********* テキストデータ版 凡例 ・書冊データから、空白・タブを削除したデータである。目次は削除している。 返り点、すてがなはそのまま付されている。従ってあくまでデータ検索などでの利用を想定した参考資料であり、引用等に際してはこちらを使わず、書冊を参照されたい。 ********* はしがき及び凡例 本書は小山田与清編『松屋外集』のうち、初編二〇巻、二編七編からなる系統を翻刻校合して研究者・江湖好学の志に提供するものである。この系統は全て写本で伝わり、国立国会図書館本、もりおか歴史文化館本(三本)、静嘉堂文庫本があるほか、一部自筆草稿本が早稲田大学図書館本他にある。これらのうち国会図書館本(835―4)を底本として、広本に当たるもりおか歴史文化館本(和1499)を校合して翻刻する。巻ごとに傳存、異同の状況が異なるため、各巻ごとに翻刻紹介することとした。紙幅の都合で書誌解題については別の機会を設けたい。 翻刻の凡例を説明する。まず翻刻は国立国会図書館本の本文に従い、字取り、返り点、捨て仮名字も忠実に翻刻した。割書については原則〈〉に本行と同じ文字サイズで示し割書内の返り点も翻刻している。宣命書の場合には本文の通りに記した。字形が不明瞭な字やUnicodeで定義のない字形については通行字体を利用した。行頭の筆の尻による圏点は「○」。和歌に付された庵點は「〽」、改丁については表裏ともに「」」を付した。校合に際しては本文異同が認められる場合に異同を示し、アラビア数字の文末脚注を付す形で位置を示した。捨て仮名・返り点の異同も大きいが無視した。対校においては、もりおか歴史文化館本を「も」として、「」内に直前の文字との異同を示し、対校本文にその文字がない場合は「ナシ」と記し、底本にない文章が挿入されている場合には(挿入)あるいは(改行挿入)を「」末尾に付している。長文の入れ替えが生じる場合には底本の本文と「=」で対校本文の入れ替えを示した。本文の提示には底本と同じ基準で示したが丁数については省略した。国立国会図書館本に見られる朱点などについても脚注で示した場合がある。なお組版における問題により、一部返り点やカーニングに位置ずれが発生してしまっているが、次巻以降の課題とする。附属のCDには本文データ及びフィールドコートを除いたテキストデータを付した。取り扱いには注意せられたい。翻刻の許可を頂戴した国立国会図書館およびもりおか歴史文化館に深く御礼申し上げる。なお、本書はJSPS科研費JP22K13040、JP21J00181の成果である。 令和五年二月二十四日梅田径記 翻刻松屋外集巻一 松屋外集一」(外題) (遊紙一紙) 松屋外集巻之一 目録 第一印板形木(インハンカタキ) 孝謙天皇百万塔兪良甫 摺形木(スリカタギ)印佛像(インブツゾウ)節用集 碑文(インブミ) 第二加和良(クワラ)鎧(ヨロヒ)具足(グソク) 第三船霊(フナダマ) 天地1 第四標目山(ヘウノヤマ)月日山(ツキヒノヤマ)」1オ 第五豊受(トヨウケノ)宮内宮外宮 御餞(ミケツモノ)宮號 第六総柱六所大明神一ノ宮二ノ宮三ノ宮四ノ宮五ノ宮 六ノ宮武蔵六所分配宮相模六所宮 分配小野路総社 第七むさ上むせ下2武蔵相模駿河佐泥佐斯 第八羅生門ノ3金札 羅城 第九保元物語作者時代 平家物語作者」1ウ 第十古冩経帙簀(ヂス) 忠尊覚厳 第十一掃墨(ハイズミ) 第十二答ル二畠山常操ス一書 鷹のもみぢに 第十三阿波殿御庭拝見記4 第十四つほ5/\ 田寶(デンバウ) 第十五櫻間ノ池 阿波名所」2オ 第十六答ノ於澤近嶺ニレ書6 (9行白紙)」2ウ 松屋外集巻之一 武蔵多西平小山田與清稿 越後高関平渋谷永保訂 第一印板形木(インハンカタキ) ○續日本記三十の巻〈廿丁左〉寶亀元年四月戌午の条 に初メ天皇八年乱平ヌ乃チ發シテ二弘願ヲ一令ムレ造二三重小塔一百 万基高各四寸五分基経三寸五分露盤ノ之下ニ各々置ク二 根―本慈―心相―輪六―度茅ノ陀羅尼ヲ一至テレ是ニ功畢テ分二置ス諸寺ニ一 賜二事供セルレ事ニ官人已下仕丁(シチヨウ)已上一百五十七人ニ爵ヲ一各々有リレ」3オ 按に此時の小塔今尚大和ノ國ノ法隆寺ノ夢殿に存(ノコ) れり世に散在せるはた法隆寺より出たる也 余二基を蔵せしに一基は三縁山の貫首寶譽 顕了大僧正に貸まゐらせたりしをり大災に 罹(カヽリ)て烏有(ムナシク)なりぬ其中に納たる経は端に無垢 浄光経相輪陀羅尼と有て本文は五字廿一行 奥に墨書の甲の字あり今存(ノコ)れる一基の中な るははじめに無垢浄光経自心印陀羅尼とあ りて本文五字廿九行也いつれも巻子にて黄 紙に摺たる版本也墨書の甲字は孝謙天皇の」3ウ 宸筆也といひ傳ふこれ古版7の現存物といふ べし8 ○走湯山縁起五の巻永觀元年の条に唐國本朝摺 冩本9経輪人師述作合束四十餘帙納ムレ之ヲ云々 按にこは永延二年正月沙門延尋が記文にて 浮たる説にあらず円融院天皇の永観の比本 朝摺本の製盛に行はれしこと想像すべし ○平基親の新彫選擇集願念佛集ノ序に雖トモレ知ト二埋ムノレ壁ニ之 誠一還貽(ノコス)二彫版ノ之印ヲ一於(ア)戯(〳〵)玄元聖祖ノ五千言令尹早ク著シ二 上下ノ之典ヲ一選擇本願ノ十六章門徒將ニレ得ント二摺冩ノ之益ヲ一10思フノレ」4オ 徳之志古今惟レ同ト者カ歟于レ時辛未ノ之歳建子ノ之月云 々 按に元禄九年正月ノ沙門義山が跋に吾ガ祖以テ二建 暦辛未十一月ヲレ自リレ摂回ルレ洛ニ而平氏ノ序ハ乃チ是レ月ノ下旬ニ 作レル也也とありて順徳院天皇の建暦元年十一月 刊行せし也圓光大師行状画圖翼賛六十の巻 傳本第十一の条に撰擇集都ヲ二巻大師月輪殿 ノ請ニ應シテ撰進シ給ヘル11事傳文ニ具ナリ 決疑鈔見聞ニ〈良栄〉云新彫選擇本願念佛集序ト云々 此序ハ兵部卿三位平ノ基親作也案スルニレ此ノ序並ニ奥書ノ意ヲ一」4ウ 大師御在生ノ時御弟子等呈シ二修飾シテ刊行ノ之願ヲ於大 師ニ一令ム三基親ヲシテ序セ二其ノ顛末ヲ一時建暦元年辛未十一月 也明年壬甲正月廿五日大師入滅ス門弟住シテ二戀慕ノ 思ニ一且為シテ二報恩ノ一且為シテ二流布ノ一同年九月八日刻彫之功 終レリト云々今按スルニ決疑鈔ニ云フ二建暦年中開板ノ之本ト一者即 是也其後嘉禄三年絶二板シ之ヲ一了然経テ二十有二年一延 應元年重刻行于世其本跋云延應第一之暦沽 洗第六之天校シテ二根源ノ正本ヲ一直シ二展轉錯謬ヲ一即冩シテ二印字ニ一 用テ令ムト二流布セ一云々是益疑テ三建暦ノ印本ハ出カト二於門弟ノ手ニ一反 為ナラン下以二未再治一而正本ト上見ゆ」5オ ○立正安國論に去ル元仁年中自リ二延暦興福両寺一度々 経二奏聞ヲレ申二下シ勅宣御教書ヲ一法然ノ12選擇ノ印板ヲ取二上ケ大 講堂ニ一為ニレ報シカ二三世ノ佛恩ヲ一令ムレ焼二失ハ之ヲ一云々13 ○三國傳記七の巻〈十四丁右〉鑒真和尚事の条に鑑真盲(メシヒ) タリトイヘドモ律三大部ヲバ手自ラ印板ヲ開キ 給ヘリ云々14 ○義堂空華集15十九の巻〈廿五丁左〉東海寺海蔵院重刊元 亨釋書化疏叙に大日本國平安城濟北ノ沙門虎関 錬公ノ撰スル元亨釋書ハ者寶ニ本朝僧傳ノ之権與也其書凢 三十巻始テ二於傳智ニ一終二乎序説ニ一上自二推古一下至マテ二元亨ニ一七」5ウ 百餘年ノ間ノ事若キ二僧尼士庶ノ之傳ノ一若キ寺宇佛像之志ノ一若キ 國家君臣資治之表ノ一有三一関二事乎吾カ釋氏ニ一者靡シレ不ト云事二登載シテ 而収録セ一焉至テ二延文庚子六月ニ一有テ旨入シテレ蔵ニ領行フ蓋シ従テ二其 徒圓通長老令在淬ノ請ニ一也是ノ書既ニ鏤メテレ版ニ行ク二於世ニ一會〱永徳 壬戌二月十六日恒失テレ軄ヲ本院ノ遺火延テ及二書庫ニ一凡歴 代三教ノ之書秘帙奥編一夕ニシテ而燼ス二其版ヲ一遂ニ成二烏有ト一矣 聞者咸惜ム茲ニ者公ノ之嗣上足前ノ南禅大長老性誨禅 師霊見以テ二其徒テ書請スルヲ一由二東菴一遷テ蒞ム二院事ニ一未レ幾ナラ百廢倶ニ挙 仍テ圖ルニ三重テ刊二シ事ヲ茲ノ書ヲ一費用不覚也遂ニ命シテ二在城等持禅寺住持 五臺ノ某ニ一儷レ詞ヲ製シメテレ疏ヲ巡二叩十方ノ諸檀那ヲ一貴官長者緇白」6オ 男女若ハ見聞ノ者慨然トシテ樂施シ以濟サハ二板事ヲ一其福可ンヤレ量也哉 疏曰維シ元亨釋氏ノ之編ハ寔ニ本朝僧史ノ之筆也曰レ梁ト曰レ 唐ト曰レ宋ト三傳同スレトモレ涂ヲ若キレ皎カ若キレ寧カ十科異ニスレ轍ヲ慨キ二茲ノ海 藏龍宮ノ之失一レ事ヲ護ヲ俄ニ驚二琅凾玉軸ノ之帰スルニ一レ空ヲ天道好ムレ還事ヲ行 看シ二印板ノ打就スルヲ一斯ノ文複作ル正ニ好シ點シテレ筆ヲ疾書スルニ増シ二濟北ノ之蔭 涼ヲ一壮ニシ二海東ノ之福地ヲ一天子萬歳宰臣千秋ナラン 按に此化疏元亨釋書刊本の巻尾にも載て至 徳元本甲子六月日疏とあり16 ○廣隆寺来由記〈群書類従四百卅の巻ニ載レ之〉永萬元年六月御願 文に古起二経蔵ノ勢ヲ一専ラ置二一切ノ諸経ヲ一焉奉リレ書写シ金泥ノ」6ウ 本願薬師経一巻ヲ一奉ルレ摺二写シ墨字ノ同経一百巻ヲ一云々 按に二條院永万元年の事也此比の摺本本願 に剞劂ありて刊(ヱ)れるにや又は唐人を雇ひ或 は唐山の印板を得摺けんもはかりがたし ○西山上人縁起ノ四の巻に上人自院を建立セラル ヽコトハ西山往生院ヲハジメトシテ歓喜心院 浄橋寺遣迎院等ノ四箇所ナリ云々又五部ノ大乗 経天台六十巻浄名涅槃ノ疏菩薩戒ノ義記顕戒論顕 揚大戒論等コト〱ク印板ヲ開ケ未来ノ益ヲ コヽロザス云々」7オ 按に類聚名物考書籍部ノ一に此文を引て云上 人は八千代高倉院御宇治承元年丁酉誕生宝 治元年丁未道寿七十一歳法臘五十八にて十 一月廿六日白河ノ遣迎院にて入滅也しかれば 此ノ間に此経典の印刻は有しなるべし云々西 山縁起印本三種あり一は片假名本にて正保 五年の板也一は平仮名絵圖の本一は是湛が 報恩抄之上人は浄土西山派の祖菩慧の事に て法然上人の門弟也後に異見を立て別派を 開けり」7ウ ○禅林類聚ノ跋に貞治六年丁未解制ノ日幹縁僧ノ希果 重テ刊ス二京ノ臨川寺ニ一云々 按に重刊とあれはその已前の刊本ありし也 ○大般若波羅蜜多経巻第五十三跋に奉(オホン)二為(タメニ)慶圓上 上ノ滅罪生善ノ二彫二刻シテ當巻ヲ一資ク二彼菩提一矣貞應二年三月 二十九日佛子負栄云々 ○大日経疏ノ跋に為レレ讀シガ二三宝ノ慧命ヲ於三會ノ之出世ニ一廣ク施ク二 一善ノ利益ヲ於一切ノ之衆生一是則チ守二大師ノ之遺誠一偸令ムレ 遂ケ二小臣ノ之心願一謹以テ開ノ二印板ヲ一矣弘安二年己卯四月日 従五位上行秋田ノ城(キノ)介(スケ)藤原ノ朝臣泰盛云々」8オ ○法華経三大部跋に弘安第五之暦首夏上旬候鎮 守三世無尋之密議雖レ處四曼不離之界一會感二六十 巻之印板一染二七十八之禿筆一畢三部部法闍梨前僧 正承證云々17 ○傳法正宗記跋に日本國相州霊山寺續二先師宴海 未終願一勧進沙門宝積沙弥寂慧等謹題今上皇帝 大皇大后宮祝二延聖壽一関東将軍家息災延命國泰民 安開二鏤太蔵印板一副納内弘安十年丁亥九月日謹 題云々18 ○観無量寿経跋に本印奥記書校合倭漢数本勘定」8ウ 釋義意趣文字之有無次第之上下并點書闕行等 取捨是非若有難辯者就多本用之所以恐錯謬於 卒尒其功歴年月願愚迷於寸19心定以明友談因為 弘通證本勧重刊板印矣願以此功徳平等施一切 同發菩提心往生安楽國建保二年〈太歳甲戌〉二月初八 日畢此部筆功大蒙師戒誨敬寫印字比丘明信20○21奉 請根本22〈即是圓行将来正本請出由縁記新写奥〉於根本文不審由在復 無證本不能校合空積歳月無勘定期所以明信發 願致請機教相感當今正時披殘部文擬校合本及 類五會終準経旨勘定功列版印本於是同志両」9オ 三三談一會加功成願證談所定記録歴然順理應 文補欠夷剰或来論章成其文義或引韻篇匡字音 訓乃至字畫倭點假名次第讀談指定證印寛喜二 年四月三日酉終惣結首尾五日〈三月二十七日故首而三月小四月 二日不作此功故五日也〉倭漢之勘定先達古積其功魯魚の錯 謬未学今有何疑仍捧彼證本重開此版印者也抑 此印本者切聚両書〈生讃刪序〉之字畫綴成三部〈大経阿弥観経 陀経〉之文典〈但於大経者染禿筆写之〉其慇懃之志趣不遑具記矣 仁治二年〈辛丑〉九月四日所終功也釋子仙才○貞永 之初壬辰之歳依彼遺約置此版刊殊期一周擬終」9ウ 功績乃至平等施一切矣二月三日立筆十月五日 寫竟釋子虞○去弘安年中行圓上人承勅願之旨 被開一切経之印板而正安第二之暦林鐘下旬之 天不終大功遂帰空寂今年依迎第三廻之忌辰知 真為謝彼恩徳三部之妙典五部之要義抽懇棘開 印板是偏所備彼追賁也雖弘一部於穢界之雲期 再會於浄刹之月而己願以此功徳平等施一切同 發菩提心往生安樂國正安四年〈壬寅〉六月二十一日 沙門知真云々 按に此跋の趣にては建保二年に印刻し寛喜」10オ 二年23仁治二年正安四年なと24に重刻せるよし なり ○弘法大師御請来目録跋に為レ酬二四恩廣徳三年寶(宝)25 妙道一写大師御筆一謹開二印板一矣正安四年十一月廿日 高野山愚老沙門慶賢〈八十二〉云々 ○虚堂新添跋に祖翁在世語録二帙刊二流天下一宋咸 淳五年晋二之讀録後集一已成二三巻一而本朝未レ刊二行之一 先師常為レ言而未二果成一也為二人之法一者易無レ勇レ為乎 仍捜二遺送一新添二數紙於後録之尾一鏝二梓于龍翔一正和 