〈延喜式廿一〉に大坂ノ磯長(シナノ)陵云〻新撰姓氏録 〈十七の巻〉に大坂ノ直云〻孝徳帝在リ二河内國ノ石川郡ニ一云〻 萬葉集〈十の巻〉歌に〽大(オホ)坂(サカ)乎(ヲ)吾(ワカ)越(コエ)来(クレ)者(ハ)二(フタ)上(カミ)尒(ニ)黄(モミチ)葉(ハ)流(ナガレ) 志(シ)具(ク)禮(レ)零(フリ)乍(ツヽ)この二上(フタカミ)は神名式〈上巻〉に葛下郡ノ葛木」五八オ 二上ノ神社と見え萬葉集〈二の巻七の巻十一の巻〉にもよめる 歌おほし葛城山のこと也後には音(オン)にニシヤウの 峰とよぶ源平盛衰記〈廿八の巻〉役ノ行者ノ事の条に二上 ノ嶽と書てニジヤウノタケとよみその外もの にこれかれ見ゆ黄(モミヂ)葉(バ)流(ナガル)は紅葉(モミヂ)の散(チル)をいふ哆(タ)𡺸(ギ) 摩(マ)は和名抄〈六の巻〉大和国葛下郡の郷名に當麻〈多以来(タイマ)〉 云〻用明記〈古事記下〉に天皇娶(メシテ)二當(タギ)麻(マ)之(ノ)倉(クラ)首(ビト)比(ヒ)呂(ロ)之(ガ)女(ムスメ) 飯(イヒ)女(メ)之(ノ)子(コヲ)一生(ウミマス)二御(ミ)子(コ)當(タキ)麻(マノ)王(ミコヲ)一云〻用明記〈日本紀廿一〉に元 年云〻葛(カツラ)城(キノ)直(アタヒ)磐(イハ)村(ムラカ)女廣(ヒロ)子(コ)生ム二一男一女ヲ一49曰フ二麻(マ)呂(ロ)子(コノ) 皇(ミ)子(コト)一此レ當(タキ)麻(マノ)公(キミノ)之先(オヤ也)也云〻天武紀下〈日本紀廿九〉に十」五八ウ 三年云〻當麻公賜フ二姓真人ヲ一云〻新撰姓氏録〈二の巻〉 に當麻ノ真人云〻垂仁紀〈日本紀六〉に七年云〻當麻ノ邑ニ 有二勇(イサミ)悍(コハキ)士(ヒト)一曰フ二當(タギ)麻(マノ)蹶(ケ)速(ハヤト)一云〻天武紀〈日本紀廿八〉に到ヲ二當(タキ) 麻(マノ)衢(チマタニ)一云〻神名式上〈延喜式九〉に大和国葛下郡當(タキ)麻(マ)都(ツ) 比古ノ社二座當麻山口ノ神社云〻三代實録〈二の巻〉に 奉ルレ授二大和國従五位下當麻山口神ニ正五位下ヲ一また 〈三の巻〉遣シテ二使ヲ諸社ニ一奉ル二神寶幣帛ヲ一云〻従五位下守圖書 頭當麻ノ真人清雄為ス二當麻社ノ使ト一云〻今昔物語〈旧本十一 の巻第卅一語〉に大和ノ國葛木ノ下ノ郡ノ當麻ノ郷云 云拾芥抄〈下本巻〉諸寺ノ部に當麻ハ大和也右大臣豐成公」五九オ 始ム本願曼陀羅云〻本居氏〈宣長〉曰〈古事記傳卅八〉當麻路は 河内の石川郡より大和の葛下の郡へ出る山路 にして二上山の南に在て今の世に竹ノ内越とい ふ是なり云〻此外所見おほかれとさまてはこ ちたければ引出ず 第十六さいでしまく入道 ○源平盛衰記〈卅三の巻〉落書に〽赤さいで白たなごひ にとりかへてかしらにしまく小(コ)入(ニフ)道(ダウ)これ記ノ文ニ 云ク平家西国へ落チ下リ給テ後ハ世ノ騒(サワキ)ニ引レテ資 財雑具東西ニ運ビ隠シ京白川ニモテ吟(ニヨビ)ケレハ」五九ウ 引(ヒキ)失スル者モ多ク深キ井ノ中ニ入レ穴ヲ掘テ埋メナ ドセシカバ打破(ヤフリ)朽(クチ)損(ソン)ジテ失シバカリ也サスガ 残ル物モ有シゾカシ木曾五万余騎ヲ引卒シテ上 洛シテ武士京中ニ充(ミチ)満(〳〵)テ家々ニ乱レ入リ門ニハ白 旗ヲ打立(タテ)テ家主(イヘヌシ)ヲ追出シ財寶ヲ追(ツヰ)捕(フ)ス云〻狼 藉不レ斜ナラ殆ント人倫ノ所為トモ不レ覺遙ニ替劣(カヘオトリ)シタル源 氏也トゾ沙汰シケル何者(ナニモノ)ガ所為ニテカ有ケン 院御所法住寺殿ノ四足ノ門ニ札ニ書テ立タリ ケリト云〻與清曰赤(アカ)さいでは赤き布(ヌノ)の切(キレ)にて 平氏の赤旗にたとへたる也さいでは師説〈村田春海」六〇オ 翁〉」に節用集〈左部〉に割出ハ布ノ切(キレ也)也とあれどこれ割栲(サキタヘ) にて左支(サキ)の支(キ)を音便に以(イ)といひ多倍(タヘ)を約(ツヾメ)て弖(テ) といひたる也といはれしがよし青(アヲ)和(ニギ)幣(テ)自(シラ)和(ニギ)幣(テ) などの弖(テ)におなじければ也栲(タヘ)は絹布(キヌヽノ)の總(スベ)名(ナ)に て細(ホソ)く織(オリ)たるを和(ニギ)妙(タヘ)荒く織(オリ)たるを荒(アラ)妙(タヘ)といへ りこれらのコトは別處(コトヾコロ)にいふべし後撰集〈秋下〉詞書 に紅葉(モミヂ)と色(イロ)こきさいでとを女のもとにつかは して云〻また〈哀傷〉法皇の御ぶくなりける時に ひいろのさいでにかきて人におくり侍ける云 云枕草紙〈春曙抄二の巻〉過にし方悲しき物の段にひゞ」六〇ウ なあそびのてうどふたあゐえびぞめなどのさ いでのおしへされてさうしのなかにありける を見つけたる云〻また〈春曙抄五の巻〉なまめかしき物 の段に殿(トノ)守(モリ)司(ヅカサ)などの色々のさいで〈印本作二さいく一水戸本作二 さいて一〉をものいみのやうにてさいしきつけたる などもめづらしく見ゆと云〻宇治拾遺物語〈四の 巻〉佐渡ノ國に有ルノレ金條に袖うつしにくろばみたる さいでにつゝみたる物をとらせと云〻また〈十三 の巻〉唐人の女羊(ヒツジ)に生れたる条にうせにしむすめ 青き衣をきて白きさいでしてかしらをつゝみ」六一オ てと云〻なと物に見え大蔵卿〈行宗〉集に保延五年 五月三日禁中にて縁よりおちて侍しに成通中 納言もとより〽をさなはやなくいへのさいてら うにしりてころもにかくときくはまことかとも よめり此歌いと〳〵心得がたし又小笠原光清弓 之紀岡本記なとにつるさいてありこは弓の絃 輪にまく絹にて今ツルキヌといふ物なるよし 