癸丑開炉日拙孫宗卓敬書云々」10ウ ○詩人玉屑跋に本書茲書一部批點句讀畢胸臆之 決錯謬多為焉後学之君子望正レ之耳正中改元﨟月 下澣洗心子玄恵誌云々 ○圜悟録跋に道證大師鏤佛果老人心要焉其用心 之勤見於後序但彼后序偏述南北参禪興坐禅之 異匪遑縷羅此書之蘊故云以至見機而作今察以26 以至両字正思欲賛許禅定等何故治生産業猶可 矧出入諸禅自在無礙哉盖曹渓斥坐禅所以顕其性 圜悟觀坐禅所以治其病所謂禹稷顔回同道者耶 旨嘉暦戊辰寒食之日比丘尼如浄謹跋云々」11オ ○同録別本跋に旹暦應四年十月日臨川寺刊行云 々 ○臨濟録跋に這箇冊子者當年臨際祖師巧作自拈 賊家具子也今五百年之後有兒孫比丘尼印開流 通而證之者且道是直躬者邪是不直躬者邪具眼 勝流垂鑒察焉嘉暦已己仲秋日比丘尼道證謹識 云々 ○首楞厳義疏註経跋に師直熟思今生愆尤不可勝 計矧是曠却罪障何以消除因茲謹開此真詮之板 以秡積業之根所冀上報四恩下資三有同出妄想」11ウ 昏域共入楞厳覚場暦應二禩李春中澣武蔵守高 師直敬誌云々 ○雲臥記談跋に貞和〈丙戌〉三月吉日沙門明超捨財命 工鏤梓流通板留平岳自快庵中願一切衆臨生死 海乗般若舟速到彼岸云々 ○雪峰外集跋に東山和尚自於疎山踏著木蛇遭其 一口既乃去死無幾痛定之後使觧拈頭作尾拈尾 作頸正所謂雖是死蛇觧弄也活由是樷林之士鮮 有不受其毒氣自為迷悶欲窺其班者数百年後流 於扶桑有契寔書記欲滋其毒於一切以殘涎剰(マヽ)27」12オ 化緑以鋟於梓其事未畢而輙角詢而後元圭首座 曰奈何有其頭而無其尾使人胡為而拈弄也耶於ヽ(是) 為其續之乃使梵僊為添足耳丁亥七月書于建 長方丈云々 ○景徳傳燈録跋に貞和四年歳在戊子洛陽寄住正 琳命工刻梓捨置于普濟大聖禪師塔取建仁天潤 菴廣開法眼永祝堯年上報四恩下資三有法界有 情固圓種智者玉峯敬書云々 ○黒谷上人語燈録跋に元亨元年辛酉ノ歳偏ニ上 人恩徳ヲ報シ奉ランガ為又モロ〱ノ衆生ヲ」12ウ 往生ノ正路ニ趣カシメンガ為ニコノ和語ノ印 板ヲヒラク一向専修沙門南無阿弥陀佛圓智謹 疏沙門了恵感歎ニタヘズ随喜ノアマリ七十九 歳ノ老眼ヲノゴヒテ和語七巻ノ印本ヲ書レ之元 亨元年辛酉七月八日終謹疏云々 按に黒谷法然上人語燈録は文永十二年正月 二十五日了恵か自序ありて世に倭語燈録と 称す七巻あり漢語燈録とゝもに寛永癸未孟 春刊行せりもとは元亨元年印板を開ける也 ○論語集解跋に堺浦道祐居士重新命レ工鏤レ梓正年」13オ 甲辰正月吉日謹誌云々 按にはやく論語集解の印板ありけんを後村 上天皇の正平十九年堺人道裕が再板せし也 ○五百家注柳文跋に祖在二唐山福州境界一福建行者 興化路莆田縣仁徳里臺諫坊住人兪良甫久住二日 本京城阜近一畿年労鹿至レ今喜成矣歳次丁卯仲秋 印題云々28 ○傳法正宗記跋29に福建道興化路莆田縣仁徳里住人 兪良甫於二日本嵯峨寫居憑二自己財物一置レ板流行歳 次甲子孟夏四月日謹題云々」13ウ 按に柳文の奥書の京城阜近は嵯峨の事をい へるにや労鹿は労力也鹿と力を通用せり丁 卯は嘉慶元年なるべし傳法正宗跋の甲子は 至徳元年にて弘安十年の板本とは別也兪良 甫は元末の乱をさけ嵯峨天龍寺清涼寺など の僧徒にて来化しやがて嵯峨わたりにす めりし唐人にや ○醫書大全の跋に吾邦以二儒釋書一鏤板者往々有焉 然未三嘗及二醫方一恵レ民之澤人皆為レ觧一近世醫書大全 自二明一来固醫家至宝也所レ憾其本稍少散レ見而未レ」14オ 見者多矣泉南阿佐井野宗瑞捨レ財刊行彼明本有二 三寫之謬一令下就二諸家一考二本方一以正中斤雨上雖二一毫髪一私 不二増損一蓋宗瑞之志不レ為レ利而在レ救二濟天下ノ人一偉 哉陰徳之報永及二子孫一矣大永八年戌子七月吉日 幼雲寿桂誌云々 按に大永八年は後奈良院の享禄元年也同帝 の天文二年阿佐井野また論語集解を刊行せ り其に清原宣賢卿の跋あり ○吾妻鏡卅五の巻〈廿六丁左〉寛元二年六月四日の条に 為二前大納言家願一奉二為後鳥羽院御追善一日来被レ」14ウ 摺二冩法華経百部一此形木即所レ被レ彫二彼宸筆一也仍今 日被レ遂二供養一云々 ○同書四十一の巻〈十一丁右〉建長三年三月九日の条に 今日相承於御箋一被レ供二養法華経形木鶴岡別當法 印為導師一是依年来御素願一乎自今巧令二修語一云々 按に六の巻〈四十丁右〉文治二年六月十五日の条大 宰府安楽寺永久六年正月十二日起請に毎月 観音像一万體摺供養事をあるも観音像の摺 本也 ○建保二年東北院軄人歌合〈二番左〉経師の歌に」15オ 〽ちびはてゝもじがたもなき摺形木こよひの月 にあらはかさばや 七十一番職人歌合〈廿六番左〉経師の哥に〽わが戀はふ りたる経のすりかた木たえ間がちにもなりに けるかな 按に此歌どもには摺形木とよめり伊豆国修 禅寺に弘法大師の六字の摺形木二枚ありい つの比彫たりけん其体鎌倉将軍の代より下 ける物とは見えず30 ○地蔵霊験記九の巻〈十四丁右〉印佛功力免レ害事の条に」15ウ 香箱ノ中ヨリチヒサキ地蔵ノ印板ヲトリイタ シテ香水二印シテゾ授ケ玉ヒケル云々 ○同書十二の巻〈十八丁右〉印佛利益事の条に御長(タケ)一寸 バカリニ地蔵ノ模(カタギ)ヲ求(モトメ)テ虚(コ)空(クウ)ニ向テ印シアリ キケル錦ノ袋ヲ此ノ印ヲ入(イレ)テ直垂ノクビカミニ ゾ結付タルアル時尼公見玉ヒテ其方ノ頸(クビ)ニカ ケタルハ何条見苦キ田(ヰ)舎(ナカ)習(ナラヒ)カトゾ呵(カ)シ申サル 伊尹願所ノ問(トヒ)カナト喜ビサレバ其幼少ノトキ ヨリ地蔵ヲ信ジ奉リ今ニイタルマデ片時モ身 ヲ放シ奉ラズ奉公ノナラヒニテ急ノ出仕ナド」16オ ニモ忘レマヰラセンコトヲアサマシク思(ヲモヒ)テ地 蔵ノ印板ヲ錦ニ包(ツヽミ)奉リタル由開(ヒラ)キマヰラセテ ゾ見セケル尼公コレヲ手ニ取テ頂(イタヾ)キヲ尼(アマ)コソ 多年ノ行者ナレドモ女心ノアサマシサハ是程ノ 故實ハナカリケリ尤(モトモ)年寄(トシヨリ)ナドノ俄ニ引入(ヒキイ)ラン ニモ地蔵ヲ身ニ持奉ル方便(テダテ)コレニシクアシイ シクモ巧(タクミ)玉ヘリ尼モ学(マナビ)奉ントテ小(チヒサ)キ印板ヲ迎(ムカ) ヘ上(ウハ)絹(キヌ)ノ上(ウヘ)ニゾムスビツケタル云々印佛ノ功 徳ヲ以テ自餘ノ益シルノ上(ウヘ)ニゾムスビツケタ ル云々印佛ノ功徳ヲ以テ自餘ノ益シルベシ云」16ウ 々 按に地蔵の像の板木をいへり此文にかた木 とも印板とも印佛とも書たり ○類聚名義抄三の巻手部に摸カタギ云々同木部 に模カタギ云々同言部に謨カタギ云々 ○字鏡集五の巻木部に摸カタギ云々 ○倭玉篇中巻手部に摸カタギ云々 按にカタギをカタムに作れる本もあれど誤 也 ○難字記三の巻手部に模カタギ云々」17オ ○類字名物考31書籍部一に印版の事唐にては李唐 の代より見えたり皇朝にてはその始詳ならず土 御門院の元久の比かとよ法然上人の選擇集を 板に印せるよし山門の申牒に見えたり又足利 の学校にて摺れる書今もあり是をは俗に足利 版といへり又夢窓国師多く佛書詩集を印板す ともいへり又高武蔵守師直が板せし佛書もあ りその書には跋文有り又比外々折々の禅刹に てきざめる禅録詩集等も有もの也されど是も おほくは活版と見えたり今の世にすべて印板」17ウ のさかりに行はれし其初は慶長の初に中野道 伴といへるもの多く作れりといへり今も古き ものには此奥書ある書まゝ見えたり云々 按に類聚名物考三百十巻山岡俊(マツ)明(アケ)出家して 明阿といへるが作也文栞逸著聞集なとは同人 作也 ○大和事始四の巻文教門に日本にて書籍を板に 刻(キザ)む事其始をしらず元久三年山門申状に法然 坊所レ造選擇集者謗法書也天下不レ可レ止二置之一在々 所々所レ持(モツ)并其印板大講堂取上為報二三世佛恩一可二」18オ 焼失之由奏聞仕候畢とあり是を以て見れば此 時已に選擇集を板行せし也しかれば書籍を板 行する事猶其前久しき世よりありけるならん 又夢窓国師の弟子妙葩(メウハ)ハ相國寺の祖也夢窓多く 佛書詩集等を板に刻めり多くは妙葩が跋あり 又高師直が板行せし佛書あり其後兵火にかゝ りて彼板も尽く焼亡ぶ其故に不レ傳といへり師 直が板行せしは師直か跋あり又美濃の瑞龍寺 にも板あり此寺は関山(クワンザン)が寺にして関山板を開 し也周防の山口にもむかしより板あり長門の」18ウ 香積寺に三重韻の板あり亦角倉(スミノクラ)与一市太秦(ウヅマサ)の僧 に史記及謡の本を開版せしむ嵯峨本と云是也 杜子美千家注を足利本といへどもさにはあら ずむかし朝鮮に便よき時我国の紙を遺して板 をすらしめたるとぞ程敏改か心経附注などは 朝鮮より其板わたりし也近世の板印は慶長の 末に庭訓節用集など少々有しか寛永六年の比 多く来て今は其数をしらず云々 按に慶長の末に庭訓節用集有しか寛永六年」19オ の比より多くなれりとかやとあれどその已 前盛になりし事は上に引る書ともにて知べ し又節用集は文亀板あり楷字の半截本也 俗に饅頭屋本といふ又行書の半截本あり時 代不レ可レ考慶長二年浅川易林庵素心か校本あ り上下二巻とす此三本いづれも慶長以前の 板なり ○宋人高承か事物紀原四の巻〈経籍藝文部〉に印板筆談 曰板一印書籍二唐人尚未二盛為一之自三馮道始印二五経一之 後典籍皆為二板本一即唐始為二板印一矣五代會要曰後」19ウ 唐長興三年二月中書門下奏請依二石経文字一刻二九 経印板一也云々 ○同書七の巻〈真壇浄社部〉に印経院又曰太平興國八年 置二院経院一神宗熈寧未二廢其院一以二所レ印板一賜二顕聖寺一 云々 ○明人李贄か疑耀一の巻に上古書籍皆編レ竹為レ筒 以レ葦貫レ之用漆作レ書簡泰詰32重不レ便二提挈一自有下製二紙 筆及墨一者上乃易二去竹簡一誠為二使易一便易一然冩本亦未レ有二刻 板印行一也後唐明宗長興二年宰相馮道李愚請令 刊二國子監一田敏校二正九経一又母昭喬貧時嘗借二文選」20オ 於交遊一其人有二難色一昭喬發憤曰異日若貴當下版鏤 之一以遺中学者上後仕二孟蜀一為二宰相一遂踐二其言一又以レ石鏤二 九経於成都一是印二行書籍一始レ之者後唐継レ之者孟蜀 也云々 ○明人胡應麟が筆叢経籍會通四に葉少蘊云世言 雕板始レ自二馮道一此不レ然但監木始ル二馮道一耳柳玭訓序 言其在レ蜀時嘗関二書肆所レ鬻字書小学一率雕本則唐 固有レ之陸子淵豫章漫抄引二揮塵録云母昭喬貧詩 嘗借二文選一不レ得發レ憤云異日若貴當下板二鏤之一以遺中学 者後至二宰相一遂踐二其言一子淵以為興二馮道一不レ知二孰先一」20ウ 要レ之皆出二柳玭後一也載閲二陸深河汾燕間録一云隋文 帝開皇十三年十一月八日勅廢二像遺経一悉令レ雕レ板 此印書之始據二斯説一則印書實自二隋朝一始又在二柳玭 先一不特先二馮道母昭喬一也第尚有二可レ疑者一隋世既有二 雕本一矣唐文皇胡不下擴(オシヒロメ)二其遺制一廣刻中諸書上後盡選二五 品異常子弟一入二弘文舘一鈔書何耶金意隋世所レ雕特 浮屠経像益六朝崇二奉釋教致一然未レ及三檗雕二他籍一也 唐至二中葉以後一始漸以二其法一雕刻諸書一至二五代一而行 至レ宋而盛於レ今而極矣云々 ○33明人方以智が通雅卅一の巻器用書札の条〈十丁左〉」21オ に雕本印書也隋唐有二其法一至二五代一而行至レ栄而▲ (▲盛今則極矣葉夢得言柳批詞序在レ蜀34)見二 字書雕本一不レ始レ自二馮道一監本始レ道耳揮塵録言母昭 喬有二版鏤之言一陸深河汾燕間録云隋開皇十三年 勅廢二像遺経一悉令レ雕二版則此又在二柳先一疑者以隋有二 此法一唐何不レ行或止奉二崇釋教一邪沈存中曰慶暦中 有二畢昇一為二活版一以二膠泥一成今則用レ木刻レ之用二銅版一 合レ之 ○又〈十一丁右〉云麻沙印本之初出未レ精者也老学菴筆記 曰尹少稷曰能誦二麻沙版本書一寸一又云三舎法行 教官出二易義一云乾為レ金坤又為レ金諸生曰恐麻沙本」21ウ 也今精本用二墨汁一或上烟薫印乃黒 ○清人趙がが35陔餘叢考卅三の巻刻書々冊の条に 池北偶談引五代會要後唐長興三年命大子賓客 馬縞等充詳勘九経官於諸選人中召能書者写付 匠雕刻毎日五紙与減一選漢乾祐中周禮儀禮云 羊穀梁四経始鏤版周廣順三年尚書在丞田敏進 印版九経馬端臨文獻通考書籍門亦載刻書始於 後唐沈括筆談及孔氏雑説亦皆以為始于馮道奏 鏤五経又和凝有集百餘巻自鏤版行世廣順中蜀 人母昭喬出私財百萬刻九経板又刻文選初学記」22オ 白孔六帖行于世是刻書始於五代明矣然葉夢得 又謂唐柳玭訓序言在蜀見字書雕本而元徴之序 白楽天長慶集亦云繕冩摹勒衒賣于市井摹勒即 刊刻也則唐時已開其端欤筆談亦謂板印書籍唐 時尚未盛36則已有之也河汾燕間録又謂隋開皇十 三年十二月八日勅廢像遺経悉令雕撰王阮亭引 之以為刊書之始刊書與抄書難易不啻百倍若隋 已有雕刻何以唐時尚未盛行直至五代時始有之 當是随唐時習其技者少刻書甚艱故耳胡應麟筆 叢亦謂雕本肇于隋行于唐擴于五代精于宋郎瑛」22ウ 七修類稿又謂唐時不過少有一二至五代始盛宋 則羣集皆刻要不謬也云々 按に漢土の書雕板の事の所見枚挙に遑なけ れば僅にひとつふたつを引出なり ○與清曰刻書隋文帝の開皇年間にはじまり本朝 には孝謙天皇の寶亀年間に傳はれりといふべ しされど漢土の太古封禅の刻石及鼎銘盤銘等 ありこゝにも雄略天皇の朝の小子部栖軽(チヒサコベスガル)が碑(イン) 