伊勢氏〈貞丈〉赤鳥随筆((ママ))にいへり頭(カシラ)にしまくは 頭(カウベ)に纏(マトフ)ことにてしはしすゑしありくなどのし におなしく為の字義也洛陽田楽記に後(シ)巻(マキ)とあ るは田樂の後に立て行ク人の事にて今俗に踊(ヲトリ)屋(ヤ)臺(タイ)の助人(スケビト)なといふ者にて 為(シ)纏(マキ)とはおなしからず」六一ウ 第十七うらわかみ ○萬葉集〈四の巻〉の大伴家持歌に〽浦(ウラ)若(ワカ)見(ミ)花(ハナ)咲(サキ)難(ガタ)寸(キ)梅(ウメ) 乎(ヲ)殖(ウヱ)而(テ)人(ヒト)之(ノ)事(コト)重(シゲ)三(ミ)念(オモヒ)曽(ゾ)吾(ワガ)為(ス)類(ル)此歌夫木抄〈三の巻〉 春ノ部〈三〉にも載たり萬葉集〈巻の八〉の丹生ノ女王ノ旋(セ)頭(ドウ)歌(カ) に〽高(タカ)圓(マト)之(ノ)秋(アキ)野(ノヽ)上(ウヘ)乃(ノ)瞿(ナデ)麦(シコ)之(ノ)花(ハナ)下(ウラ)壮(ワ)香(カ)見(ミ)人(ヒト)之(ノ)挿(カサ) 頭(シヽ)瞿(ナデ)麦(シコ)之(ノ)花(ハナ)同集〈十の巻〉の柿本人麿集ノ歌に〽夕(ユフ)去(サレバ)野(ヌ)邊(ベノ) 秋(アキ)芽(ハ)子(ギ)末(ウラ)君(ワカミ)露(ツユニシ)枯(カレテ)金(アキ)待(マチ)難(ガタシ)こは古今六帖〈第六〉雜ノ思部 に下ノ句霜にかれかね君まちかねつと有伊勢物 語〈四十八段〉に昔男いもうとのいとをかしけなるが 老ひきけるを見をりて〽うらわかみねよけに」六二オ 見ゆる若草の人の陸ばん事をしぞ思ふ此を古 今六帖〈第六〉春の草ノ部新千載集〈戀一〉などに在原ノ業平 の題とせり家集には見えず曽根ノ好忠ノ家集に〽お ほあらきの小笹が原や夏を涼みはたまく葛は うらわかみかも後拾遺〈春下〉に三月はかり野の草 をよみ侍りける藤原義孝〽野辺見れば弥生の 月のはつるまでまたうらわかきさいたづまか な大和物語〈上巻〉に忠岑かむすめありと聞てある人 なんえんといひけるをいとよき事也といひけ りをとこのもとよりかのたのめたまひし事こ」六二ウ の比のほとにとなんいへりけるかへりことに〽わ かやとの一本薄うらわかみむすひ時にはまた しかりけりとなんよみたりけるまことにいとち さきむすめになん有ける云〻風雅集〈春上〉崇徳院 御歌〽春くれは雪けの沢に袖たれてまたうら わかきわかなをそつむ新續古今集〈春上〉前中納言 雅孝歌〽もえ出て烟みしかき初草のまたうらわか かき野邊の色かな夫木抄〈春一〉若菜部に後徳大寺 左大臣〽うらわかみつめどたまらぬゑぐのは をかたみにのみもおほせつるかな同抄〈春二〉若草」六三オ 部に従二位忠定卿〽見わたせは春は難波のう らわかみあしの軒葉の浅みどりなる同抄〈春三〉春 駒部大蔵卿有家〽かすみゆく難波のあしのう らわかみ汀の駒も春をしるらし此は建保名所 百首の題也同抄〈春五〉雉部に忠度朝臣〽さいたつ ままたうらわかきみよしのゝ霞かくれにきゝ すなく也此歌は家集または万代集((ママ))に出た り夫木抄〈夏一〉葵部に大納言師頼卿〽日かけ山生 るあふひのうらわかみいかなる神のしるしな るらん此は堀川百首の歌なり夫木抄〈秋五〉葛部二」六三ウ 条天皇大后宮摂津〽たまさかにあふ坂山のま くす原またうらわかしうらみはてじを同抄〈雜四〉 野部源頼綱朝臣〽さいたづまうらわかゝりし しめし野のしのゝをすゝきほに出にけり同抄 〈雜七〉浦部前中納言定家卿〽春の色は今日こそみ つのうらわかみあしの若葉をあらふ白波此題 は建保名所百首難波津の題也新勅撰集〈恋四〉民部 卿成範〽思ひきやまたうらわかき初草の秋を もまたでかれん物とは玉葉集〈春上〉常盤井入道前 太政大臣〽春日野にまたうらわかきさいたつ」六四オ ま妻こかるともいふ人やなき長方卿集に〽武 蔵野はすくろか中の下わらひまたうらわかし 紫の塵此題夫木抄〈春三〉早蕨部にも見ゆ右の題ど もをかうがへ渡すに末(ウラ)君(ワカ)みにて草木の末葉の 若きにいふよしの舊説ども一わたりはさもと 聞ゆ歌林樸樕拾遺にウラハ末ノ詞ナリウラワ カミ藤ノウラハナド云云〻契沖阿闍梨か代匠 記ノ四の下巻にうらは上なり末なり若見は末葉 などの若きをいふ云〻又云源氏に藤のうら葉 弓のうら筈と用云〻谷川氏か倭訓栞〈四の巻〉の宇ノ部」六四ウ にうらわかみ弱(ワカ)草(クサ)によめり春の草の葉末わか わかしきをいふ也云〻また万葉〈七の巻〉詠レ河歌に 波(ハ)祢(ネ)蘰(カヅラ)今(イマ)為(スル)妹(イモ)乎(ヲ)浦(ウラ)若(ワカ)三(ミ)去(イ)来(サ)率(イ)去(サ)河(カハ)之(ノ)音(オト)之(ノ)清(サヤケ)左(サ) 同集〈十一の巻〉寄物陳思歌に50波祢蘰今為妹之浦若咲 見慍見著而四剱解此歌古今六帖〈第二〉人部袖中抄 〈廿の巻〉夫木抄〈雜十〉蘰部には詞を誤て載たり同集〈十四 の巻〉未勘國譬喩歌に〽乎佐刀奈流波奈多知波奈 乎比伎余知氐乎良無登頂礼抒宇良和可美許曽 蜻蛉日記〈中巻〉にかうらんにおしかゝりてとばか りまぼりゐたればかたきしに草の中(ナカ)にそよ〳〵」六五オ しらしたるものあやしきこゑするをこはなに ぞととひたれば鹿のはふなりといふなとかれ いのこゑにはなかざらんと思ふほとにさしは なれたる谷のかたよりいとうらわかきこゑに はるかにながめなきたなりきく心ち空也とい へはおろか也云〻続千載〈春上〉後京極摂政〽春日 のゝ草のはつかに雪消てまたうらわかき鶯の こゑ櫻井基輔家集〈上巻〉に〽時鳥またうらわかき 初こゑはまたさとなれぬしるしとぞきく為尹 千首〽はつ草のまたうらわかくきこえけり野」六五ウ 上のかたの鶯のこゑ拾遺愚草員外〈上巻〉に〽過が てにつめとたまらぬなつなかなうらわかくな く鶯のこゑ右の歌詞ともによればたゞわかき ことにいふともきこゆ契沖法師が勢語臆断〈((ママ))の((ママ))巻〉 に末の字にあらすたゝ若きことなるよしいひ賀 茂翁萬葉考〈十一の巻の考〉にはうらはやをら也弱(ヤヲラ)にて 宇良〻〻と照れる春日といふも弱ら〳〵の心に てうら若みといふに均し云〻與清曰うらわか みは葉末の稚にいふとも又たゝ若きにいふと も先達の説なれとくはしからすこは万葉八の」六六オ 巻丹生ノ女王の旋頭歌に于壮香見と有を活字本 には丁壮香見異本には下壮香見なと書たりこ は下(ウラ)壮(ワ)香(カ)見(ミ)と有が正しくて心をも表裏の裏を もウラといへは表はさしもあらねと下はいと 若〳〵き㒵を底(ウラ)若(ワカ)さにとはいへる也されは葉末 にも限らず底(シタ)に若(ワカ)き㒵を含(フクミ)たる物にいふ詞也 けり 第十八答於屋代弘賢之問 ○大あらき万葉三に大(オホ)皇(ヲミ)之(ノ)命(ミコト)大(オホ)荒(アラ)城(キ)乃(ノ)時(トキ)尒(ニ)波(ハ)不(アラ) 有(ネ)跡(ド)雲(クモ)隠(カクレ)座(マス)この荒城(アラキ)は荒籬(アラガキ)の略語にて殯(モガリ)をい」六六ウ へりと云説さもあるべし同七に如(カ)是(ク)為(シ)而(テ)也(ヤ)尚(ナホ) 哉(ヤ)將(オイ)老(ナム)三(ミ)雪(ユキ)零(フル)大(オホ)荒(アラ)木(キ)野(ノ)之(ヽ)小(シ)竹(ノ)尒(ニ)不(アラ)有(ナ)九(ク)二(ニ)兼盛 集に〽51君が代をまちしもしるし大あらきの里 のさかえを見るがたのしさ曽丹集に〽おほあ らきの小笹が原や夏を浅みはたまく葛はうら わかみかも夫木抄〈雜四〉に長能〽大あらきのとほ 野の外にすむ人を見すてゝゆけば袖ぞつゆけ きこれらは地名と聞ゆれば神名帳の大和ノ宇智 郡ノ荒木神社ある所なるべし52古今ノ雜上に〽おほ あらきの杜の下草おいぬれば駒もいさめず53か」六七オ る人もなし後撰雑二忠岑〽おほあらきの杜の 草とやなりにけんかりにだに来てとふ人のな き同躬恒〽人につくたよりだになし大あらき の杜の下なる草の身なれば拾遺夏忠岑〽大あ らきの杜の下草しけりあひてふかくも夏の成 にけるかな同雑ノ春躬恒〽いたつらにおいぬべ く也54あおほあらきの杜の下なる草葉ならねと六 帖二に〽おほき鷹のいまとしなれば大あらきの 杜の下草人もかりけり此哥貫之集三に初句お ぼつかなとありこれらの下草をよみ合せたる」六七ウ は地名にあらず大なる荒木の立(タテ)る杜也曽丹集 十二月中の哥に〽おほ荒木のおほくの枝もな びくまて夜半にさびしき冬の夜の風万葉十一 に如(カ)是(ク)為(シテ)哉(ヤ)猶(ナホ)八(ヤ)成(ナリ)牛(ナ)鳴(ム)大(オホ)荒(アラ)木(キ)之(ノ)浮(ウキ)田(タ)之(ノ)杜(モリ)之(ノ)標(シメ) 尒(ニ)不(アラ)有(ナク)尒(ニ)といふも浮田の杜に大なる荒木立れ ばしかよめる也されど此万葉十一の哥は七の 巻の哥の誤にても有べし曽丹集四月中の哥に 〽大あらきの下草までに風ふけばなびきて神を まつりあへるかもと有は賀茂の社をいふにや ともおほゆおほあらきかく三種(ミクサ)に別れたれば」六八オ 思ひわくべし又曽丹集に〽よそに見しおもあ らの駒も草なれてなつくばかりに野は成にけ り此哥夫木抄雜七には二の句おほあらきの駒 とありさては大(オホ)荒(アラ)木(キ)の木間(コマ)とつゝけし序哥に て駒といはん料に縁語もていひながしたる也 因に云右に引出し曽丹集十二月中の哥の夜半 にさひしき冬の夜の風とあるは夜と云詞二ツあ ありて聞ぐるしなともいふべけれどさにあらず まづ夜半と云詞賀茂翁の夜間の義といはれし は頑(カタクナ)也こはたゝ夜の事にも夜深の事にもいふ」六八ウ に55三更と書たるを〈七の巻八の巻九の巻十の巻十九の巻〉ヨハとも ヨナカともヨクダチともよめり古今ノ雑下に 〽風ふけばおきつしら浪たつた山夜半にや君が ひとりこゆらん左注に夜ふくるまで琴(コト)をかき ならしつゝ云〻古今六帖ノ五に〽玉のをのた えてみじかき夏の夜は夜半になるまでまつ人 のこぬ續千載夏寂蓮〽ほとゝぎすあり明の月 の入がて56に山のはいつる夜半の一こゑこれら はみな夜(ヨ)深(フケ)の事にて曽丹の夜半にさびしきと いへるも夜ふけにさひしきにて同義なれは妨(サマタケ)」六九オ なし ○ふし原しば原猿丸大夫集に〽しなかどり稲名 のふし原青山にならん時にを色はかはらん此 哥によりて思ふにふし原は木立の青葉になら ぬ間をいへるにやふしつけの木も葉(ハ)なき柴(シバ)を 水中に漬(ツケ)たる也さればしば原は茂(シゲ)葉(ハ)原(ハラ)の義に て葉のあるにいひふし原は葉なき枝のさまを いへる也ふしは節(フシ)にて葉のちりし後は木(キノ)節(フシ)の あらはに見ゆるよりいへるなるべし和名抄ノ木ノ 具ノ部に四聲字苑ニ云ク節ハ草木ノ擁腫ノ処也也和名布之(フシ)今」六九ウ 按ニ従フレ竹者ハ竹節也従フレ草者ハ草木ノ節也也見ル二玉篇ニ一とあり神 代紀に蒼(アヲ)柴(フシ)籬(ガキ)といへるは生(アヲ)柴(フシ)籬(ガキ)にて今の世に いふ生(イケ)垣(ガキ)也是も葉(ハ)のなきほどはふし垣(ガキ)と57い