文柱(ブミハシラ)上宮太子の伊豫湯岡碑(イシブミ)などきこえて已に 刻石雕木の工あらんには剞劂のわざなしとい」23オ ふべからずかゝれば何世に起れりといふ事知 べからねど隋の開皇本朝の寶亀を此彼ものに 見へたる始とすべし三國傳記に鑑真盲(メシヒ)て後手 自印板を開けりといへるはうけがたき説也37余 がまのあたり見聞せるは目黒の長泉律院の蔵 本に太子の勝鬘経注の刊本あり倭葉(ヤマトヽヂ)38にて其古 躰鎌倉以後の物とは見えず余が家蔵に文明十 三年版の寂光釘抜念仏の画詞永禄元年版の年 代記などありその外古版本の世に傳はれるも の擧(アゲ)ていふに遑なし」23ウ 第二加和良(カワラ)鎧(ヨロヒ)具足(グソク) ○崇神記〈八丁オ〉十年に時(ヨノ)人号二其脱レ甲處一曰二伽和羅(カワラ)一云 々 ○古事記應神の段に故到詞和羅之前一西沈入故以レ 鈎(カキヲ)探二其沈處一者繋(カヽリテ)二其衣中甲(コロモノウチナルカワラニ)一而詞和羅鳴故號二其地一 謂二詞和羅前一也云々 按に甲は上古訶和羅といひてそは物に觸(フル)る 音(オト)の訶和羅と鳴に據たる名也さるを東雅〈十の 巻〉古事記傳〈卅三の巻六十六丁〉などに亀の甲を俗言に 亀のカハラといへば甲の古言がカワラにて」24オ 訶和(カワ)羅(ラ)鳴(ナリ)たるは別義ならんといへるは深く ま(サ)と(ト)ら(ニヤ)ざりし39也訶和羅は今俗にガラリト鳴 ルといふにおなし瓦をカハラといふもハと ワは走をハシルともワシルともいへるごとく 常に通音(カヨフコエ)なれば瓦のガラ〳〵と音するによ れるなるべし亀(カメ)の甲(カワラ)また40さる心にや訶和羅(カワラノ) 前(サキ)の在処は山城國綴善郡にて今河原村とい ふ崇神記の伽和羅も同処にて故事の傅の異 なる也と古事記傳〈卅三の巻六十五丁〉にいへり和名抄 に山城国綴喜郡の甲作の郷あり作は羅の誤」24ウ 写にて甲羅なるべし然て伊勢菴藝郡加和良 神社丹波氷上郡加和良神社筑後三井郡高良 玉垂命神社出雲風土記の意宇郡加和羅社な とみな甲を祭れる社にて桙衝神社剣主神社 剣神社高桙神社楯縫神社胡禄神社由貴神社 弓削神社兵主神社貫前神社なと武器によれ る神社おほかればそれにおなじ地名にも追 江犬上郡甲良郷あり雄略記〈十丁ウ〉武烈記〈五丁 ウ〉に各羅嶋ありこれも同義にや ○景行記〈廿丁オ〉に巻(マキ)レ甲(ヨロヒ)戟レ戈云々允恭記〈六丁オ〉に甲服(ヨロヒヲキテ)二」25オ 襖(コロモノ)中(ウチニ)一云々又分明瞻(ミタ)二衣中有一レ鎧(ヨロヒ)云々雄略記〈一丁ウ〉に 被(キ)レ甲(ヨロヒヲ)帯レ刀(タチヲ)云々又〈廿六丁ウ〉其所(ハナ)レ發(ツ)箭(ヤハ)穿(トホル)二二(フ)重(タヘ)甲(ヨロヒヲ)一云々射(イ)二 穿(トホシツ)大(オホ)斧(ヲノ)手(テガ)楯(タテ)二(フタ)重(ヘ)甲(ヨロヒヲ)一云々欽明記〈廿一丁オ〉に帯刀レ感擐(キテ)レ甲(ヨロヒヲ) 云々又〈廿九丁ウ〉著二頸鎧(アカノヘノヨロヒ)一者(モノ)一(ヒト)騎(ウマ)云々敏達記〈八丁ウ〉に被レ 甲乗レ馬云々皇極記〈十九丁オ〉に擐(キ)レ甲(ヨロヒヲ)持レ兵云々斉明記 〈五丁ウ〉に鎧(ヨロヒ)二領云々天武記〈二丁ウ〉に甲(ヨロヒ)冑(カブト)弓矢云々 持統記〈廿七丁オ〉に人甲一領云々 ○古事記應神の段に衣中服(コロモノウチニキセテ)レ鎧(ヨロヒ)云々又其(ソノ)衣中(ウチナル)甲(ヨロヒ)云 々 按に日本紀古事記の所見いづれも後の訓に」25ウ てヨロヒといふべき据なし此外令續日本紀 などにも出されといづれも必ヨロヒと訓べ くもあらねばカワラと訓(ヨマ)んかた然(シカ)るべし ○和名抄征戦具部に廣韻云鎧苦蓋反甲也釈名云 甲者似二物之鱗甲一也和名与路比(ヨロヒ)云々説文云冑音 宙首鎧也和名加布度(カブト)云々 ○新撰字鏡日部に冑治右反去也後也緒也胤也連 也續也与呂比(ヨロヒ)云々 按に与呂比(ヨロヒ)といふ詞は物の具足せるにいへ り万葉一〈七丁ウ〉に聚(トリ)与(ヨ)呂(ロ)布(フ)天(アマ)乃(ノ)香(カ)具(グ)山(ヤマ)云々此」26オ は山形の足備りて缺たる所なきにいへり斉 明記〈五丁ウ〉に弓矢二具(ヨロヒ)云々比は具したるにい へり孝徳記〈十七丁ウ〉に無(ナカレ)レ施(オク事)二珠襦玉押一云々此押 は具装にて装具したるにいふ字義は漢書董 賢傳に見えたり物具をよろふといふ詞合戦 書に見え厨(ズ)子(シ)一(ヒト)よろひ某一よろひなど物語 書におほかりされば甲冑を著具たる貌より 体語ふいひなせし也既に字鏡和名抄なとに 鎧の名あれば延喜式三代実録などの甲鎧の 字をはヨロヒと訓べくや具足小具足なとい」26ウ ふは保元平治より後の詞なるべし ○與清曰甲古代は必加和羅といひ是を神躰に祭 れる杜を加和良神社ともいへり今京より後ヨ ロヒといふ名出来て古名の加和羅は人しらぬ やうになれりし也保元平治の比より後には具 足小具足など字音にさへいふことはなりぬさて 加和良は觸(フル)れは然鳴(シカナル)音よりいひヨロヒは具装(ヨロヒヨソホフ) よりいひ具足はヨロヒを字音にいひたる也 第三舩霊 ○神代記41〈六丁オ〉に遂為二夫婦一生二蛭児(ヒルコヲ)一便載二葦舩(ブネ)一而流(ハナチ)レ之」27オ 云々又〈九丁オ〉次生二蛭児一雖已三歳一脚猶不レ立故載二之 於天(アメノ)磐(イハ)矩(ク)櫲樟(クス)舩一而順(マニ)レ風(〳〵)放棄(ハナチスツ)云々 ○古事記上巻に次生神名鳥(トリ)之(ノ)石(イハ)楠(クス)舩(ブネノ)神亦名謂二天(アメノ) 鳥(トリ)舩(ブネト)云々 按に天(アメノ)磐(イワ)楠(クス)舩(フネ)は伊弉冉尊の御生子(ウミマセルコ)にて一名 は鳥(トリ)之(ノ)石(イハ)楠(クス)舩(ブネノ)神とも天(アメノ)鳥(トリ)舩(ブネト)ともいへる也天(アメ) は天神(アマツカミ)なれば称す鳥は舩の疾(トク)行(ユク)を鳥の飛に たとへしにや鴨ちふ舩などよめるは水に浮(ウキ) たる㒵(サマ)よりいふめれはさる心ともすべし神 代紀下〈四丁ウ〉に以二熊(クマ)野(ヌノ)諸(モロ)手(タ)舩(ブネ)一〈舟名天(アメノ)鳩(ハト)舩〉載(イセ)二使(ツカ)者(ヒ)稲(イナ)」27ウ 背(セ)脛(バキヲ)一遣(ヤリテ)レ之云々又〈十三丁オ〉に高(タカ)橋(ハシ)浮(ウキ)橋(ハシ)天(アメノ)鳥(トリ)舩(フネヲモ)亦將(ツク)二 供造(ラン)一云々など鳥にたとふる常也亦鳥(トリ)舩(ブネノ)神 を建(タテ)御(ミ)雷(カヅチノ)神に副(ソヘ)て下し給ふとある天鳥舩は 舩(フナ)鳥(ドリ)を上下に誤れるにて天夷鳥命の事なる べしと古事記傳〈十四の七丁オ〉にいへるはさるこ とゝきこゆさて天石楠舩神鳥石楠舩神天鳥 舩神共に一体にてこれ舩霊神といふべし ○神功紀〈五丁オ〉に既而神有レ誨(ヲシヘゴト)曰和魂(マキシタマハ)服(シタカヒテ)二玉身而守二壽(ミイ) 命(イノチヲ)一荒(アラ)魂(ミタマ)為(シテ)二先(サキ)鋒(ト)一導二師舩(イクサノフネヲ)一云々亦〈五丁ウ〉撝(ヲキテ)二荒一為二軍先(サキ) 鋒(ト)一請(ネキテ)二和魂一為二王(ミフ)舩(ネノ)鎮(シヅメト)一云々」28オ ○古事記仲哀の段に我(アガ)之御(ミ)魂(タマヲ)坐(マヒテ)二舩上(ウヘニ)一而真(マ)木(キノ)灰(ハヒヲ)納(イレ)レ 瓠(ヒサコニ)亦箸(ハシ)及(ト)比(ヒ)羅(ラ)傳(デヲ)多(サハニ)作(ツクリテ)皆(ミナ)々(〳〵)散二浮(ウケテ)大海一以可レ度(ワタリマス)云々 按に日本紀の神は天照太神稚(ワカ)日(ヒル)女(メノ)尊事(コト)代(シロ)主(ヌシノ) 神表(ウハ)筒(ツヽ)男(ヲ)中(ナカ)筒(ツヽ)男(ヲ)底(ソコ)筒(ツヽ)雄(ヲ)三神と合せて六(ム)神(ハシラ)之古 事記の神は天照太神底筒男中筒男上筒男合(アハ)せ て四(ヨ)神(ハシラ)也其傳説おなじからずさて我(ワカ)荒(アラ)魂(ミタマ)和(マギ) 魂(ミタマ)を祭れとのたまへるは上筒男中筒男底筒 男の三神にて住(スミ)吉(ノエ)鎮座の大神也天照太神を 舟霊と祭るよしは舟長日記上巻に紙鬮(カミクジ)を以 て大神宮の神勅を伺て事を計(ハカ)る也此紙鬮と」28ウ いふは一(イツ)外(シヨウ)升(マス)を米八合程いれ紙を一寸四方 に切(キリ)て思事を書付丸(マロ)めて其上に置キ扨大神宮 を念じて一万度の御祓を其上にかざせば丸 めたる紙の中(ウチ)一ツ飛あがりて御(オ)祓(ハラヒ)へ付也そ れを見て知ル事也此神告(ツゲ)はいさゝか違事なし されは日本の船頭は大神宮の神託のみにて 舩を乗り侍事也云々とあるも天照大神の舩 を守り給ふあかし也 ○延喜祝詞式に遣唐使時奉幣云々皇(スベ)御(ミ)孫(マノ)尊(ミコト)乃(ノ)御(ミ) 命(コト)以(モチ)氐(テ)住(スミノ)吉(エ)尒(ニ)稱(タヽヘ)辞(ゴト)竟(ヲヘ)奉(タテマツ)留(ル)皇(スベ)神(カミ)等(タチ)乃(ノ)前(マヘ)尓(ニ)申(マヲシ)賜(タマハ)久(ク)」29オ 大(モロ)唐(コシ)尓(ニ)使(ツカヒ)遣(ツカハ)左(サ)牟(ン)止(ト)為(スル)尓(ニ)依(ヨリ)二舩(フナ)居(ズエ)無(ナキニ)一氐(テ)播磨國与(ヨ)利(リ)舩乗(フナノリ) 為(シ)氐(テ)使(ツカヒ)者(ハ)遣(ツカハ)左(サ)牟(ン)止(ト)所(オモ)念(ホシメ)行(ス)間(マ)尓(ニ)皇(スベ)神(カミノ)命(ミコト)以(モチ)氐(テ)舩(フナ)居(ズエ)波(ハ) 吾(ワガ)作(ツクラ)牟(ム)止(ト)教(ヲシヘ)悟(サトシ)給(タマヒ)支(キ)教(ヲシヘ)悟(サトシ)給(タマ)比(ヒ)那(ナ)我(ガ)良(ラ)舩(フナ)居(ズエ)作(ツクリ)給(タマ)部(ヘ)礼(レ)波(ハ) 悦(ヨロ)己(コ)備(ビ)喜(ウレ)志(シ)美(ミ)禮(ヰヤ)代(ジリ)乃(ノ)幣(ミテ)帛(グラ)乎(ヲ)官位姓名尓(ニ)令セ二捧贄(サヽゲモタ)一氐(テ)進(タテ) 進(マツ)奉(ラ)久(ク)止(ト)申(マウス) 按に遣唐使の舩の事を住吉神に禱玉ふ也舩(フナ) 居(ズエ)は船(フナ)出(デ)する湊(トコロ)をいふ ○延喜臨時祭式〈廿二丁オ〉に開二遣舩(フナ)居(ズエ)一祭〈住吉社〉幣料 絹四丈五色薄絶(キヌ)各四尺絲四絇綿四屯木綿八両 一斤四両古神祇官羌レ使向レ社祭レ之ヲ云々」29ウ ○万葉集十九の巻〈卅六丁オ〉天平五年贈二入唐使一歌に墨(スミノ) 吉(エ)乃(ノ)我(ワガ)大(オホ)御(ミ)神(カミ)舶(フネ)乃(ノ)倍(ヘ)尓(ニ)宇(ウ)之(シ)波伎(キ)座(イマシ)舶(フナ)騰(ド)毛(モ)尒(ニ)御(ミ) 立(タヽシ)座(マシ)而(テ)佐(サ)之(シ)与(ヨ)良(ラ)牟(ム)磯(イソ)乃(ノ)崎(サキ)々(〳〵)許(コ)藝(ギ)波(ハ)氐(テ)牟(ム)泊(トマリ)々(〴〵)尓(ニ) 荒(アラキ)風(カゼ)浪(ナミ)尓(ニ)安(ア)波(ハ)世(セ)受(ズ)平(タイラ)久(ケキ)率(ヰ)而(テ)可(カ)敝(ヘ)理(リ)麻(マ)世(セ)毛(モ)等(ト)能(ノ) 國(クニ)家(ヘ)尒(ニ)云々 ○同廿の巻〈卅七丁ウ〉海(ウナ)原(バラ)乃(ノ)可(カ)之(シ)古(コ)伎(キ)美(ミ)知(チ)乎(ヲ)之(シ)麻(マ)豆(ヅ)多(タ) 比(ヒ)伊(イ)已(コ)藝(ギ)和(ワ)多(タ)利(リ)弖(テ)安(ア)里(リ)米(メ)具(グ)利(リ)和(ワ)我(ガ)久(ク)流(ル)麻(マ)握(デ)尒(ニ) 多(タ)比(ヒ)良(ラ)氣(ケ)久(ク)於(オ)夜(ヤ)伊(ハ)麻(イ)佐(サ)称(ト)都(ツヽ)々美(ミ)奈(ナ)久(ク)都(ツ)麻(マ)波(ハ) 麻(マ)多(タ)世(セ)等(ト)須(ス)美(ミ)乃(ノ)延(エ)能(ノ)安(ア)我(ガ)須(ス)賣(メ)可(カ)未(ミ)尒(ニ)奴(ヌ)佐(サ)麻(マ)都(ツ) 利(リ)伊(イ)能(ノ)里(リ)麻(マ)宇(ウ)弖(テ)奈(ナ)尒(ニ)波(ハ)都(ヅ)尓(ニ)舩(フネ)乎(ヲ)宇(ウ)氣(ケ)須(ス)恵(ヱ)云」30オ 々 按に住吉大神の舩を守り玉ふ事古事記仲哀 の条日本紀神功紀延喜臨時祭式祝詞式万葉 集十九の巻廿の巻なとを考て知べし住吉の 神は延喜臨時祭式〈十丁ウ〉に住吉神四座云々神 名式上〈廿三丁ウ〉に摂津國住吉郡住吉坐神社四座 並名神大月次相嘗新嘗云々廿二社註式に日 本書紀云伊弉諾尊所レ生其〈第一〉底筒男命〈第二〉 中筒男命〈第三〉表筒男命是即住吉大明神此三 神〈並第四〉神功皇后鎮座〈以上四所也〉社家説云住吉社」30ウ 四座第一天照大神第二宇佐明神第三〈底筒男中筒男 表筒男為二一座一〉第四神功皇后也住吉四所明神は表筒 男中筒男底筒男の三柱は古今動ことなし式は 神功を加へ或は天照大神を加へなとして一 所の説は確乎(タシカ)ならず ○皇大神宮儀式帳に御(ミ)舩(フネノ)神社一處〈有(ウ)尒(ニノ)郷(サトノ)土(ト)羽(ハ)村在〉稱(マウス)二大(オホム) 