ひ葉(ハ)あるをりは青(アヲ)柴(フシ)垣(ガキ)といへりと見ゆ後世し ば垣(ガキ)といふは葉のある枝もてかこへば也ふし しばといふも葉のなき柴なるをしば58をそへて 重言(カサネイヒ)しにや尚可レ考 ○とわたるとわたるといふ詞は門(ト)渡(ワタル)るにいへる と飛(トビ)渡(ワタ)るとたゞ渡ることにいへるとの三義あり 古今雑上に〽わかうへに露ぞおくなる天の川」七〇オ とわたる舟のかいのしづくか此哥伊勢物語に も見ゆこは川(カハ)門(ト)を渡るよし也新勅撰雑二前関 白〽河浪をいかゞはからん舟人のとわたる梶 の音はたえねど是もおなし飛(トビ)渡(ワタ)るよしによめ るは相如(スケユキ)家集に((ママ))かげろふの水にとわたる螢 よりもはかなくみしは夢かうつゝか拾遺愚草ノ 中に〽はまびさしなけのかたみか友千鳥とわ たり過る沖の小島に同下に((ママ))59あまつ風初雪し ろしかさゝぎのとわたる橋の有明の空月清集ノ 下に〽をちかたの浦人今やねさめしてとわた」七〇ウ る千鳥近く鳴くらん續後拾遺冬照慶門院ノ一条 〽さえまさるさほの河原の月影にとわたる千 鳥聲ぞふけぬるこれら也又鳴わたることのみに いへるも有されど渡の誤なるべし壬二集ノ中に 〽住吉の松やつれなき夕しくれとわたりかへ る淡路しま山續古今秋上為家〽見るまゝに秋 風さむし天の原とわたる月の夜ぞふけにける 玉葉ノ雑二万里小路前右大臣〽沖つ風更行空に あかしがたとわたる月の影のさやけさこの外 にもおほかれどわつらはしけれは引出ず」七一オ ○60けこのみわもり散木集に〽61なかれつるけごの みわもりかずそひてさや田の早苗とりもやら れず按になかれつるは酒宴の席にて盃(サカヅキ)の廻(メクリ)流(ナガル) るゝ㒵(サマ)也けごのみわもりは食(ケ)篭(コ)の酒盛(ミワモリ)にてけ ご62はもと強(コハ)飯(イヒ)を笥(ケ)にもりたるを後に比(ヒ)女(メ)飯(イヒ)も る椀の名にもいひ及(オヨ)ぼせる也伊勢物語にけご のうつはもの63と有みわ64は酒をいへり飯(メシ)椀(ワン)に酒(サケ) を盛(モ)れるをあまた呑酔(ノミエヒ)たる㒵(サマ)也さや田は遠江 國佐(サ)益(ヤ)郡の田也こは田夫(タコ)か酒宴の席にて飯(メシ)椀(ワン) にてあまた酒(サケ)を呑(ノミ)ゑひ苗(ナヘ)もとられぬまでにな」七一ウ れるよし也 第十九答於盤瀬醒之問 ○足(タ)袋(ビ)〻〻宗五大草子ノ上巻に足袋の事殿中へ は御免候はではえはき候はず候御免の時は必 御足袋を一足被下候又入道同朋は御免の沙汰 なくはき候人の内衆も主人の御免候へばはか れ候いかさま無紋の皮ふすべ皮をば不レ可レ用出 陳の時はふすべ皮たるべし云〻和名抄ノ履襪ノ部 に覃皮履ハ唐令云諸舃履並ニ烏(クロキ)色(イロ)舃ハ重(カサネ)皮(ガハノ)底(ソコ也)履ハ單(ヒトヘ)皮(カハノ) 庭(ソコ也)65云〻和名与レ履同シ今按ニ野人以二鹿皮一為シ一半ノ靴ト一名ヲ曰フ二」七二オ 多(タ)鼻(ビ)ト一宜クシレ用フ二此ノ覃皮(タビ)ノ二字ヲ一乎云〻重之集ノ上に春くら うどたびといふくつ66を花につけて得させたる 〽あし引の山の櫻も見にゆかじこのたびえたる くつのをしさになと見え67中山傳信録日本風土 記などにも載たり古は皮(カハ)足(タ)袋(ビ)のみなりしに寛 永の比より草(モメ)綿(ン)天下に遍(アマネ)くなりて草(モ)綿(メン)足(タ)袋(ビ)の 製おこりさて苧(ヲ)ざし木(モ)綿(メン)ざしは四(ヨツ)谷(ヤ)にて製(ツク)る を四(ヨツ)谷(ヤ)指(ザシ)と称し苧(ヲ)指(ザシ)は68傾(ケイ)城(セイガ)窪(クボ)指(ザシ)とも又は鷹匠(タカジヤウ) 足袋(タビ)とも称して賞(モテ)観(ハヤ)せり又甲(カフ)掛(カケ)足(タ)袋(ビ)といふも あり此三種をすべてわらぢがけと名づく女子」七二ウ は絹(キヌ)の足袋(タビ)をも用ふみな近世の製作也 ○金(キン)打(チヤウ)の誓(セイ)言(ゴン)俗に誓を立る時にキンチヤウとて 男子は刀剣などを打合せ女子は鏡なとを打合 するはもと或は猪(ヰノコ)を斬て若シ違変せば此猪の如 からんといひ或は刀を折リ矢を折て変約せば我 身もかゝらんと誓ひ女子は鏡を破(ワリ)てたとへに せしを真言家69に金丁(キンチヤウ)の法とて守覚法親王の左 記にくはしく記されし事あるにとり合せてキ ンチヤウとは呼(ヨベ)る也金打と書べきを省(ハブキ)て金丁 と書は70古實也とぞ」七三オ ○馬(バ)鹿(カ)者(モノ)々〻〻といふ語太平記〈十六〉本間孫四郎遠 矢の条に如何ナル推参ノ馬鹿者ニカアリケン 云〻同書〈廿三〉土岐頼遠参リ合ヒ御幸ニ一致ス二狼藉ヲ一条に如何 ナル馬鹿者ゾ一々ニ奴(ヤツ)原(ハラ)蟇(ヒキ)目(メ)負(オフ)セテクレヨト 匐(ノヽシ)リ云〻なと見え節用集にも載(ノセ)て破(バ)家(カ)とも書 たるはいづれも借字也こを馬鹿の字に泥(ナヅミ)て趙 高が故事に引あてし説はいみじきひがこと也馬(バ) 鹿は煩計(ボケ)の通音にて源氏明石〈湖月抄四十三丁オ〉に入道 が事をいへるにいとゞぼけられてひるは日ひ とりいをのみねくだし71夜はすくよかにおきゐ」七三ウ てづゞのゆくへもしらずなりにけりと手をお しすりてあふぎゐたりとあり此外物語書にぼ け〳〵なども書たる挙るに遑(イトマ)なし ○天守城の天守は近江安土城に起れるよしいへ るはひが事也細川両家記上巻に摂津國伊丹城 の天守にて腹切し事見え勢州四家記にも出て 安土城よりもはやくありし製也 ○繪馬本朝文粋十三の巻大江ノ匡衡ノ北野天神ニ供ル二御 弊并ニ種々ノ物ヲ一文に色紙繪馬三疋云〻此ノ文朝野群 載二の巻にも載(ノ)す法華験記ノ下巻ノ紀伊國ノ美(ミ)奈(ナ)倍(ベノ)」七四オ 道祖神の条に沙門恠念巡リ二見ルニ樹ノ下ヲ一有リ二道祖神ノ像一朽(クチ) 故(フリテ)逕(ワタリ)二多年ノ歳ヲ一雖レ有二男形一無レ有コト二女形一前ニ有リ二板繪馬一前足 破損ス沙門見二了リテ繪馬ノ足損スルヲ一以テレ糸ヲ綴リ補ヒ置キ二本ノ所ニ一畢ヌ云〻 舊本今昔物語ノ十三の巻ノ第卅四語に道祖神ノ形 チ造リタル有リ其ノ形旧ク朽テ多ノ年ヲ経タリト 見ユ男ノ形ノミ有テ女ノ形ハ无シ前ニ板ニ書 タル繪馬有リ足ノ所破レタリ道公是ヲ見テ夜 ルハ此道祖ノ去ケル也ケリト思フニ弥ヨ奇異 ニ思テ其ノ繪馬ノ足ノ所ノ破タルヲ糸ヲ以テ綴 テ本ノ如ク置ツト云〻此説元亨釋書九の巻ノ道」七四ウ 公ノ傳にも見ゆ宣胤卿ノ記ノ永正十七年十一月九日 の条に明日多武峰社ノ遷宮也関白ノ御使ハ衛門佐〈十才〉宣 綱云〻宣秀相伴ニ下ル繪馬二枚進ス云〻なと所見枚(アゲ) 挙(ツク)しかたし続日本紀神護景雲三年二月乙卯の 条に伊勢太神宮の馬形見え雄略九年ノ紀新撰姓 氏録左京皇別ノ下日本紀竟宴歌などに誉(ホム)田(ダノ)陵の 土(ハニ)馬(ウマ)もありて生馬の代(カハリ)に土(ハニ)馬(ウマ)木(キノ)馬(ウマ)繪(エ)馬(マ)なとな りし72こといとはやくよりのわざ也太平記廿九ノ阿 保ト秋山カ河原軍の条に其ノ霊仏霊社ノ御(オン)手(タ)向(ムケ)扇 團(ウチ)扇(ハ)ノバサラ繪(エ)ニモ阿保秋山が河原軍トテ書(カヽ)」七五オ セヌ人ハナシ云〻といへる霊社の御手向も繪 馬の事にてそは必馬に限らず他(アダシ)形(カタ)の繪を書て 奉れるをも繪(エ)馬(マ)とはよべる也神社啓蒙ノ或問南 嶺遺稿一の巻草盧漫筆神道名目類聚抄倭訓栞 などにも繪馬の事あり南嶺遺稿に園記といふ ものを引て建暦年中伊豆の三島の社へ八幡太 郎陸奥軍の圖ありといへるはうけがたし園記 といふは桂秋齋か例の偽造の書名なるべしか ら書にも唐ノ鄭還が古傳異に王昌齢馬當山謁スレ廟 乃命シテ使レ賚二酒脯紙馬一献ス二于大王ニ一また丹鈆録に呉ノ泰」七五ウ 伯ノ祠在リ二閶門之東ニ一毎ニ二春秋一市人相率テ牲レ醴ヲ多シ二善馬一採二 輿シテ美女一以献スレ之ヲなど有 ○六十六部回國の経聖新撰和漢合圖ノ承平二年の 段に頼朝房納ム二法花ヲ於大社ニ一六十六部ノ始也云〻桂川 地蔵記ノ上巻に或ハ有リ二六十六部回國ノ之経聖ノ負ヘル一レ笈云 云奇異雑談集ノ一の巻人の面に目鼻なくして口 頂の上にありてものをくふ事の条に津の國の 聖道一人〈名藤坊〉九世戸さんけいのついでに予が 居所にきたりて数日逗留の時かたりていはく 津の國に一人の聖道あり日本六十六ケ国を修」七六オ 行するに国ごとに十月廿日逗留してその国中の 名所旧跡大社験佛残りなく一覧をとげてかへ る也云〻妙法寺記に彌勒二年丁卯云〻六十六 部ノ写経供養云〻など見え塩尻五の巻にも六 十六部廻国順礼の事あり尚可考 ○木から落た猿俗語に便なくなりたるを木から 落た猿のやうといふは源平盛衰記廿四の巻〈十一 丁ウ〉に木ヲ離レタル猿ノ迎ヤ儲セヨトテ云〻文 選西都賦に猨狖失フレ木云〻などあるにおとれり と見ゆ」七六ウ 第二十答椿仲輔之問 ○比(ヒ)滿(マ)沙(サ)伎(ギ)理(リノ)梁(ヤナ)天武紀四年四月庚寅ノ詔に四月朔 以後九月三十日以前莫シレ置コト二比滿沙伎理ノ梁ヲ一とある は三代實録類聚三代格などに載(ノセ)たる元慶六年 六月三日の官符に毒(ドク)流(ナカシ)を禁(イマシメ)られしにおなしく 河中大小の魚虫こと〳〵く死せん事を憐(アハレミ)玉ひての わざ也比滿を水戸本の書紀また釋日本紀など には比彌に作りたれど通音なればいつれにて もすべし谷川士清が通證に比滿沙伎理ハ者遮(サエキル)レ隙(ヒマヲ) 之義也也荀子ノ註ニ石絶ヲレ水ヲ為スレ梁ト所二以也取ル一レ魚ヲ也捜神後記ニ」七七オ 所謂ル蟹断モ亦此意也唐書咸亨中禁ス二作テレ簺捕コトヲ一レ魚ヲといへ るにて其義知べし隙(ヒマ)もらさじと魚を遮(サヘ)留(トヾム)る梁(ヤナ) を制(トヾメ)られし也今河湖中に立て魚(イヲ)海(ノリ)苔など取料 の竹木をヒヾといふも比滿比弥の名に据れる にや曽丹集にえりさすとよみたるを言塵集ニひ び木のよし注したり ○都(ツ)婆(バ)波(ヽ)山(ヤマ)都(ツ)婆(バ)波(ヽ)小(コ)都(ツ)婆(ヽ)延喜式曰時祭式73造酒 式などに都(ツ)婆(バ)波(ヽ)山(ヤマ)都(ツ)婆(バ)波(ヽ)小(コ)都(ツ)婆(ヽ)波(ハ)あり都(ツ)婆(バ)波(ヽ) は空(ウツボ)瓫(ヘ)にてウツボペ74のウ75ヲ省(ハブキ)きホとヘをハ76に 通はしたる語とおほゆそは瓫(ヘ)都(ツ)婆(バ)波(ヽ)匜(ハニサブ)短(ヒキ)女(メ)杯(ツキ)」七七ウ 盞(ツキ)など並(ナラベ)挙(アゲ)たるにても知べし其ノ形今は知ルべか らねど清濁酒を納(イレ)もし煖(アタヽメ)もする器と見ゆ瓫(ヘ)は いと深からぬにいひ都(ツ)婆(バ)波(ヽ)は深(フカ)く殊(コト)に中の空(ウツボ) なるにいひ匜(ハニサブ)は柄(エ)有ル物にいへるにや短(ヒキ)女(メ)杯(ツキ)と 77盞とは酒(サケ)を酌(モル)器也さて山(ヤマ)都(ツ)婆(バ)波(ヽ)とある山は 大の字の誤にて大(オホ)都(ツ)婆(バ)波(ヽ)なるべしそは小(コ)都(ツ)婆(バ) 波(ハ)に對(ムカヘ)たる名なれば也儀式には參河國の産物 のよし見ゆ ○等(ト)呂(ロ)須(ス)伎(キ)延喜ノ大嘗會式造酒式などに等(ト)呂(ロ)須(ス)岐(キ) 見え儀式に參河国ノ等(ト)呂(ロ)須(ス)伎(キ)〈造酒式にも參河国所造ノ等呂須岐とあ」七八オ り〉あり匡房卿ノ記ノ天仁元年ノ記にも造酒司所レ供等(ト) 呂(ロ)須(ス)岐(キ)見えて酒五升納(イル)器也名義78和名抄に参河 国設樂郡設楽ハ和名之(シ)多(タ)良(ラ)とあればシタラ杯ノ シ79を省(ハブ)きタラ80をトロ81と通はしいへりと見ゆ今 参遠両国の境志(シ)等(ト)呂(ロ)といふ處〈今の荒井の邊〉にて造る 焼物をシトロ焼82といふも等(ト)呂(ロ)須(ス)伎(キ)の遺風なる べし ○下総国豊田郡和名抄に下総国ハ管十一葛錺〈加止志加〉 千葉〈知波〉印(イナ)幡(バ)匝(サフ)瑳(サ)海上〈宇奈加美〉香取〈加止里〉埴83生〈波尓布〉相 馬〈佐宇万〉猿島〈佐之万〉結城〈由不岐〉豊田〈止与太〉とあり民部」七八ウ 式ノ上またおなし頭書に延喜四年十二月十日改テ二 岡田郡ヲ一為ス二豊田郡一と見ゆ神名式ノ上に下総國岡田 郡ノ桑原ノ神社といへるは改ざる已前の名をしる せし也拾芥抄ニ下総国十一郡とて豊田郡の下に 元ハ岡田延喜廿年改ハ二豊田ト一としるし別に千田郡を 加ヘたり十一は十二の誤千田は岡田の誤なるべ くおもふよしは古本ノ節用集に大管十二郡とし 岡田を加ヘたれば也されば上古岡田郡といひし を延喜年中〈延喜式頭84には四年とし拾芥抄には廿年とす〉豊田に改め 鎌倉の末室町の始などに二郡に分て十二郡と」七九オ せられし来べしまた吾妻鏡によれは葛錺郡を 分(ワケ)て葛西葛東とせられし事もありと見ゆ 第廿一くがにあがれるいを ○阿佛尼ノ十六夜日記ノ長歌に〽須磨と明石のつゞ きなるほそ川山の谷川にわづかにいのちかけ ひとてつたひし水のみなかみもせきとめられ ていまはたゞくがにあがれるいをのごとかぢを たえたる舟にゝてよる方もなくわびはつる子 を思ふとてよるのつるなく〳〵都出しかど云〻85 陸にあがれる魚とは金光明最勝王経〈巻第十〉捨身」七九ウ 品に大車王の第三子摩訶薩埵太子大慈悲心を 起し身を大竹林の餓虎に投與し時其母国太夫 人悲傷の事を説(トケ)る条に爾ノ時夫人迷問稍ク止ミ頭髪 蓬乱シ両手モテ槌レ冑ヲ宛二轉シテ于地一如ク二魚ノ處ル一レ陸ニ若(カクノ如)生シテ二失フレ子ヲ悲泣ヲ一 而言(イハク)云〻と見えたる故事によれるなるべしま た荘子ノ外物ノ篇に有二中道ニシテ而呼者一周顧視スレハ車轍ノ中ニ有リ二 鮒魚一焉周問テレ之曰鮒魚来レ子何為スル者ソ耶(ヤ)對テ曰ク我ハ東海ノ 之波臣也也君豈有テ二斗升ノ之水一而活サンヤレ我ヲ哉周曰ク諾我且ツ 南(ノ方)遊二吳越86之王ニ一激シテ二西江ノ之水ヲ一而迎ヘンレ子可ナランカ乎鮒魚忿然トシテ作シテ レ色ヲ曰ク吾得テ二斗升之水ヲヲ一然シテ活ン耳(ノミ)君乃チ言フハレ此ヲ曾ヲ不レ如三早ク索メンニ二」八〇オ 我ヲ於枯魚ノ之肆ニ一云〻とも見ゆ 第廿二歌道の養子 ○兼載雑談に俊成卿の嫡子に兵部卿家長といふ 人ありしかど無器用なるにより寂蓮を歌道の 養子にせられし也その後定家といふ子出来て 後寂蓮は斟酌せしなり寂蓮は俗名中務少輔定 長といへりとあり養子は神代紀ノ上に天照大神 の素戔嗚尊の御子を養玉ひしを始にて続日本 紀ノ二の巻假寧令義觧などに見え續世継八重の しほぢの巻にはやしなひ子とあり後漢書ノ順帝」八〇ウ 紀五代史ノ唐ノ太祖ノ家人傳その外から書の所見も おほかり 第廿三つくり丘 ○和泉国内ノ神名帳に大島郡従四位上造(ツクリ)岳(ヲカノ)社前あ り按に造(ツクリ)岳(ヲカノ)はもと作道(ツクリミケ)築山(ツキヤマ)などの意にて新に 造(ツク)りし丘(ヲカ)の後に地名になりしものなるべし 第廿四野井 ○神名帳に石見ノ國安濃郡野井ノ神社あり野井は野 原の中なる井のことなるべし武蔵野の井頭(ヰノカシラ)の 池相模野の大沼(オホヌマ)なとの類掘(ホリ)たる井に限らず池」八一オ 沼の類にても野中なるは野井といふべし野中 の清水などおなし心也 第廿五哉の字 ○世になま古學者だつ人かなに哉の字をかくを いみじきあやまりとおもひたるはわらふにた へぬこと也萬葉ノ七に君(キミガ)為(タメ)浮(ウキ)沼(ヌマ)池(イケノ)87菱(ヒシ)採(トルト)我(ワガ)染(ソメシ)袖(ソデ)沽(ヌレニ)在(ケル) 哉(カモ)同十一に公(キミガ)目(メヲ)見(ミマク)欲(ホリシヲ)是(コノ)二(フタ)夜(ヨ)千(チト)歳(セノ)如(ゴトモ)吾(ワカ)戀(コフル)哉(カモ)また 行(ユケトモ)々(〳〵)不(アハヌ)相妹(イモ)故(ユヘ)久(ヒサ)方(カタノ)天(アメノ)露(ツユ)霜(シモ)沽(ヌレニ)在(ケル)哉(カモ)などの加毛(カモ)は 後の加奈(カナ)におなじ又顯宗紀に美飲喫哉此ニハ云フ二于(ウ) 魔(マ)羅(ラ)你(ニ)烏(ヲ)野(ヤ)羅(ラ)甫(フ)屡(ル)柯(カ)侫(ネト)一とある柯(カ)侫(ネ)も通音にて」八一ウ 加(カ)奈(ナ)におなじければこれらによりて哉の字か かんことくるしからずと知べし 第廿六壽の假名 ○須の假名に壽の字をかくは十王経に樹(キ)ニ有リ二荊棘(オドロ)一 宛モ如シ二鋒匁ノ一二ノ鳥栖(スミ)掌(ツカサドル)一ヲ名ケ二無常鳥ト一二ヲ名ク二抜目鳥ト一我レハ汝カ 