神(カミ)乃(ノ)御(ミ)蔭(カケ)川(カハノ)神(カミト)一形(ミカタ)無(ナシ)倭姫(ヒメ)内親(ミコ)王代定(イハヒ)祝(マツル)正(ショウ)殿(デン)一宇 〈長七尺弘五尺高八尺〉玉(タマ)垣(カキ)一(ヒト)重(ヘ)〈四方各二丈〉坐(オハシ)地(マスト)二(コロフ)町(タマ)四(ナシ)至(ヾ)〈東南公田 西百姓家北御力代田〉 ○延喜太神宮式に太神宮所摂二十四座云々御舩」31オ 社云々42 ○倭姫世記に廿五年云々倭(ヤマト)姫(ヒメノ)命(ミコト)波(ハ)皇大神乎(ヲ)奉レ載(イタヽキ) 天小舩乗(ノリ)給御舩仁雑(クサ〳〵ノ)神財並忌(イム)楯(タテ)桙(ホコ)等乎(ヲ)留(トヾメ)置(オキ)天 従二小河一幸(イデ)行(マシ)支(キ)云々従二其処一幸(イテ)二行(マシ)河一盡(ツクシ玉ヒ)支(キ)其河之水 寒(サム)河(カワ)止(ト)号(ナツケ玉ヒキ)其處御(ミ)舩(フネ)留(ハテ)給(タマヒ)弖(テ)即其處仁(ニ)御舩神社定(サタメ) 給(タマヒ)支(キ)云々又廿六年云々于時美(ミ)舩(フネノ)神朝(アサ)熊(クマノ)水(ミナト)神(ノ)等(タチ) 御舩仁乗(ノセ)奉利弖(テ)五十鈴(スヽ)之(ノ)河上仁遷(ミユキ)幸(シ玉フ)云々 ○神名秘書に御舩社太神乃御舩神也在二有尒郷止 羽村一云々 按に御舩神社の事類聚神祇本源元々集廿二」31ウ 杜注式論神記なと物に見えたる挙尽しがた し此は太神宮の乗御の御舩の神也 ○續日本紀廿四〈廿二丁ウ〉天平宝字七年八月壬午の条 に初遣二高麗國一舩名曰二能登一帰朝之日風波暴急漂二 蕩海中一祈曰幸頼二舩霊一平安到レ國必請二朝廷一酬以二錦 冠一至レ是縁二於宿祷一授二従五位下一其冠製錦表絶裏以二 紫組一為レ纓云々 按にはこれは能登舩の霊に祈玉て利益を承り 従五位下を授し也舩に位を授ること續日本後 紀六の巻承和四年五月丁酉授二遣唐第一船其」32オ 号太平良従五位下一と有 ○延喜神名式に伊豆國田方郡軽野神社云々又近 江國愛智郡軽野神社云々 按に軽野は舩の名にて古事記仁徳の段に河 内國兎(ツ)寸(キ)河の西の大樹を伐て作れるよし日 本紀には應神記五年十月伊豆國に命て作れ る舩軽行如レ馳故軽野といふよし見ゆ國卅一 年八月の条にも官舩枯野者伊豆國頭レ貢とあ り田方郡軽野神社は比舩霊を祭れる也近江 國愛智郡の軽野神社もよしあるべし豊臣太」32ウ 閤の御座舩河竹丸も伊豆國宇佐美の里の八 幡宮の神木にて其切取たる木口より枝を生じ たるが十二本あり大(オホキ)なるは廻り六尺余もあ るべし小(チヒサ)なるも三四尺に下(クダ)らず伐(キリ)口(クチ)は畳十 二畳敷(シク)べきひろき也遠方より見れは一株の 木小山の如し比河竹丸の霊も神に祭りて今 江戸本所に河竹大明神あり舩長日記上巻〈池田 憲親が聞書也〉に舩玉の去(サル)を43すべて舩玉とは舩のぬ し也帆柱を立る筒の下に納置事也紙雛一附 其舩主の妻の髪毛少し双六の簺二〈サイノ目ノ置方ア」33オ リ〉此三品を納置を舩玉といふ也難舩ある時 は必此舩玉去(サル)也難舩したる舩を見るに必舩 玉はなきもの也とそ難舩すべき以前に何ぞ に化して近去事も有こと見ゆかにかくに舩霊 なしといふべからず ○諸神記中巻七種番神の条に東方八神云々第八 箕宿神此曰二浮舩神一云々 按に神社鎮座歳代考にもかくいへり浮舩神 は舩神なるべし元亨釋書には華厳経の守夜 神を舩神とし叡山には新羅大明神傳教大師」33ウ の舩を守玉へるよしいへり廿三社注式の異 本には豊玉姫を舩神とし神社啓蒙六の巻〈廿九 丁ウ〉には舩玉神卜部説曰二猿田彦一也と見ゆいづ れも各々私意をもていひ出たるものにてう けひくべくもあらざりけり ○延喜神名式上に摂津國住吉郡舩玉神社云々 按に摂陽群談十一の巻〈十四丁ウ〉に住吉摂社とす 所レ祭舩玉命也云々摂津志二の巻〈五丁オ〉に住吉 郡舩玉神社在二北花田宮邑一与二舩堂村一共預二祭祀一 云々倭漢三才図會七十四の巻摂津國住吉郡」34オ 住吉大明神摂社に舩玉在二本社之前坤隅一云 々 ○類聚国史十の巻〈神祇部下〉常祀に桓武天皇延暦十八 年五月丙辰前遣渤海使外従五位下内蔵宿祢賀 茂麻呂等言ヲ帰郷之日海中夜暗東西掣曳不レ識レ所 于レ時遠有二火光一尋二逐其光一忽到二嶋濱一訪レ之是隠岐國 智夫郡其處無レ有二人居一或云比奈麻治比賣神常有二 霊験一商賣之輩漂二宿海中一必掲二火光一頼レ之得レ全者不 レ可二勝數一神之祐助良可二嘉報一伏望奉預二奉幣例一許レ之云 々」34ウ 按に百九十三の巻殊俗部渤海上にも比事を 記せり神名帳に隠岐國知(チ)夫(ブリ)郡(ノ)比(ヒ)奈(ナ)麻(マ)治(チ)比(ヒ)賣(メノ) 命神社云々續日本後紀〈七の巻十二丁ウ〉承和五年 冬十月甲午奉レ授二隠岐國无位比奈麻治比賣神 従五位下一云々三代實録〈廿の巻六丁ウ〉に貞観十三年 八月廿九日授隠岐國従五位上比奈麻治比賣 神正五位下云々同書〈卅三の巻廿丁オ〉に元慶二年五 月十七日奉レ授二隠岐國正五位下比奈麻治比賣 命神正五位上云々和漢三才図會〈七十八の巻〉隠岐 部に離(タク)火(ヒ)権現在二海部郡島前一祭神比奈麻治比」35オ 賣神又名二大(オホ)日(ヒルメノ)霎(ムチ)貴(ト)一云々一曰此乃天照皇太神 之垂跡同一而於レ今海舶多免二漂災一者因二神火光一 冣不レ可レ疑云々諸国里人談三の巻に焚(タク)火(ヒ)隠岐 國の海中に夜火海上に顕ず是焼(タク)火(ヒ)権現の神 霊也比神は風波を謐(シツメ)給ふ也いつれの國まて も難風にあひたる舩夜中方角をわかたざる に比神に立願し神号を唱れは河上に神火現 じて難を遁るゝこと疑なし云々 ○土左日記に廿六日云々こぎくる道にたむけす る所ありかぢとりして幣(ヌサ)たいまつらするにぬ」35ウ さのひんがしへちれは舵取のも44うしたいまつ ることは比ぬさのちるかたにみふねすみやかに こがしめたまへと申て奉(タイマツ)るこれをきゝてある わらはのよめる〽わたつみのちぶりの神にたむ けするぬさの追風やまずふかなん貫之家集〈八の 離45別部〉にあひしれる人の物へゆくにぬさやると てよめる〽行けふもかへらむ時も玉ほこのちぶ りの神をいのれとぞ思ふ袖中抄〈十九の巻〉に顕昭云 ちぶりの神とは道(ミチ)ふりの神といふにや海路に もよめり云々隠岐國にこそ知夫利崎といふ所」36オ にわたすの宮という神はおはすなれ舟出すと ていその神に奉幣してわたりを祈とそ46申す それを本躰にて海をもくがをも道を祈る神を ばちぶりの神と名づけたるにや又その神を思 ひてかの所にもつけたるにや是はあまりの事 也云々 按に幣(ヌサ)は陸路の手向の神に手向るのみにも あらず海路にても幣奉ること万葉によめる 哥これかれ47見ゆ隠岐ちぶりの神は神名帳に 知(チ)夫(ブリ)郡由(ユ)良(ラ)比(ヒ)女(メ)神社元名和多須神續日本後」36ウ 記七〈十二丁ウ〉に承和五年冬十月甲午授二従五位下一 と見え和多須神といへるも河海を渡すよし なるべし神体は一宮記に須勢利媛命とす ○類聚名物考神祇部六に或書に正月元日船に松 錺して其神を祭ル船魂祭といふ船神は本朝に ては猿田彦命にて問船玉命と申とかや歌に幸 玉とよみて手向の神といふも是也唐にては嶋 耳神孟公孟説なとみな船神也又琉球にては天 妃菩薩を船魂也といふ常陸國水戸の中湊と云 所に比神を祭しつめ玉へり天妃山大権現と申」37オ 也云々 按に天妃の事顧炎部が郡國利病書四十の巻 河全國に清江浦天妃惧霊済宮云々同書四十 五論二儀真東関一之条ニ昔虞文靖公送祠天妃二 使者謂國家之東荏葦之澤濱海而南者廣褒相 乗淤沮可稲之何啻数千百里云々同四十七江蘓 揚州府水利条ニ姜家堰在塩城之西北舊有海 口自岡門鎮十八里至登瀛稿天妃廟下新洋港 入于海云々西湖志十五の巻祠宇ノ条〈四十四丁〉順 済聖妃廟〈在三第観測俗名天妃庿〉錢塘縣志即三仙閣址祀」37ウ 莆田林檢女霊衝夫人宋宣和中賜額曰順済 故仍其曰順済聖妃廟云々陔餘叢考卅五の巻 に江漢間撡レ舟者率奉二天妃一而海上尤甚張變東 西洋考云天妃莆之渭州嶼人五代晴閩都巡檢 林願之第六女生二普天福八年宋雍熈四年二月 二十九日化去後嘗衣朱衣往来海上里人虔祀 之宣和癸卯給事中路允廸使高麗中流遇風他 舟皆溺神獨集路舟得レ免還奏特賜廟號曰順済 紹興乙卯海寇至神駕風一掃而遁封昭應崇福 乾道已丑加封善利淳熈間加封霊恵慶元開禧」38オ 景定間累助順顕衛英烈協正集慶等號又夷堅 志興化軍海口林夫人廟霊異甚著今進為妃云 則在宋時已封為妃也元史祭祀志南海女神霊 慧夫人至元中以護海運有奇應加封天妃神號 積至十字廟曰霊慈祝文云年月日皇啻48遣某官 致祭于護国庇民廣済福恵明著天妃又續通考 云至元十五年封泉州神女護國明著霊慧協正 善慶顕濟天妃二十五年加封廣佑明著天妃七 修類藁亦謂至元中顕霊于海有海運萬戸馬合 法忽魯循等奏立廟號天妃順帝又加輔國護聖」38ウ 庇民廣濟福恵明著天妃是天妃之各自有元始 何喬遠閩書載妃生卒興張變同又謂生時即能 乗席渡海人呼為龍女昇化後名其墩曰聖墩立 祠祀之洪武五年又以護海運有功封孝順純正 孚濟感應聖妃則又有聖妃之稱七修類藁則云 封昭應徳正霊應孚濟聖妃通考永楽中建天妃 廟賜名宏仁普濟天妃宮有御製碑正月十五日 三月二十三日遣太常寺致祭故今江湖間倶稱 天妃天津之廟并稱天后宮相傳大海中當風浪 危急時號呼求救往々有紅燈或神鳥来輙得免」39オ 皆妃之霊也竊意神之功効如此豈林氏一女子 所能益水為陰類其象維女地媼配天則曰后水 陰次之則曰妃天妃之名即謂水神之本號可林 氏女之説不必泥也張学礼使球記49又云天妃姓 蔡閩海中梅花所人為父投海身死後封天妃則 又興張變何喬遠所記不同矣成化間給事中陳 詢奉命往日本至大洋風雨作50將覆舟有二紅燈 自天而下遂得泊于島若有人告曰吾輩為天妃所 所51遣也又嘉靖中給事中陳侃奉使封琉球遇風 將覆挙舩大呼天妃亦見火光燭舩々即少寧明」39ウ 日有粉蝶飛繞舟不去黄雀立柁樓食米頃刻風 起舟行如飛暁至閩午入淅之定海〈倶見七修類稿〉吾郷 陸廣霖進士云臺湾往来神跡尤著土人呼神為 媽祖倘遇風浪危急呼媽祖則神披(マヽ)52髪而来其効 立應若呼天妃則神必冠帔(マヽ)53而至恐稽54則刻55媽祖 云者蓋閩人在母家之稱也云々琅邪代醉編廿 九の巻〈廿二丁ウ〉56にも見え天后聖跡圖像に福建省 誌天后本傳なとを載画像を著せり元詩選三 の巻に貢師泰が興化湄州島祠二天妃一還詩また 洪希文が題二聖墩妃宮湄州嶼一詩あり」40オ ○與清曰舩霊は舩中守護の神にて一には天石楠 舩神也鳥石楠舩とも天鳥舩ともいひて伊弉冉 尊の所レ生也〈神代記上古事記上〉二には天照大神稚日女尊 事代王命也〈神功記古事記神功乃段〉三には住吉神にて神体 は表筒男中筒男底筒男三神に天照大神を加へ 又は神功皇后をも加て四所明神と申す〈古事記日本紀 神明57帳万葉集延喜式二十二社注式諸神記諸社根源記〉四には御舩神御名 は御蔭川神といふ〈太神宮儀式帳延喜太神宮式倭姫世記神名秘書類聚神底58 本源元々集〉五には知夫利(チブリ)神也由良姫神とも和多須(ワタス) 神とも申す須勢理媛命也〈土佐日記貫之集袖中抄神名帳續日本後紀」40ウ 一宮記〉六には浮舩神古名箕宿神也〈諸神記神社鎮座歳代考〉七 には舩の精神也軽野神能登舩霊の類をいふ〈神名 帳類聚国史〉此外漢神天妃佛説の守夜神水天宮また は豊玉媛命猿田彦大神金毘羅権現なとに祈請 して渡海安穏を得事也水天宮の事は覚禅抄に 見え金毘羅権現の事は余別に記せり此等の神 いつれも舩霊といふべし 第四標山月日山 ○續日本後紀二の巻〈天長十年十一月の条〉に戊辰御二豐楽院一 終日宴樂悠紀主基共立レ標其標悠紀則山上栽二梧」41オ 桐一両鳳集二其上一従二其樹中一起二五色雲一雲上縣二悠紀近 江四字一其上有二日像一日上有二半月像一其山前有二天老 及麟像一其後有二連理呉竹一主基則慶山之上栽二恒春 樹一々上泛二五色慶空一々上有レ霞々中掛二主基備中四 字一且其上有下西王母献二益池圖一及偸二王母仙桃一童子 鸞凰麒麟等像上其下鶴立矣云々 ○栄花物語きなはわびしとなげく女房の巻〈印本卅三 の巻十七頁〉に大じやうゑれいの月日の山ひきあや しみものまて青摺に赤紐なまめかしうて云々 ○同根合の巻〈印本卅六の巻卅四頁〉に三月十よ日に四条宮」41ウ に渡らせ給ひぬ狭くあつかはしき心ちす北對 をめんだうあけて西には中宮そなたのらうか けておはしますひんがしには皇后宮おはしま すすまひ(相撲)なども清涼殿にて中宮は御らんずぎ しきありさまさるかたに見所有はだかなるす がたどものなみたちたるぞうとましかりける 御まへにつゝ(土俵)み(撥)かきて月日山59などありけり女 房たれにか〽波のうへ池のつゝみはたかくとも 月日にいかでちかくなるらむとよみけり云々 ○人車記仁安三年九月一日の条に内蔵権頭長光」42オ 朝臣献二大嘗會悠紀方奉文一通一 勘申悠紀方標山并御挿頭花等本文事 標山 崑崙山上○○○○○○○○ 挿頭花」 芝草壮榮○○○○○○○○ 洲濱 瀛洲在二東海之東○○○○○ 仁安三年八月廿七日正四位下行内蔵頭藤原 朝臣長光」41ウ ○類聚国史〈巻第八神祇部八〉大嘗會部に淳和天皇弘仁十 四年十一月癸亥以二宮内省一為二悠紀所一以二中務省一為二 主基所一作二借家一用之但齊場依レ例定二北野一一切不レ用二 玩好金銀刻鏤等之飾一唯標者以レ榊造レ之用二橘并木60 等一飾レ之即書二悠紀主基字一以著二樹末一凡以二清素一供二神 態一耳云々 ○貞觀儀式〈巻第二〉践祚大嘗祭儀上に立二標四角一〈立二賢木一著二 木綿一〉方州八丈為レ限即令ム下二山城國葛野愛宕両郡司一守上レ 之云々江家次第〈十五の巻十四頁〉大嘗會の条に顕陽承 光両堂第一間移二立國標一云々」43オ ○中右記寛治元年十一月十九日の条に今日破二却 北野齋場所云々午時許両國引二標山一国司等著二小 忌一行事弁同著レ之引二入朱雀門一立二會昌門一云々 ○同書嘉承三年十一月廿一日の条に乗二于私車一馳二 向二條朱雀大路一之處標山已引入了甚遺恨也但 丹波守敦宗朝臣歩之間供人濟々一家六位以下 著二布衣一相従見物車馬道路無レ隙近江丹波人夫相 挑引レ之間主基山引二懸見物車一三町元遅々歩云具 中二中将殿一入二朱雀門會昌門一廻二見標山一云々 ○明月記嘉禎元年十一月廿一日の条に雑人云悠」43ウ 紀標昇二朱雀門院一間日像随竜破損下人等有レ言不(本ノマヽ) 忠懈怠也61更非二朝家之恠異一歟云々 ○康治元年大嘗會記に大忌大将已下〈淺履〉入會昌 門東戸一経二悠紀標東一〈両標間欤悠紀標東欤先例未二見及一也今日経二悠紀標東一〉云 々 ○業資王記建暦元年十一月十三日の条に今日引二 標山於錦小路朱雀一玉蘂建暦元年十月十九日の 条に標引次第如レ例歟 ○同書建暦元年十一月二日の条に藤中納言来仰二 左府一云大嘗會両國標引二入南門一而寸法不レ叶治暦」44オ 例不二分明一若自築垣一可二引入一欤將又減二寸法一可レ引二入 南門一歟両条之間可二計申一者仰云大嘗宮〈中略〉又云 両國標事右大臣内大臣権大納言藤原卿権中納 言藤原卿等定申云被レ引二入築垣一之條一切不レ可レ然 元暦建久是レ築垣無實也今度何理今更撤二去之一治 暦雖レ無二所見一無二不審一自二南門一引入南門歟レ62標之寸法暗難レ 計能々被二尋問一可レ被レ引二入之一難レ入者可レ減二山寸法一欤 無二指式文一故也参議藤原朝臣定申詞大略同二人々一 欤但自二築垣路一可レ引欤元暦建久吉例也云々 ○伏見院御記正應元年十一月廿二日の条に両國」44ウ 引二標山一云々 ○正安三年大嘗會記に廿日標山御見物御幸父子 入二御點一云々廿日乙卯晴今日為二標山御見物一御幸 法皇上皇御同車網代庇御車御車副白張〈平礼〉云 々諸卿参入之路悠紀標東歟両標間欤標山之東 西不レ同也豐楽院儀東階當二標山西一八省儀東階當二 標山東一當時官廳之東階同二豐楽院儀一然者経二標山 西一之條有二使宜一然而経レ東其例多只可レ依二上首進退一 欤 ○永和元年大嘗會假名記に資康朝臣仲光朝臣左」45オ 右の行事にて標山に供奉す小忌なから別に召 ありて殿上にてくはゝる其外実宣朝臣標山の 国司○にて同しく小忌を著す云々又云早旦 に標山を朱雀の大路より引国司とも供奉す標 は官の廳の門の左右に立る也云々又云悠紀主 基の御屏風標山以下の本文は文章博士秀長朝 臣大学頭為綱朝臣勧進す云々 ○康冨記永享二年十一月十八日の條に是日大嘗 祭也午剋許両國標山自二齋場處一令レ引レ四條一〈先々到二七条一而 永徳應永近例如レ此〉悠紀近江國標経二東大宮一主基丹波標二」45ウ 西大宮一両方供奉人史以上東大宮南行大略乗車 又或乗輿最略也両方史生官掌等乗馬輩皆西大 宮南行於二四条朱雀一行事史以下下二乗物一相二従両標一 朱雀北行國司等猶乗物路次不使之故欤到二三条一 下レ車于レ茲上下整二行列一所々預不レ供二奉之一云々未刻 標山會昌門前引二留之一室町殿摂政殿下〈各御衣冠〉於二南 門下一有二御見物一其南方官務居二床子一見二行列一云々標 山引人夫二百人両國守護召進云々標山供奉人 皆用二小忌一云々 ○伊呂波字類抄二の巻部雑物門に標山ヘウノヤ」46オ マ大嘗會之時引レ之云々 ○63代始和抄に標山といふは大嘗宮の前に両国の 国司列立すへき所のしるしの木に大なる山を つくりさま〳〵の作物を錺て是を引立る事あ り此作物は本文の心を用ぬ云々 ○與清按に右の説ともに据(ヨ)れば月日の山は標(ヘウ)の 山の事にて上に日月の像を懸たればさいふな りけり崑崘山上云々の句を東方朔が海内十州 記〈正説部巻第六十六載レ之〉に崑崙在二西海成地北海亥地一去レ岸 十三万里山高二平地一三万六千里出二日月之上一有二九」46ウ 層一毎層相去万里形如二偃益一下狭上廣と見えて日 月によしあり山海経大荒西経に大荒之中有レ山 名曰二日月山樞也呉姫天門日月所レ入云々標は もと郡臣儀式の庭上に列立の時将棊の駒形の 杭を池に打立たるをいふ今には版ありて標の 名見えす貞觀儀式の比より坐處には版(ヘン)を置立 処には標(ヘウ)を立しにや然(サ)て古の標(ヘウ)にまねびて悠紀 主基両国列立処の目(メ)標(ジルシ)をことごとしく賢木 をかざり或は山形に作りなどして標の山とよ びその風流をめでゝ物見る人のために事はて」47オ ゝ後引ありくなるは今の世の神祭り64出車とい ふものにひとしこは大嘗會のみに65限らず相撲 節などにもさるさまのものつくりて列立処の 目(メ)標(ジルシ)にしたりけん内裏式〈七月七日相撲式の条〉に 可レ立二標之験一と見えたるはよしありげ也 第五豐受宮内宮外宮 ○古事記〈上巻〉に伊邪那美命生(ウミマス)二火(ヒ)之(ノ)夜(ヤ)藝(ギ)速(ハヤ)男(ヲノ)神一亦名 謂(ヲマシ)二火(ヒ)之(ノ)炫(カヾ)毘(ビ)古(コ)神一亦名謂二火(ヒ)之(ノ)迦(カ)具(グ)土(ツチノ)神一因(ヨリ)レ生(ウミマス)二此子(ミコヲ)一 美(ミ)蕃(ホ)登(ト)見(ミ)レ炙(ヤカ)而(テ)病(ヤミ)臥(コヤ)在(セリ)云々於(ユ)レ尿(マリニ)成(ナリマセル)神名(ミナハ)弥(ミ)都(ツ)波(ハ)能(ノ) 賣(メ)神次和(ワ)久(ク)産(ム)巢(ス)日(ビノ)神此神之子(ミネヲ)謂二豊(トヨ)宇(ウ)氣(ケ)毘(ビ)賣(メ)神一」47ウ 云々建(タケ)御(ミ)雷(カヅチノ)神返(カヘリ)参(マヰ)上(ノボリテ)復(マラ)下奏(シ)言(ヒキ)向(コトムケ)二-和(ヤハ)-平(シヌル)葦原中國一之 状(サマヲ)上爾(コヽニ)天(アマ)照(テラス)大(オホ)御(ミ)神(カミ)高(タカ)木(ギ)神様〈高(タカ)御(ミ)産(ム)巢(ス)日(ビノ)神の別(コト)名(ミナ)也〉之命(ミコト)以(モチテ)詔(ノリ玉ハク)二太(ヒツギ) 子(ミコ)正(マサ)勝(カ)吾(ア)勝(カツ)々(カチ)速(ハヤ)日(ビ)天(アメノ)忍(オシ)穂(ホシ)耳(ミヽノ)命一今(イマ)平(コトムケ)二訖(ツヘヌ)葦原中國一 之-白(マヲス)故随(マニ〳〵)言(コト)依(ヨサシ)賜(タマヘル)一降(クダリ)坐(マシ)而(テ)知(シロシメセト)看(ノリ玉ヒキ)爾(コヽニ)其太子正勝吾勝 々速日天忍穂耳命答(マヲシ)白(玉ハク)僕(アレ)者(ハ)将(クダリ)レ降(ナン)装(コソ)束(ヒセシ)之間(ホド)子(ミコ)生(アレ) 出(マシツ)名(ミナハ)天(アメ)迩(ニ)岐(ギ)志(シ)國(クニ)迩(ニ)岐(ギ)志(シ)天(アマ)津(ツ)日(ヒ)高(ダカ)子(ヒ)番(ホ)能(ノ)迩(ニ)々(ヽ) 藝(ギノ)命此子應(ベシト)レ降也此御子者(ハ)御(ミアヒ)二合(マシテ)高木神之萬(ヨロヅ)幡(ハタ) 豊(トヨ)秋(アキ)津(ヅ)師(シ)比(ヒ)賣(メノ)命一生子天火(ホ)明(アカリノ)命次日(ヒ)子(コ)番(ホ)能(ノ)迩(ニ)々(ヽ) 藝(キノ)命也是以随(マニ〳〵)二白(マヲシ)之(玉フ)一科(オホ)二-詔(セテ)日子番能迩(ニ)々(ヽ)藝(キノ)命一此豊 葦原水穂國者汝(ミマシ)將(シラ)レ知(サン)國言(コヽ)依(ヨサシ)賜(タマフ)故随(マニ〳〵)命(ミコト)以(アモリ)可(マス)二天(ベシトノ)降一」48オ 爾(コヽニ)日子番能迩々藝命将二天降之時云々於(ニ)是(コヽ)副(ソヘ)二賜(タマヒ) 其遠(ヲ)岐(キ)八(ヤ)尺(サカノ)勾(マガ)璁(タマ)鏡(カヾミ)及(マタ)草(クサ)那(ナ)藝(ギノ)剱亦常(トコ)世(ヨノ)思(オモヒ)金(カネ)神手(タ) 力(ヂカラ)男(ヲ)神天(アメノ)岩(イハ)門(ト)別(ワケ)神一而詔(イノリ給ヘ)者(ラクハ)此(コレ)之(ノ)鏡者(ハ)専(モハラ)為二我(アガ)御(ミ)魂(タマ)一 而如レ拝(イツクガ)二吾前一伊(イ)都(ツ)岐(キ)奉次思金神者取二持前(ミマヘ)事一為(マヲシ玉ヘト)レ政(イリ玉ヒキ) 此二柱神者(ハ)拝(イツキ)二祭(マツル)佐(サ)久(ク)々(ヽ)斯(シ)侶(ロ)伊(イ)須(ス)受(ズ)能(ノ)宮一次登(ト)由(ヨ) 宇(ウ)氣(ケ)神此(コヽ)者(ハ)坐(マス)二外(トツ)宮(ミヤ)之(ノ)度(ワタラヘ)相(ニ)一神(カミ)者(ナリ)也云々延暦廿三 年等由氣(トユケ)太神宮儀式帳に今称二度(ワタラ)會宮一在二度會郡 沼水(ヌキノ)郷山田原村一云々天照坐皇太神始(ハジメ)巻(マキ)向(ムクノ)玉(タマ)城(キノ) 宮御宇天皇御世國(クニ)々(〳〵)處(トコロ)々(〴〵)大(オホ)宮(ミヤ)處(ドコロ)求(マギ)賜(タマフ)時(トキ)度(ワタラ)會(ヘ)乃(ノ) 宇(ウ)治(ヂ)乃(ノ)伊(イ)須(ス)々(ヾ)乃(ノ)河上(カハラ)乃(ノ)大(オホ)宮(ミヤニ)供(ツカヘ)奉(マツル)爾(ソノ)時(トキ)大(オホ)長(ハツ)谷(セノ)天」48ウ 皇御(ミ)夢(イメ)尓(ニ)誨(サトシ)覚(ヲシヘ)賜(タマハ)久(ク)吾(アレ)高天原坐(マシ)弖(テ)見(ミ)志(シ)真(マ)岐(ギ)賜(タマヒ)志(シ) 處尓(ニ)志(シ)都(ヅ)真(マ)利(リ)坐(マシ)奴(ヌ)然(シカレトモ)吾(アレ)一(ヒト)所(トコロ)耳(ノミ)坐(マセ)波(バ)甚(イト)苦(クルシク)加(シカノミ)以(ナラズ) 大(オホ)御(ミ)饌(ケ)毛(モ)安(ヤスク)不(キコ)聞(シ)食(メサズ)坐(マスガ)故(ユヱ)尓(ニ)丹(タニ)波(バ)國比治乃真(マ)奈(ナ)井(ヰ)尓(ニ) 坐(マス)我(アガ)御(ミ)饌(ケ)都(ツ)神等(ト)由(ユ)氣(ケ)大(オホ)神(カミ)乎(ヲ)我(アガ)許(リ)欲(モガ)止(ト)誨(ヲシヘ)覚(サトシ)奉(マツリ)支(キ) 爾(ソノ)時(トキ)天皇驚(オドロ)悟(キ)賜(タマヒ)弖(テ)即(ヤガテ)従二丹波國一令(シメ)二行(イデ)幸(マサ)一弖(テ)度會乃(ノ) 山田原乃(ノ)下石根尓(ニ)宮柱太(フト)知(シリ)立(タテ)高天原尓(ニ)比(ヒ)疑(ギ)高(タカ) 知(シリ)弖(テ)宮(ミヤ)定齋仕(マ)奉(ツリ)始支(キ)是以御(ミ)饌(ケ)殿(ドノ)造奉弖(テ)天照坐 皇太神乃(ノ)朝(アシタ)乃(ノ)大(オホ)御(ミ)饌(ケ)夕大御饌乎(ヲ)日(ヒ)別(ゴトニ)供奉云々 丹後國風土記に丹後國丹(タニ)波(ハ)郡々(グウ)家(ケ)西北隅方有二 比(ヒ)沼(ヌノ)里一此里比沼山頂(イタヾキニ)有レ井其名曰二麻(マ)奈(ナ)井(ヰ)一今既成レ」49オ 沼此井天女八人降(アマクダリ)来(テ)浴(ミヅア)レ水(ミス)于(ニ)レ時有二老夫婦一其名曰二 和(ワ)奈(ナ)佐(サ)老(オキ)夫(ナ)和(ワ)奈(ナ)佐(サ)老(オム)婦(ナ)一此老等至二此井一竊取二藏(カクス)天 女一人衣裳一即有二衣裳一者(ハ)皆天(ソラニ)飛上但尤二衣装一女(ト)娘(メ) 一人(トリ)留(トヾマリ)身隠(カクレテ)レ水(ミヅニ)而獨(ヒトリ)懐(ハヂ)愢(オモヒテ)居(ヲリヌ)爰(コヽニ)老(オキ)夫(ナ)謂二天女一曰吾无レ 児請天(アマツ)女(ヲ)娘(トメ)汝(イマシ)為(ナレ)レ児天女答曰妾獨留二人間一何敢不レ 従云々老夫増發(オコシテ)瞋(イカリ)願(オモフ)レ去(サラシメシ)天女流レ涙撤(ヤウヤク)退二門(カド)外(ノミニ)一云々 復(マタ)至二竹(タカ)野(ノ)郡舩(フナ)木(キ)里奈(ナ)具(グノ)村(ムラ)一即謂二村(ムラ)人(ビト)等(ラ)一云此処我 心奈(ナ)具(グ)志(シ)之(ヽ)〈古事平善者云二奈具志一〉乃留(トヾ)二居(マル)此村一斯所謂竹野 郡奈具社坐豐(トヨ)宇(ウ)賀(カ)能(ノ)賣(ヒメ)命也云々〈元々集七の巻古事記裏書塵 添壒嚢抄四の巻なとに引用し倭姫世記神鎮座傳記廿二社注式廿二社本縁類聚神底本源書神」49ウ 記諸社根元記の類にも此文を取れる所あり〉皇字沙汰文〈上巻〉延喜十四 年正月解に丹波國興佐小(ヲ)峴(グキノ)此沼魚(マナ)井(ヰ)坐道主王 子八(ヤ)乎(ヲ)止(ト)女(メ)乃(ノ)齋(イツキ)奉(マツル)御(ミ)饌(ケ)都(ツ)神(カミノ)止(ト)由(ユ)居(ケノ)太神云々又 皇大神朝御饌夕御饌供奉本記に丹波國与(ヨ)佐(サ)乃(ノ) 比(ヒ)沼(ヌ)乃(ノ)魚(マナ)井(ヰニ)坐(マス)道(ミチノ)主(ウシノ)王子八(ヤ)乎(ヲ)止(ト)女(メ)乃(ノ)齋(イツキ)奉(マツル)御饌都 神止(ト)由(ユ)居(ケ)乃(ノ)神云々此外正(タヾシ)き古書の説みな天照 太神の御(ミ)饌(ケツ)神にて朝(アシタ)夕(ユウベ)の神(カン)饌(ミケ)奉る豐(トヨ)宇(ウ)賀(カ)能(ノ)賣(メノ) 命也神楽歌にも阿(ア)女(メ)仁(ニ)末(マ)須(ス)止(ト)与(ヨ)遠(ヲ)加(カ)比(ヒ)女(メ)乃(ノ)美(ミ) 也(ヤ)乃(ノ)美(ミ)天(テ)久(グ)良(ラ)なとよみてやんごとなき大神には おはしませど天照太神に仕奉給ふ神なることは」50オ 疑(ウツ)なし然(サ)るを神道五部の書をはじめ外宮を引 たる書どもにさま〴〵にいひまげ剰(アマサヘ)本居宣長 が古事記傳〈十五の巻〉にも中〳〵に天照太神此神に 御(ミ)饌(ケ)奉(タテマツ)り仕(ツカ)へたまふよし牽(シヒ)強(ゴト)してなほ外宮に 諂(ヘツラヘ)るは学者のしわざにあらず豊(トヨ)受(ウケ)を止(ト)与(ヨ)宇(ウ)気(ケ) 豊宇氣なども書き与(ヨ)宇(ウ)を切(ツヾメテ)て止(ト)由(ユ)氣(ケ)とも宇(ウ)を 通(カヨ)はして止(ト)与(ヨ)遠(ヲ)加(カ)ともいふ豊(トヨ)は大にて美祢也 宇(ウ)氣(ケ)は宇(ウ)賀(カ)とも省(ハブキ)て氣とのみもいへり私記〈釋日 本紀十六の巻〉に宇(ウ)氣(ケ)者(ハ)食之義也と見ゆ按に受(ウケ)の義に て食(クヒ)物(モノ)は腹中に受(ウケ)服(イル)る物なればいふみけつもの」50ウ も津(ツ)は助字にて御(ミ)受(ケ)津(ツ)物(モノ)の義也饌食などの字 をミケミケツミケツモノと訓(ヨメ)るにても知(シル)べし 食(クヒ)物(モノ)の久(ク)も受(ウケ)が本語にて比(ヒ)は久(ク)比(ヒ)久(ク)不(フ)久(ク)敝(ヘ)と 活(ハタ)用(ラク)添(ソヘ)言(コトバ)也久(ク)と計(ケ)は通音也また食(ヲス)といふは口 より受(ウケ)入(イ)る食をしかと胃中に納居心也すべて 和(ワ)為(ヰ)宇(ウ)恵(ヱ)呼(ヲ)の一行は居(スヱ)置(オク)意(コヽロ)ある語也然(サ)て豊受 宮を外宮といひ歌にも内外宮(ナイゲクウ)をうちとの宮とも よみて外宮(トツミヤ)の名はやく古事記〈已に引用せり〉にも出た れどそは内宮中の行幸(イデマシ)ある宮の事にて今の外 宮にあらず神名秘書に村上天皇御宇祭主公節」51オ 之時皇大神者奥座(マスカ)之故号二内宮一度會宮者外座之 故申二外宮一始出レ自二此時一也とあれば村上の御代よ り内宮外宮の称はおこれるなるべしと古事記 傳〈十五の巻〉にみゆ正(タヾシ)きものには西宮記に内宮外宮 と書たるをや始とせん三代實録〈五の巻〉に内宮と あるは誤にて古写本に同宮とあるをよしとす 宮号は殊に霊験ある皇祖神に奉る例なれと豊 受宮は天照太神御(オン)親(シタシミ)深く迎(ムカヘ)取(トリ)給へる御(ミ)饌(ケツ)神な れば宮号もとより論なし臣下の神には鹿嶋香 取の大有功の神の外はたえてきこえす伊勢の」51ウ 高宮は豊受宮の荒魂なれば皇祖神ならねど宮 号宣下ありけるなり 第六總社六所大明神一宮二宮三宮四宮五宮 六宮武蔵六所分配宮相模六所宮 ○武蔵國相模國共に總社六所明神あり吾妻鏡〈一の 巻治承四十六の条〉に武衛今夜至二于相模國府六所宮一於二 比所一被レ奉レ寄當國早河庄於筥根権現一云々また〈二の 巻寿永二七十一の条〉御臺所有二御産氣一為二御祈祷一被レ立二奉幣 御使於近江國宮社一云々武蔵六所宮〈葛西三郎〉云 々〈此外武蔵相模の六所宮の事吾妻鏡源平盛衰記等をはじめて所見おほし〉こを」52オ 六所分配宮ともいふは總社中に六所の神を分 配して祭れるゆゑ也馬揃草子に武蔵国とかや こふのろくしよぶんばいの宮のまへにてちや くたうつけて見給へは云々未来記草子に頼朝 主従七騎にて武蔵国へたち給ふこふのろくし よぶんばいにてはたをなびかせつゝく味方を まちたまふ云々と見え分配河原〈太平記十の巻梅松論上巻鎌 倉太草子下巻相州兵乱記一の巻〉といふも此社辺の河原なれ ば然唱(ヨベ)るを新安手簡に國分寺の背なれば分背 の義といへるはいと〳〵拙劣の説也六所の神」52ウ は神道集〈三の巻〉武蔵六所明神事の条に抑此六所 者一宮小野大明神申本地文殊也云々二宮小河 大明神申本地薬師如来是也三宮火河大明神申 本地観音也四宮ヲバ秩父大𦬇申本地毘沙門天 王也云々五宮金讃大明神申本地弥勒𦬇是六宮 椙山大明神申本地大聖不動明王是也云々私案 抄応永十九年初冬勧進沙門運祐請下殊蒙二十方且 越恩施一開二八軸妙経印板一施二入武州多西郡小河郷 二宮社頭一救二六趣群萌一幡中十方皆成妙益上状に抑當 社小河大明神者當國六所随一本地薬師之應跡」53オ 也また正長二年卯月権少僧都光運請下於二武州惣 社六所大明神御寶前一書二寫紺紙金泥大般若経一 部六百巻一奉二社頭施入一祈中天下安全万民快楽上志趣 發願文に一宮小野大明神者大聖文殊垂跡也云 々と見え小野大明神は神名式に多磨郡小野神 社云々三代実録〈四十六の巻〉に元慶八年七月十五日 授二武蔵国従五位上小野神正五位上一云々和名抄 〈六の巻〉に武蔵國多磨郡小野〈乎乃〉云々とあり今府中 より玉河を隔て西南方一里許に一宮村一宮大 明神とて本地文殊菩薩の社あるこれ也政治要」53ウ 略西宮記北山抄江次第年中行事秘抄拾芥抄の 類に八月廿日牽二武蔵小野御馬一よしみやこは一 宮村より南方一里餘に小野路とて山野多き里 ありそこにも小野大明神といふ古社ありて古 き金口66の銘あり〈相模國三浦郡浪間村梅宝院といへる曹洞宗の寺の洪鐘銘に 武州小山田保小野路村小野大明神とありこは戦国に奪ヒ行しものなるべし〉其間に関(セキ) 戸(ド)乞(コウ)田(ダ)貝(カイ)取(ドリ)などいふ村つゞきていづれも山野 の地なれば此わたりすべて小野郷内にて数も ありけん所なるべし二宮小河大明神は神名式 に多磨郡虎柏神社あり古冩本に虎泊に作れる」54オ もあれど共に男河を草書より誤れる也武蔵地 名に男の字を用ひしは男衾など例あり今布田 宿の東北方の佐津村なるよしもなき櫟社を虎 柏神社也といへるはえせものゝいひ出たる説 にてうけがたし男河神社は今摩川67の西の二宮 村にあり倭漢三才図會〈六十七の巻〉に社頭十五石と いへり火河大明神は式に足立郡氷川神社〈名神大月 次新嘗〉云々三代実録〈二の巻〉に貞観元年正月廿七日 授二武蔵國従五位下氷川神従五位上一云々又〈七の巻〉 貞観五年六月八日授二武蔵國従五位上氷川神正」54ウ 五位下一云々又〈十一の巻〉貞観七年十二月廿一日授二武 蔵國正五位下氷川神従四位下一云々又〈十六の巻〉貞觀 十一年十一月十九日授武蔵國従四位下氷川神 正四位下一云々又〈卅四の巻〉元慶二年十二月二日授二武 蔵國正四位下氷川神正四位上一云々一宮記に氷 川神社〈素戔鳥尊〉武蔵足立郡云々卜部兼倶神名帳頭 注に武蔵足立郡氷川社日本武東征之時勧二請素 戔鳥尊一云々慕京集に氷川の社寺納和哥すゝ められ侍りて残雪といふことをよめるおいらく の身をつみてこそ武蔵野の草にいつまで残」55オ るしら雪云々今大宮宿にありて倭漢三才圖會 〈六十七の巻〉に社領五百石といへり武蔵演路〈足立郡の部〉 には三百石當所を高鼻村と云と見ゆ神社圭田 録にも足立郡大宮領三百石あれば三才圖會は 誤れり高鼻は大宮宿の東につゝきたる村之秩 父大菩薩は式に秩父郡秩父神社云々三代実録 〈廿の巻〉に貞觀十三年十一月十日授二武蔵国正五位 上勲七等秩父神従四位下一云々又〈卅四の巻〉元慶二年 十二月二日授二武蔵國従四位上勲七等秩父神正 四位下一云々舊事記68〈三の巻〉天神本記に天下春命武」55ウ 蔵秩父國造寺祖云々又〈十の巻〉國造本紀に知々夫 國造端籬朝御世八意思全神十世孫知々夫命定二 賜國造一拝二祠大神一云々續日本紀〈四の巻〉に和銅元年 正月乙巳武蔵國秩父郡献二和銅一云々万葉集〈廿の巻〉 に助丁秩父郡大伴部少歳云々万葉集菅原孝標女の更 科日記歌にこしのひをきてにつけてもとめに きしちゝぶの山のつらきあづまぢ云々などみ え今秩父郡大宮妙見宮とて社領五十七石ある よし武蔵演露〈秩父郡の部〉圭田録などにいへり金讃 大明神は式に児玉郡金佐奈神社〈名神大〉云々三代」56オ 実録〈六の巻〉に貞観四年六月四日武蔵國正六位上 金佐奈神列二於官社一云々八月六日授二武蔵國正六 位上金佐奈神従五位下云々今児玉郡金鏁村に あり椙山大明神は式に都筑郡杦山神社云々續 日本後紀〈七の巻〉に承和五年二月庚戌武蔵國都筑 郡杦山神社預二之官幣一以霊験一也云々又〈十八の巻〉承和 十五年五月庚辰奉授武蔵國无位杉山名神従五 位下一云々今都筑郡八朔村に杦山大明神とてあ り八朔は和名抄〈六の巻〉に都筑郡針圻〈罸佐久〉とみえ ける郷也こゝに限らず郡内杉山明神の社おほ」56ウ かれど八影69なるを旧地とす一宮二宮などは國 司巡拝の次第にやされど一宮記には國中第一 の明神70氷川を一宮とし總社六所には小野文珠 𦬇を一宮とし氷川を三みやとすれば一宮なきが ごとし必竟は事とあるをり一宮二宮三宮など順 に其事に預り自余は甲乙なく一国に其事に預 れりと見ゆ總領總摂の義にはあらで總(フサネ) 合(アハスル)の意なるべしされば71六所分配宮ともいへる 也六所のみならず三所四所五所七所九所十一 所など配祀せる社おほかり國府鎮守の總社寺」57オ 内鎮守の総社のよし也私案抄〈正長二年光運か歌文〉に蓋 以謂之六所大明神之効験無レ非二盤若功力一司二掲諦 一部之惣接一奉號惣社一表二六百軸王之真文一称二六所 明神一云二法理一云二神徳一誰不二帰敬一乎云々から糸草子 にまんじゆ奉り武蔵の六所別當のものにて候 おやを名のり申まじ云々ともありて別當の仕 奉りし社なればもとは國分僧寺中の総社など にやありけん山槐記〈治承二年十一月十日の条〉に於常光院 惣社有八女田楽云々又〈治承三年十月二日の条〉蓮華王院惣 社祭云々又〈十一月十日夕条〉東山堂惣社上棟云々玉海〈大治」57ウ 三年十月三日の条〉に蓮華王之内總社祭云々又〈同四年正月一 日の条〉に寅刻自二方違所一帰来即改著二東帯一有二四方拝 事一寝殿南階儲二其座一四隅舉レ燈如レ例先向レ北跪唱二属 星名一七篇72云々次惣社向レ南已上自レ天至二太白一再拝 自レ陵至二惣社一両段再拝云々明月記〈天福元年七月七日の条〉に 川崎惣社祭云々百練抄73〈安元々年六月十六日の条〉に蓮華王 院惣社鎮座八幡已下廿一社云々又〈承久元年四月二日の条〉 法成寺總社云々又〈寛文二年八月廿二日の条〉法性寺成就宮 〈東福寺鎮守〉被三始行二祭禮一云々74帝王編年記〈後嵯峨院寛元々年三月 十五日の条〉に東福寺惣社遷宮也奉レ号二成就宮一云々倭」58オ 漢合運〈醍醐天皇延長三年の条〉に多武峰總社立云々75山家要 略記〈一の巻〉に二門相即集云故十禅師者諸神之總 社衆生五体也云々日吉社神道秘密記に惣社日 本国大小神祇鎮座御神体山王七社伊勢八幡春 日社〈并〉諸神勧二請之一云々諸社根元記に西惣社十 三社云々仙洞法住寺殿御鎮守号二蓮華王院惣社一 云々吾妻鏡〈九の巻四丁左〉平泉領寺76塔已下注文に鎮守 事中央惣社東方日吉白山両社南方祇園社王子 諸社西方北野天神金峰山北方今熊野稲荷等社 也委77以模二本社之儀一云々北条九代記〈七の巻〉に昔佛」58ウ 法コノ国に流(ツタ)ハリシヨリ國郡ニ祈願所ヲタテ 菩提所ヲツクリテ家々コレヲ崇敬ス云々一國 ニ惣社アリ神護寺ト号ス國司ノ祈願所トシテ 社領ヲ付ラル云々78などあるをおもふにかにか くに寺院鎮守のよし也79後には本義に乖(ソム)き總領 の勢ある社のやうに心得て80宣胤卿81〈永正七年十二月十二日 の条〉に近江國神崎郡小幡社可レ奉レ号二惣社大明神一と 見え82かしこの惣社こゝの惣社と自称しほこら ふ神社おほくなれるはかたはらいたきわざ也 類聚国志83豆波多總社長明四季物語〈四月の条〉賀茂總」59オ 社の説は古をしらざる未練者の偽作なれば取 にたらず〈和学弁四の巻に類聚国史残缺七十巻許なるを近頃京都の好事者傳撰して 全部二百巻にせるよしいへり〉相模國の總社六所宮はたおな じ義なるべし吾妻鏡〈十二の巻建久三八九の条〉に御臺所御 産氣相模國神社佛寺奉二神馬一被レ修二誦経一云々惣社 〈柳田〉一宮〈佐河大明神〉二宮〈河勾大明神〉三宮〈冠大 明神〉四宮〈前取大明神〉云々一宮巡詣記〈六の巻〉に五 月五日六所社に五社の神輿集惣社六所大明神 〈相州國府柳田といふ大磯と小田原の間〉一間84〈一宮大明神高座郡宮山といふ馬入川末一 里余別當薬王寺〉二宮〈二宮大明神川輪村といふ梅沢の後半里余〉三宮〈三宮大明神板」59ウ 戸といふ伊勢原の後十町余〉四宮〈四宮大明神大往郡一宮の川向別當鏡智院〉五宮〈八幡 大往郡八幡村云馬入渡の西岸〉云々倭漢三才図會〈六十七の巻相模国郡〉 に寒川社在二高座郡一宮村一社領百石別當真言安 樂寺二宮在二宮村一社領五十石三宮在二三宮村一社 領十三石六所明神在二嶋野一社領五十石信勝院云 々〈按倭漢三才図會国郡部は国華万葉集記に据て増補せる也されは一宮別當薬王寺を安楽院 