舊里ニテ化シテ成ラ二𪇖鷜ト一示シレ怪ヲ語(ナ)二鳴(ク)別(ホ)都(ト)頓(ヽ)宜(ギ)壽(ス)ト一〈此鳥近シ二呉語ニ一云テ二祈家命ト一鳴ク〉 我ハ汝カ舊里ニシテ化シテ成テ二烏(カラス)鳥ト一示シレ怪ヲ語(ナ)二鳴(ク)阿(ア)和(ワ)薩(サ)加(カト)一〈此鳥遠シ二呉語ニ一病ス来レハ将セ二 命尽ント一〉とあるをより所とす無常鳥は杜鵑(ホトヽギス)抜目鳥は 烏(カラス)なり此経は圓融一條などの御代に偽作せし 物にて安然和尚の抄物〈題昭袖中抄〉88日蓮坊の十王讃」八二オ 歎抄暦應の比89暮露々々草子源氏河海抄などに も引用たればいと古書也またうけられぬ書な れど大同類聚方の假名にも壽(ス)の字をおほく書 たり 第廿七等身の佛 ○等身の佛像は栄花物語更級日記舊本今昔物語 吾妻鏡などその外古書におほく見ゆこは人の 身の丈(タケ)にひとしく佛をつくりたることゝおもふ べからす二中歴ノ第三ノ造佛歴ノ寸法の条に頌ニ曰フ丈 六尺又ハ五三尺一搩手半周尺三佛出世ノ長(ミタケ)八ヘ尺也」八二ウ 是ヲ表スルカ二佛ノ尊躰ノ相ヲ一故ニ一倍シテ謂フ二之ヲ丈六ト一也為ニ三衆生ニ悟ラセン二無常ヲ一 其ノ壽百歳五分ニシテ減二一分ヲ一唯八十也也〈廿為二一分一〉八尺ハ者佛出 世ノ時大夫ノ等身謂フ二之ヲ半丈六ト一也五尺ハ者弘法傳ハル二漢土ヨリ一 時ノ人長也也近代謂二之ヲ等身ト一三尺ハ者釈尊為ニ二瞿(ク)師(シ)羅(ラ)長 者ノ一所ノレ現スル身也也一尺六寸ハ者准二スル也丈六ニ一也一搩者従フ二母ノ肘 節ニ一異二也予(ワガ)其ノ腕節ニ一也手半ハ者其ノ手ノ之半ノ分量也也所ハ謂ル人 在ル二母胎ニ一時至テ二于第廿七箇ノ之七日ニ一人相皆備ル以テレ手ヲ掩ヒ レ面ヲ蹲(ウツク)踞(マリテ)而坐ル其ノ時身ノ長與(オナジ)二母一搩手ニ一滿チ二卅八箇ノ之七 日ニ一已テ出生ス也因ルカ二養育ニ一故ニ成ル二八尺五寸ノ身ト一云〻是レ依テ二東 山ノ隠上人ノ説一に粗(ホヽ)注スレ之ヲとあるに据(ヨレ)は五尺を等身の」八三オ 佛像といへる也諭祇経ノ下巻ノ金剛吉祥大成就品 に復説ク畫像曼拏攞法ハ取リ二浄キ素氈(シロヌノヲ)一等シテ二自身ノ量(タケニ)一而圖二畫ス 之一凡一切瑜伽中ノ像皆自身ヲ自ラ坐シテ等シテレ量(タケニ)畫クレ之ヲ云〻西域 記ノ五の巻鞨若鞠闍國の条に伽藍ノ東ニ起ス二寶臺ヲ一高サ百 餘尺中ニ有リ二金ノ佛ノ像一量(タケ)等シ二王身ニ一云〻など見え宗ノ何薳 が春渚紀聞ノ五の巻撞キレ鐘ヲ畫レ像ヲ作ス二追薦一条には亡者 の等身ノ像を画て糊(ノリ)し事あり 第廿八更級日記 ○菅原ノ孝(タカ)標(スエ)ノ朝臣ノ女(ムスメ)のさらしなの日記は地名のつ いでいとみだりなりそは女(ムスメ)十三になるとし父」八三ウ が上總ノ介の任はてゝのほるにぐしたりしほど のことそれよりつぎ〳〵の事をもいと年へて後し るしたンなればしとけなきがもとよりの體裁な るべし中の文(コトバ)に二三年四五年へだてたることを しだいもなく書つゞくればやがてつゞきたち たるすぎやうさめきたれどさにはあらず年月 へだゝれることなり云〻又所〻になりなどして たれも見ゆることかたうあるにいとくらい夜六 波羅にあンなる甥のきたるにめつらしうおぼえ て〽月もいでゝやみにくれたるをばすてをな」八四オ にとて今宵たづねきつらんとぞいはれにける 云〻なとあるにて後にしるせし書なること又信 濃にくだりし事などもおもふべしさるを山岡 明阿弥の校本とて安田躬絃がもたる本に古本 を引て地名のついでをたゝしたるありその古 本いとうけられぬものにて明阿弥の私に考出 し説を古本にかゝりなといとあざむきしなンめ りそは逸著聞集なども此法師自つくりて古代 めきたる奥書をそへ世人をまとはかしたる例 もあればなり余が見しは元禄十七年の刊本扶」八四ウ 桑拾葉集ノ本群書類従ノ本橘千蔭が校本余が家蔵 の古写本二種齋藤彦麿が家の冩本岸本由豆流 が家の写本清水濱臣がもたる難波人若山滋古 が古印本謄(シキ)写(ウツシ)の本など凢て九種也この中ひと つも明阿弥の校本におなじきものなけれはい よ〳〵地名の正しきはその本の正しからざること をしりはてぬさて更級日記といへるは題号は いとすゑに更級にくだりしよしあれば也この 作者は右大将道綱母の姪(メヒ)にてざえかしこきぞ うなればかの蜻蛉のにきにもおさ〳〵立おとる」八五オ ぬふみは作り出たンなるべし 第廿九雞冠花 ○多識編ノ濕草類ノ部に鶏冠ハ和名今按ニ土利左加久左(トリサカクサ) 俗称ス二計(ケ)伊(イ)土(ト)計(ケト)一云〻節用集計部草木門に雞頭花 ケイトウゲ云〻節用集大全ノ計集ノ草木門に雞頭 花ハ鶏冠花也也有二掃帚扇面瓔珞等一皆以二其花ノ形一名レ之 也云〻大和本草巻七〈廿五丁オ〉花草類部に雞冠花々 紅白黄三色アリ品多シ鮮紅ニシテ大ニ重ナル者 上品ナリ錦雞頭ト云南京ノ種尤ヨシ好種ヲマ キテモ変シテ醜クナルアリシゲクウヱテ花初テ」八五ウ 開ク時アシキヲハ早ク抜去テ好花ヲ養フベシ 三四月根ヨリ苗ヲ生ス六月ヨリ花サキ霜後ニ 萎ム凡五箇月ノ間シボマズ百日紅山茶花海紅 ナド花久シクアリトイヘドモ花落テカハル〳〵サ キツヾク事久シキ也一花ノ如此久シキニ堪ル 事雞冠花ニシクハナシ其葉嫩キ時可レ食性アシ カラズ草花譜曰有二紫白同帯ノ者一名二二色雞冠ト一實ヲ マキテ遅ク生スルハ花ヨシ云〻本草啓蒙十一 の巻濕草類上〈廿三丁オ〉に雞冠ケイトウ一名洗手花 