として国宮八幡村を品川村とし六所明神国府村を嶋野と書る皆万葉集85の誤を襲たるなり〉 神社圭田録〈相模国部〉に高座郡一宮領百石別當薬王 寺愛甲郡二宮領五十石神主左門〈按愛甲郡は陶綾郡の誤りなれ どかゝる例いとおほしそは當時の神主別當な どがゆくりなく申せる詞のまゝに御寄附證文」60オ を得れば也神主には二見神太郎景敬とて余が門人なり左門は神太郎か先祖なるべし〉大住 郡白根郷三宮領十石別當能満寺〈按白根は三宮村より東南の 方にて伊勢原との間にあり〉陶綾郡六所明神領五十石別當真 勝寺大住郡八(ヤ)幡(ハタ)坐八幡領五十石別當光圓坊同 郡四宮領十五石別當鏡智院云々なとみえて總 社柳田六所明神は陶綾郡小磯の西国府新宿と て國府村の新田ありそこに御旅所の社あり本 社は北につゞきたる生沢村也別當真勝寺は小 磯の内中丸と云所にあるよし東遊行囊抄〈十四の上 巻〉に見ゆ一宮佐河大明神は佐牟川を省ていへ」60ウ る也四季に高座郡寒川神社〈名神大〉云々續日本後紀 〈十六の巻〉に承和十三年九月丙午奉レ授二相模国無位寒 河神従五位下一云々文徳實録〈六の巻〉に齋衡元年三 月戊戌加二相模国寒河神従四位下一云々三代實録 〈十六の巻〉に貞観十一年十一月十九日授二相模国従四 位下寒河神従四位上一云々又〈四十六の巻〉元慶八年九 月廿一日授二相模国従四位上寒河神正四位下一云 々一宮記に寒川神社〈八幡也〉相模高座郡云々和名 抄〈六の巻〉に高座郡寒川〈佐無加波〉云々など古書所見お ほし二宮は式に餘綾郡川勾神社とあり三宮は」61オ 大山の麓子安村の東に三宮村あり神(ガウ)戸(ド)白(シラ)根(ネ)日(ヒナ) 向(タ)なども近村なりこれ式の比(ヒ)々(ヾ)多(タノ)神社にや和 名抄大住郡郷名に日(ヒヾ)田(タ)あり日向は似かよひて きこゆ四宮は大住郡四宮村にあり平(ヒラ)塚(ツカ)八(ヤ)幡(ハタ)よ り田(タ)村(ムラ)厚(アツ)木(キ)などへ行(ユク)道の間(ホド)也式に大住郡前鳥(サキトリ) 神社和名抄に前(サキ)取(トリ)郷見えたるこれ也五宮は八(ハ) 幡(ハタ)村の八幡(ハチマン)也その辺松林しげりてはてをしら ず八(ヤ)幡(ハタ)山(ヤマ)といふ盗(ヌス)賊(ビト)のすみかとて土(サト)人(ビト)おそれ あへりそも〳〵武蔵の總社六所は式内の六社 を配祀しゝ相模の總社六所は式内の五社に式」61ウ 外の柳田を加て配礼せりと見ゆ相模のも國府 近辺にて國分寺中の總社なりけんもはかりが たし國分尼寺の跡は厚木の東相模川をへだて ゝ高座郡國分村にあり國府より四里許の所也 武蔵の國分尼寺も橘樹郡影向寺とて残れり府 中より四里許南方多麻川を隔たる所也かく國 分僧寺尼寺の処を別られたるも古代の遠慮也 河内志〈十四の巻志紀郡の部〉に總社式外在二國府村一古昔國 府必建レ社有レ事二于國内官社一則国司率二僚属一先修二典 禮於此一其儀猶二京師神祇官一然といひ和訓栞〈十三の巻」62オ 曽の部〉にも此説をむべなひげに書たれどいかゞ あらん 第七むさ上(カミ)むさ下(シモ)武蔵相模駿河佐(サ)泥(ネ)佐(サ)斯(シ) ○賀茂真渕説に相模武蔵もと一ツにて牟(ム)佐(サ)なるを 上下に分て牟(ム)佐(サ)上(カミ)牟(ム)佐(サ)下(シタ)と云その上は牟(ム)を略(ハブ) き下は毛を略ける也凡(スベ)て牟(ム)佐(サ)てふ地名國々に 多く又東の國々とは上総下総上野下野などの如 く上下に分例也とあるはうけがたきよし古事 記傳〈七の巻〉にいへり又〈廿七の巻景行の条〉佐(サ)泥(ネ)佐(サ)斯(シ)佐(サ)賀(カ)牟(ム) 能(ノ)哀(ヲ)怒(ヌ)の注に佐(サ)泥(ネ)佐(サ)斯(シ)は相模の枕詞とは聞ゆ」62ウ れどもいかなることゝも未レ考試に強(シヒ)ていはゞ佐 斯は國の名にて佐(サ)泥(ネ)は真(マ)と同(オナジ)く誉(ホメ)たる言(コト)なら んか即真字を佐(サ)泥(ネ)ともよみさねかづらなども 真(マ)かづらと云意の名と聞ゆ其(ソ)をさなかづらと も云は稲を伊那余を加那(カナ)と云格也又万葉〈十四〉に 萱(カヤ)を佐(サ)祢(ネ)加夜ともよめりされば佐(サ)斯(シ)てふ國を ほめて佐(サ)泥(ネ)佐(サ)斯(シ)とは云ならんさて佐(サ)斯(シ)を國の 名と云駿河相模武蔵の地を総(スベ)て本(モト)を佐(サ)斯(シ)の國 とぞ云けんを二ツに分ケて相模武蔵とはなれるな らん駿河は後に相模より分(ワケ)たるにて此記に倭(ヤマト)」63オ 建(タケノ)命至二相(サガ)武(ムノ)國一之時其國(クニノ)造(ヤツコ)詐(イツハリ)白(モヲサク)於(ニ)二此野中(ウチ)一有二大沼(ヌマ)一 住二是沼中(ナカニ)一之神甚(イト)道(チ)速(ハヤ)振(ブル)神也於レ是看(ミソナハシ)二行其神一入二坐(マス) 其野一尒(マヽニ)其国造火著(ツケス)レ野故知(シロシメシ)レ見レ欺(アザムカ)而解(トキ)二開(アケテ)其姨(ミヲバ)倭(ヤマト)比(ヒ) 賣(メノ)命之所(タマ)レ給(ヘル)嚢(ミフクロノ)口(クチ)一而見(ミタ)者(マヘバ)火(ヒ)打(ウチ)有二裏(ウナ)一於(ニ)レ是先(マヅ)以二其 御(ミ)刀(ハカシ)一苅(カリ)二撥(ハラヒ)草一以二其火打(ウチ)二出(イデ)火一著(ツケテ)二向(ムカヒ)火(ビヲ)而焼(ヤキ)退(ソゲテ)還(カヘリ) 出(イデ)皆(マシテ)切(キリ)二滅(ホロボシ)其國造等一即著(チツケテ)レ火焼(ヤキ玉ヒキ)故於(ニ)レ命謂二焼(ヤキ)遣(ヅト)一也云 々書記86には是(コ)歳(トシ)日(ヤ)本(マト)武(タケノ)尊初(イタリ)二至(マス)駿河一其処(クニノ)賊(アタドモ)陽(マネシテ)レ従(マツロヘル) レ之欺曰是野也麋(シ)鹿(ヽ)甚(イト)多(オホカリ)云々臨(イデマシテ)而應(カリシ)レ狩(玉ヘト)日本武尊 信(ウケテ)二其言一入二野中一而覓(マギ玉フニ)レ獣(シヽヲ)賊(アタドモ)有二殺レ王(コノミコヲ)之情一放(ツケテ)レ火焼(ヤキ)二其野一 王知レ被レ欺則以レ燧(ヒウチ)出レ火之向焼而得レ免王曰始被レ欺」63ウ 則悉焚二其賊衆一而滅レ之故號二其処曰二焼津(ヤキヅ)一とあり抑 此事書記87にはかく駿河とありて其跡の地名な ども駿河國に現しくて在(アル)を此紀に相(サガ)武としも あることは人の疑ふべきなれども古語拾遺に も倭武尊東征之年到二相模国一遇二野火一即以二此剱一薙レ 草得レ免更名二草薙剱一也〈帝王編年記にも此を相模國にての事とせり〉とみ えたり此は國の違へるにはあらずたゝ古と後 と名の変(カハ)れるのみにして実は一ツなり上代には 駿河國と云大名は無(ナク)して〈駿河と云はもと一郷の名にして駿河郡駿 河郷これなり然(サ)るを其郷名を取て郡名とし國の大名にもせるなり〉其國の地」64オ までかけて大(オホ)名(ナ)をば相(サガ)武(ム)と云て此倭建命の時 もいまだ駿河と云大名はなかりけん〈彼駿河風土記に御 間城入彦天皇三年割二伊豆國一而為二分国一と云へれども例のうけがたし〉故此記など は當(ソノ)時(カミ)のまゝの傳(ツタ)えにて相(サガ)武(ム)と記し書紀は後 に分(ワカ)れたる國名を以て記されたるもの也かく て其相模と云名は佐(サ)斯(シ)上(カミ)の斯(シ)を省き武蔵は身(ム) 佐(サ)斯(シ)の意なるべし古書どもに身刺と多く書(カケ)り 身(ム)とは中に主(ムネ)とある處に云屋(ヤ)の中に主(ムネ)とある 処を身屋(ムヤ)と云がごとし後に母屋(モヤ)と云は牟(ム)夜(ヤ)を訛(アヤマ) れる也されば武蔵は佐(サ)斯(シ)國の内に主(ムネ)とある真(マ)」64ウ 原(ハラ)の地なればかくは名づけつらん佐(サ)を濁るは 連便なりさて一國を二ツに分て名(ナヅク)る例或は前後 或は上下といふぞなべての例なれども又丹波 を分て丹波丹後といふは後(コ)に對(ムカ)へて丹前とは いはざれば此佐(サ)斯國を分(ワケ)たるも佐(サ)斯(シ)上(カミ)に對(ムカ)へ て佐(サシ)斯モ下とはいはざるも例あること也さて佐(サ)泥(ネ) 佐(サ)斯(シ)佐(サ)賀(ガ)牟(ム)とつゞけ云フは御(ミ)吉(ヨシ)野の吉野佐檜前 檜前など云例のごとし延佳云祐下斯上脱二泥字一 乎下巻軽皇子歌に佐(サ)泥(ネ)佐(サ)斯(シ)佐(サ)泥(ネ)弖婆(テバ)万葉集に左(サ) 宿(ネ)左(サ)寐(ネ)弖(テ)許(コ)曽(ソ)といるはわろし此(コヽ)はきね〳〵し」65オ と云ては末の句にかなはず又契沖云相模の枕 詞也未レ詳今按に旧事紀并ニ此記に武蔵を胸(ムナ)刺(サシ)と 書(カキ)たれは牟泥佐斯(ムネサシ)を略(ハブ)て牟佐斯(ムサシ)とは云なれ ば今は胸(ムナ)刺(サシ)の牟(ム)を略(ハブキ)て云へるにや武蔵相模は もと一ツにてあるべければかくはつゞけたるに や相模は武蔵より小(チヒサ)ければ狭(サ)胸(ムナ)刺(サシ)と云りとい へれど此記には武蔵は牟(ム)邪(ザ)志(シ)とこそ書たれ胸 刺とは書たることなし旧事紀にも牟(ム)邪(ザ)志(シ)と胸(ムナ)刺(ザシ) とは別に挙たりいかゞ又師云〈真淵説也〉佐(サ)は發語泥(ネ) は奴(ヌ)に通(カヨ)ひ奴(ヌ)と牟(ム)とは又通(カヨ)へば牟佐斯(ムサシ)也古武」65ウ 蔵と相模と一國にて分れぬ時にはかくもよむ べしといはれたるもいかゞ牟佐斯(ムサシ)を泥佐斯と いかでか云べき又或人相模國は小(チヒサ)き峰の多き 國なるによりて小峰(サネ)刺(サシ)の意也刺(サシ)は立なりと云 るもいかゞ又己(オノレ)も前(サキ)に思へるは佐(サ)は例の真(マ)の 意泥(ネ)は峰にて冨士山を真峰とほめ云佐斯は立 ならん駿河もと相模なれば冨士山を以て枕詞 とせるなるべしと思ひしもわろし相模てふ國 の名の義未レ考上に誠に云へる考によらば佐(サ)斯(シ) 上(ガミ)の斯を省(ハブ)ける也賀(ガ)と濁(ニゴ)るは連便也賀(カ)牟(ム)は上(カミ)」66オ の意なる故に佐(サ)賀(ガ)美(ミ)とも云にやあらん凡(スベ)て上(カミ) 神(カミ)などを加年と云は下に言の連(ツヾ)く時の事なれ ば此國の名も佐(サ)賀(ガ)牟(ム)と云はもと佐(サ)賀(ガ)牟(ム)の國佐(サ) 賀(ガ)牟(ム)の小(ヲ)野(ヌ)など連(ツヾケ)言(イフ)時の唱(トナヘ)にぞありけんやゝ 後の風土記に嵯(サ)峨(ガ)身(ミ)と云説を挙たれど信られ ず又或説に此國は足柄箱根より見下(オロ)す故に坂 見の意也といふもわろしといひたりき與清按 に武蔵相模もと一國ならんといふは相武国と あるに依てふとおもひ得たる説なるべし駿河 までも一國ならんといふは佐泥佐斯(サネサシ)の枕詞を」66ウ 解(トカ)んとて出(イデ)来(コ)し説也相模駿河一國ならんとい ふは紀記拾遺等を考合て證據正しき確説也名 義を解(トキ)たるはいと〳〵おぼつかなし相模は和 名抄に甲斐國都留郡相模郷ありこれ出処にや 陸奥色麻郡相模長門美祢郡作美播磨賀茂郡酒(サカ) 見(ミ)なども考合て説を立べし武蔵は豊後大分郡 武蔵同國岡崎郡武蔵結毦録〈中巻蛇ハミの条〉に信州武 蔵野など同名あり上総國武(ム)射(サ)もよしありけに きこゆ 此一巻後二蜷川越中州刺史君命一所二注進一也」67オ 第八羅生門金札 ○東寺什物に渡邊綱が羅生門の金札とてあるよ し世に其模本をもてはやせりされどいとゝうけ がたきものにてもとは羅生門謡曲又は前太年 記などによりて作り出たるものとみゆ其本の 書に云東寺之什物也曰二渡邊綱之金札一杦板 也厚二寸許也惣躰両朽而文字高板之裏中有二竪 柱之跡一上笠木少々残有且有二釘一本一従二天延二年一置二 寛保三〈癸〉亥年迄一七百七十年成也此年将軍 吉宗公88因二公尋一従二東寺長者軄安井門跡一下二武城一〈臣〉」67ウ 渋谷山城守良信冩レ之圖也可レ秘此図は誠文武之 徳而變化退治之勅験也於今是以有二轉魔之神 妙一也可レ懼敬白文字 勅誼 羅生門変化 為退治蒙此 札畢 天延二年 二月 摂津守源朝臣」68オ かくのごとくあり羅城門を羅生門と書たるも 誤なり又蒙二此札一といへることいかなる心にか金 札も禁札とこそいふべけれかた〴〵取用ツへも89 あらぬえせごとなり羅生門謡曲につはものゝ まじはりたのみある中の徳えん哉云々九条の 羅生門に鬼神のすんでかへるれば人のとほらぬ よしを申候云々いや保昌にたいしやしんはな けれとも一つは君の御ためなればしるしをた べと申けり実に綱が申ごとく一ツは君の御ため なればしるしをたてゝふるべしと札をとりい」68ウ でたまひければ綱はしるしを給はりて〳〵御 前をたつて出たる云々扨もわたなべの綱は只 かりそめの口論により鬼神のすがたを見ん為 に物のぐとつてかたにかけおなしけの甲の緒 をしめ重代の太刀をはきたけなる馬に打乗て 舎人をもつれず只一騎宿所を出て云々羅生門 の石だんにあがりしるしの札をとりいだしだ ん上にたておき帰らんとするにうしろより甲 のしころをつかんで引とめければすはや鬼神 