〈群芳譜〉杜若〈葯圃同春〉一朶雲〈間情偶寄〉紫冠〈蘇氏韻輯〉波羅奢〈秘傳花鏡〉」八六オ 俗ニケイトウト呼ブ雞頭ノ意ナルベシ然トモ此 花ハ雞ノ冠ニ似タリ雞頭ニハ似ズ唐山ニハオ ニバスノ實ヲ雞頭ト云雞冠ニ數種アリ一種茎 短ク僅ニ五寸90ニシテ大ナル花ヲ開テ高麗ゲイト ウ又南京ゲイトウチヤボケイトウト云漢名壽 星雞冠〈群芳譜〉廣東雞冠〈同上〉一種花ノ形圖ニシテ末尖 レルヲヤリゲイトウ又スギナリケイトウト云 漢名掃雞冠〈花史左編〉一種花ノ形チ扁大ナルヲイサ カゲイトウ又ヒラゲイトウト云漢名扇面雞冠 〈群芳譜〉此外ニモ種類甚多シ一種掃帚雞冠ノ形ニ」八六ウ シテ花ノ末及傍ニ細枝ヲ出シ其梢各小扇面ノ如 ナルモノ出テ多ク下垂スルヲミダレゲイトウ 又イヤウラクケイトウト云漢名瓔珞雞冠〈群芳譜〉 一種紅黄二色間リ開クモノヲサキワケゲイト ウト云漢名二色雞冠〈花史左編〉二喬雞冠〈同上〉唐山ニハ 五色相間ルモノアリ五色雲〈間情偶寄〉トイフ云〻滑 稽雑談十六の巻八月下に雞冠花春種をまく時 器に入て其器の形に花形を發すといふ未考云 云汝南圃史十の巻に雞冠花佛書名波羅奢花形 高三五尺葉似筧而尖亦可食其花褊而舒長状類」八七オ 雞冠有紫白淡紅三色亦有紅白間者就中又有如 纓珞者各種形状不一浣花雑志云清明下シレ子撤過シテ 即用レ糞澆ク可レ免二雀啄一子細黒蔵於花中瑣砕録云種 雞冠子立撤則株高坐撤則株低盛扇撤之則如團 扇散鬚徹之則成纓珞如欲雙色各被半邉紙麻縛 之然屢試不験又有矮雞冠種有金陵来栽置階下 若侏儒然一名壽星雞冠此花秋91興二雁来紅十様一錦争 レ竒競レ秀極為圃中點綴唯白雞冠子主治婦人淋症 最験云〻祕傳花鏡五の巻に雞冠花一名波羅奢 隋在皆有三月生苗高者五六尺其矮種只三寸長」八七ウ 而花可大如盤有紅紫黄白豆緑五色又有妃央二 色者又紫白粉紅三色者皆宛如雞冠之状扇面者 惟梢間一花最大層々巻出可愛若掃箒雞冠宜高 而多頭又若瓔珞花光小而雑亂如箒又有壽星雞 冠以矮為貴者雞冠似花非花開最耐久經霜始蔫 俱収子種撤下則糞澆可免蠱食云〻食物本草十 八ノ濕草類ノ二本草綱目十五〈卅九丁オ〉濕草類上廣群芳 譜五十二の巻花譜などに見え詩賦なともおほ かりまた海菜に雞冠菜あり和名抄十七海菜部 に楊氏漢語抄ニ云ク雞冠菜ハ土(ト)里(リ)佐(サ)加(カ)乃(ノ)里(リ)式ノ文ニ用フ二鳥」八八オ 坂苔ヲ一云〻類聚名義抄にもトリサカノリと見ゆ 以呂波字類抄二の巻止部殖物の条に雞冠菜ト サカノリ俗用二鳥坂苔一云〻節用集止部に雞冠海 藻トツカサ云〻冝禁本草追加にトツサカ又ム カデノリ云〻和歌食物本草上〈十三丁ウ〉止部にとつ さかとよめる歌三首あり大倭本草八〈四十一丁ウ〉雞 冠菜ハ和品也順和名抄ニ出タリ其形雞冠ノ如シ食フ ベシ紅色也附テレ石ニ生ス云〻與清曰雞冠花は多識編 にトリサカグサともケイトゲともいふよし見 えこれ今のケイトウ花也雞冠菜は海菜にて今」八八ウ 唐舩交易の品也伊豆海邉におほしこれトリサ カノリともトサカノリともトツサカともいへ り其主治禁忌は和歌食物本草によみたれは閲 て知べし雞冠花は唐の羅鄴が詩に一枝濃艶對二 秋光一露滴風揺向二砌旁一暁景乍チ看ル何處カ似タル謝家ノ新染 紫羅ノ囊なとよりして宋元明人の詩おほかり貞 和集九の巻〈卅一丁ウ〉草木部に真浄が矮雞冠の詩あ り矮雞冠は今俗ナンキンケイトウとよふこれ 也又五祖及ヒ率菴が雞冠花の詩あり92俳諧糸衣の 発句に〽けいとうの花のさかりや八九月余が」八九オ 雞冠花の歌〽君か代の秋ににほひて行末も長 鳴鳥のとさか花かな93谷中94随時苑の圃中にうゑ たるにいとよく生しけり花もこよなくて八九 月の95竒観也96菜花97苗實共に食て美味也98牡丹芍薬 にもまさりて花寿の久きと艶色の深きとは世 に似るものなし私に花公99と名づけたるは100花王 に對し此君十八公なとの称をも101おもひよりて の102わざ也103 第三十いし〳〵 ○北山殿行幸記〈八丁オ〉に常の御所夜のおとゞの御」八九ウ 衣いし〳〵の御まうけもいかめしき事どもきこ えしかどもそれまではのぞきもまゐらせねば 云〻又〈十二丁ウ〉次に104関白いし〳〵公卿しだいにちや くざす云〻又〈十五丁オ〉そのゝち関白いし〳〵次第に まかで玉ふ云〻又〈十九丁オ〉御まうけの事ども御ま しいし〳〵とけいめいし給ふ云〻思ひのまゝの 日記〈十一丁オ〉に近比まゐらぬしよしいし〳〵までも とゝのへさせ玉ふ云〻雲井の春〈八丁ウ〉にいし〳〵 の人〳〵云〻又〈十一丁ウ〉いし〳〵けんぞうの座にまゐ り玉ふ云〻御湯殿上記〈永禄五ノ五ノ十六の条〉に今日は御祈」九〇オ 祷どもあり女中の御なかへ御さかづきまゐり てみな〳〵105御いし〳〵と御いはひあり云〻按にい し〳〵は以(イ)次(ジ)々(イ)〻(ジ)の字音也西宮記ノ正月部ノ下五日ノ 叙位ノ議の条の裏書に四條大納言ノ説ニ云ク著ス二議ノ―所ニ一時 一ノ大臣入ルレ自レ南以(イ)次(シ)ノ大臣以下ハ入リレ自リ二艮ノ角一但雖トモ二以次ノ 大臣ト一執筆ノ之時可シレ入ルレ自リレ南而トモ納言執筆ノ之時猶可ルレ入ル レ自リレ艮云〻又著ク一御前圓座ニ一之時以(イ)次(シ)ノ大臣執筆者ハ猶 先ツ著ク二自ラノ座ニ一之後随テ二御氣色ニ一可キレ著ク二上座ニ一欤云〻二水記ノ 大永二ノ正ノ二ノ淵酔の条に下﨟ノ貫者勧盃ノ事云〻第 一ノ大臣ノ之外取ルレ酌ヲ人無ヤレ之欤已(イ)次(シ)之(ノ)大臣ハ只盃許リ欤」九〇ウ 云〻などあるをかうがへ合せて知べし (以下白紙)」九一オ