と太刀ぬきもつてきらんとするに取たる甲の」69オ 緒をひきちぎつておほえずだんよりとびおりた りかくて鬼神はいかりをなして持たる甲をか つたとなげすて其たけこうもんの軒にひとし く両眼月日のごとくにて綱をにらんで立たりけ り綱はさわがず太刀さしかざし〳〵汝しらず や王位をおかす其天ばつはのがるまじとてか ゝりければ鉄杖をふりあげえいやとうつをと びちやうどきるきられてくみつくをはらふつ るぎにうで打おとされひるむと見えしがわき つぢにのぼりこくうをさしてあがりけるを云」69ウ 々前太平記には津の國渡邊の里より綱が伯母 のよしいつはり来てうてをとりもどせるよし附 會せり ○羅城門は天武記下巻八年十一月の条に仍難波 築二羅城一云々續日本紀十七の巻天平十九年六月 の条に巳未於二羅生門一雩(アマゴヒス)同書卅四の巻宝亀八年 四月戊戌の条に遣唐大使佐伯宿祢今毛人云々 到二羅生門一稱レ病而留云々三代実録三の巻貞觀元 年十月十五日の条に是日夜神祇官於二羅城門前一 修二祭事一為二大嘗會祭一故也云々同廿の巻貞観十三」70オ 年十月廿一日の条應天門火災之後修復既訖令ニム下 明経文章等博士議中應天門可二改名一缺又名二應天門一 其義何據又朱雀羅城等門名義如何上従五位上行 大学頭兼文章博士巨勢朝臣文雄議言云々称二羅 城門一者是周之國門唐之京城門西都謂二之明徳門一 東都謂二之定鼎門一今謂二之羅城門一其義未レ詳但大唐 六典注云自二大明宮一夾二東羅城復道一経二通化門磴道一 而入二興慶宮一為今榮二其文勢一蓋此羅列之意一乎云々 朱雀羅城之義経典為レ无レ見焉云々同卅七の巻仁 和元年四月廿六日の条に修二仁王會一云々羅城門」70ウ 東西寺合三十二所及云々90元亨釈書六の巻義空 傳に慧萼再入二支那一乞二蘇州開元寺沙門契元一勒レ事 刻二琬琰一題曰二日本國首傳禅宗記一附レ舶寄来故老傳 曰碑崎二91于羅城門側一門楹之倒也碑又砕見今在二東 寺講堂東南之隅一云々日本紀略嵯峨天皇弘仁七 年の条に八月已酉夜大風倒二羅生門一云々兵範記 仁安二年四月廿三日の条に御方違行二幸鳥羽殿一 云々路次自朱雀門大路一経二羅城門一云々小世継に 柏原の御門の御時に平の宮作らせ給ふあひだ 長岡の宮より時々行幸してあたらしくつくら」71オ るゝ都を御覧ずるにらいせい門のへんにて御 輿をとゝめてたくみをめして仰られけるやう いとよく門はたてたり但たけなん一尺きるべ き風はやき所にひとつ屋にて立たれは風のた めにあやふき也云々さてつくりはてゝ都うつ り近くなりてはじめのごとくらいせい門の前に 御輿をとめてたくみめして仰らるゝやう我は はじめあしくみて一尺きれと仰てけり一尺五 寸ぞきらすべかりけるいま五寸きるべし猶たか くみゆると仰られければたくみ俄にふしまろ」71ウ びおぢかんじ申やう此門のたけは一尺きれと 仰られしが仰のまゝに切てはむげにひきくま かり成なんと思ひさふらひて五寸をきりてさ ふらふ也それに合五寸と仰さふらへばはじめ 御覧しそこなひたるにはさぶらはず五寸かた 見て切さふらはずと申御門かしこく見てけり こぼちきらば宮こうつりの日近く来てえあは せじさらばせであるばかりたゞし風にや92とも すれば吹たふされんと仰事ありけり云々さて みやこうつりの後末の世に至るまで三度ばか」72オ り吹たふされたりければ御門の御覧じたる事 かなひにたりいみじうおはしましけり云々さ て〳〵圓融院の御時大風に又吹たふさきにけ り其後はつくりたる事なし云々伊呂波類抄五 の巻良の部に羅城門在二朱雀南極一今四塚是ナリ 云々拾芥抄中末巻宮城部に羅城門云々〈こゝに三代実 録廿の巻の引たれと中略す〉件事又梗概出二古賢勘草中一但殿 舎門名號多依二漢家之制一各被レ付缺委出両京雑記 等中一云々又宮城門羅城門〈二重閣九間〉在二朱雀大路南一 門云々また羅城外二丈〈垣基半三尺丈行七尺溝廣一丈東西南北如此〉云」72ウ 々山城名勝志五の巻に羅城門云々土人云今四 塚町東頬(ヅラ)民家後園礎石于レ今相殘云々草盧漫筆 に羅城門ハ昔時大内裏ノ時平安城外郭南面ノ 正面ニシテ朱雀通〈今千本通〉九條大路ニアリ今、((朱))塚93ノ 民家東方ノ奥ニ礎石ノコルトカヤ云々大内裏 考證一の下巻に圖ありてもとはから國により たる名也事物紀原六の巻京城の条に宗敏求東 京記曰周世宗顕徳二年四月詔京城四面別築二羅 城一云々94資治通鑑綱目五十一の巻に唐鑑咸通 三年十月高駢築二成都羅城一云々唐六典七の巻工」73オ 部尚書の條に自二大明宮一東夾二羅城複道一云々唐書 三の巻高宗本紀に五年十月癸卯築二京師羅郭一云 々隠杭州羅城記に余始以二郡之子城挾而且卑(ヒキヽ)一遂 与諸郡一聚議崇建二雉揲一後念二子城之謀未一レ足以為百 姓計由レ是鍑与二十三部一経二緯羅郭一云々95秉燭譚五の 巻に平城ノ96朱雀ノ末ニ羅城門アリ遺址今ニ存在 ス固ヨリ名タカキ事也然トモ羅城門ト名クル事 明ナラザルヨシ拾芥抄ニ出ツ畢竟羅城ト云フ ハ郭ト云事也羅城門ト云ハ郭門ト云事也平安 城ソノカミ盛ナル時四方ニ郭アリソノ南門也」73ウ 唐書に高宗ノ時築二京師羅郭一又通鑑唐懿宗紀ノ 注ニ羅城ハ外大城也子城内小城也亦朝鮮ノ雀 世珍ガ訓蒙字會云郭俗称二羅城一トコノ諸書ノ文 ニテソノ義明了也羅ハ周羅網羅ノ義ナルベシ 惣グルワノコトナリ云々などあるを考て羅城 とも羅郭とも通はしいひ城の外郭の名なること もしるべし羅は羅列羅拝などの字儀にてつら なりめぐるよし也さて羅城門の鬼の事は江談 抄五の巻詩語の条に氣霽風掃二新柳髪一氷消浪洗二 舊苔鬢一〈内宴春暖都良香〉故老傳云彼此騎馬人月夜遇二羅」74オ 城門一誦此句一楼上有レ聲曰阿波礼(アハレ)云々文之神妙自 感鬼神也云々〈十訓抄下の巻神道集九の巻東高絶東梅城録なとに比説を載て上 の句を都良香とし下の句を羅城門上よりわかれたる聲にて鬼物のつけたるよしいへり〉 舊本今昔物語廿九の巻第十八語に今は昔摂津 国邊ヨリ盗セムガタメニ京ニノホリケル男ノ 日ノイマダクレザリケレバ羅城門ノ下ニカク レテ立タリケルニ朱雀ノ方ニ人重(シゲ)ク行ケレバ 人ノシヅマルマテト思ヒテ門ノ下ニ待立テリ ケルニ山城ノ方ヨリ人共ノ數来タル哥ノシケ レバ其レニ不レ見ト思テ門ノ上層ニ和ラ掻キツ」74ウ キ登タリケルニ見レハ火髴ニ燃シタリ盗97アヤ シトオモヒテ連子(レンジ)ヨリ臨(ノゾ)キケレバ若キ女ノ死 テ臥タル有其枕上ニ火ヲ燃シテ年極ク老タル嫗 ノ白髪白キカ其死人ノ枕上ニ居テ死人ノ髪ヲ カナクリ抜キ取ル也ケリ盗人此レヲ見ルニ心 モ不レ得子ハ此レハ若シ鬼ニヤアラント思テオ ソロシケレトモ若シ死人ニテモソアル恐レヲ心ミ ムト思テ和ラ戸ヲ開テ刀ヲ抜テオノレハトイ ヒテ走リ寄ケレハ嫗手迷ヒヲシテ手ヲスリテ マヨヘハ盗人此ハ何ソノ嫗ノ此ハシ居タルゾ」75オ ト問ケレハ嫗己カ主ニテ御マシツル人ノ失給 ヘルヲ縁ノ人ノナケレハ此ニ置奉タル也其髪ノ 長(タケ)ニ余テ長ケレハ其ヲ抜取テ鬘ラセムトテ抜 ク也助ケ給ヘト云ケレハ盗人死人ノ着タル衣 ト嫗ノ着タル衣ト抜取テアル髪トヲ奪取テ下 走テ迯テ去ニケリ然テ其上ノ層ニハ死人ノ骸 ソ多カリケル死タル人ノ葬ナド否不為ヲハ此 門ノ上ニソ置ケル此事ハ其盗人ノ人ニ語ルヲ 聞継テ語傳タルト也云々など羅城門おそろし き所のよし世にいひさだせるより綱が鬼を斬」75ウ し事などかたりいでたるをやかて猿楽の謡曲 の詞に作りなしさて金札などの妄談にもおよ へるなり羅城門のゆゑよし笈埃随筆十の巻偽 説弁十の巻笠澤筆塵四の巻玉勝間十三の巻 雍州府志九の巻山州名跡志十八の巻京童二 の巻洛陽名所集十二の巻京羽二重織留一の巻 など所見いとおほく挙つくすべからす ○勅誼の誼の字心得がたしこは詔の字の言篇を おもひまがへてふと書たるものなるべし誼は 音暄与諼同詐忘譁器などの義あれど宣詔の意」76オ は字書にたえてなし是も文無人が妄作せる證 なり 右一巻依平戸静山老侯之命所撰進也 第九保元物語作者時代 ○参考保元物語凡例に保元物語世不レ知二何人所一レ 著醍醐報恩院所蔵旧記云葉室時長作大外記中 原師香所二手書一上二保元物語一状云故師梁所レ鈔師香 乃師梁子也云々尊卑分脉十四の巻閑院左大臣 冬嗣公七男高藤公の流に高藤七代孫大蔵卿為 房二男按察使権中納言顕隆卿葉室一流の祖也」76ウ 顕隆弟に因幡守長顕あり其子中山中納言顕時 二男修理大夫時光子に時長民部権少輔従四位 上書二平家物語一其一人也云々また顕時四男に刑 部少輔盛隆あり改二名時光一其子時長民部少輔正 五位下平家物語作者随一也云々盛隆改二時光一而 依二白河院々宣一帰二本名一畢云々かく両度に出せる は誤にて顕時の子時光時光の子時長なること 疑なし徒然草第二百廿六段には信濃前司行長 入道平家物語を作れるよし見ゆさて時長が叔 母は平大納言時忠卿室にて安徳天皇の御乳母」77オ 典侍なれば其時代押て知べしまた中原師梁は 系圖に掃部頭師蔭の三男師梁其子師香は師光 が兄掃部頭師干が養子にて大外記也時代は時 長よりもやゝ後輩缺管見記を考に同族ノ三条中 原大外記師顕は弘安年中の人也系圖に大外記 師尚の長子師綱より師季師光師宗師蔭師梁と 續(ツヾキ)て四代なり此等をおもふに時長師梁時代不同 なれど共に平家の世より已下鎌倉の中比已上 の間の人なり」77ウ 右依二前壹州大守静山君之命一所二考注一也 第十古冩経帙簀 ○佛説菩薩内習六波羅経一巻紺紙金字奥書云 忠尊之分覺厳云々帙簀當時之物裹紙亦古文書 也 ○大明三藏聖教目録巻第一單譯経部云菩薩内習 六波羅蜜経後漢清信士臨厳佛調譯云々 ○忠尊二中歴第四竪義者條云忠尊〈卅四〉云々按 治暦承保永暦などの人の中に並べ載たれば覺 厳と格別の前後あらぬ竪義者なるべし」78オ ○覺厳二中歴第四云三會講師毎年十月興福寺 維摩會屈二請諸宗学徒優長果二五階一者上為二講師一明年 正月大極殿御齋會三月薬師寺冣勝會等講師経二 此三會一者依僧綱一云々覺厳〈花東五十一〉云々按ニ花ハ 華嚴也東ハ東大寺也五十一ハ覺厳か齢也天永 と天治元との間に載て其間十二三年なれば其 比齢五十一にて三會の講師にすゝみし人なり ○又云竪義者興福寺〈方廣法華會慈恩會研学〉延暦寺〈廣学〉園 城寺〈碩学〉法成寺〈勧学〉已上勘物也覺厳〈卅〉云々 按に承徳元年の次永長元年の前に載て其間六」78ウ 年なれば承徳康和の比歳卅にて竪義者なりし 也 ○又云天台宗三會延久四年圓宗寺始置二法華冣勝 會一永暦元年十月法勝寺始置二大乗會一為二三會一覺 厳〈康和元〉已上の文を考合するに覺厳は始天 台宗にて後は東大寺華厳宗の僧也堀河院鳥羽 院の御宇にて今に至ては七百四十年許昔の人 也 ○帙簀倭名抄文書具部に四聲字苑云帙直質反 字亦作レ裹レ書也兼名苑云一名書衣云々空」79オ 穂物語蔵開の上巻に云ふみどもうるはしきぢ すにつゝみて唐組(カラクミ)の紐してゆひ机につみつゝ あり云々源氏物語榊の巻云御経よりはしめ玉 の軸羅のへうしぢすのかざりもよになきさま にとゝのへさせたまへり云々同若菜の上巻云 ほとけ経ばこぢすのとゝのへることの極楽ぞお もひやらるゝ云々細流抄云竹を簀(ス)にあみたる ふまき経をつゝむ物也云々河海抄云帙簀文巻(フミマキ) 也帙簀とは巻物のたけなるすのおもてに錦を おしてへりをさして九異の緒をつけたるや経」79ウ にかぎらず書籍等をも納物也云々源注拾遺云 ぢす今按日本紀に黄巻をフムマキとよめり帙 の事也されど経には帙といひなれてふんまき とはいはず法隆寺の宝物を拝ける中にも此帙 簀いとふるくまぎれなき古代の物と見えたる につゝめる経侍りき云々〈按に日本紀の黄巻は帙簀の事にはあらず 書巻の義也契沖が説ひかこと也〉仙源抄云ぢすのさま帙簀也竹 にてすを作て錦などにてへりをおし面にもつ けてをゝつくる也経にかきらず書籍にも用レ之 也云々一葉抄云ぢすのかざり竹をあみて経を」80オ つゝむ也云々〈此外源氏物語の注釈共に見えたるは挙尽すべからず〉藻塩 草巻十七云ぢすのかざり帙簀巻物の上をつゝ む物也竹をわりてあみたる物也又云経を つゝむ物云々阿弥陀院宝物記に帙二枚雑綵云々安 齋随筆麻久奈岐の巻云貞丈曰帙子と帙簀と異 也二ともに書を包む物也漢土より来る書の帙 子は紙を厚く糊して重ねて心(シン)にしたる也表も 紙或は羅絹なとを用る也此方の帙簀は簾を心(シン) にして表を錦綾にて包む也云々倭訓栞十五の 巻知部にぢす源氏に見ゆ帙簀の義物の本など」80ウ 包むもの也竹にて編(アミ)て錦などの縁をとり或は 金襴などを裡(ウラ)にし緒(ヲ)を用たる也といへり一説 に帙子なるべしといへり云々南嶺遺稿四の巻 に書物の帙古来は竹にて編(アム)ものにて竹を随分 細くしてこしらへたり源氏物語に竹帙と有是 にて書物を巻(マキ)て置也その拵(コシラヘ)様(ヤウ)しれざる所に摂 州川辺郡中山寺の西に清隆寺といふ寺土俗に 荒神山といふ先年井を掘とて一ツの銀の箱を出 す銀の四角の箱にて中に法華経十巻開巻諾巻 といふ物入て十巻有入道前太政大臣平朝臣清」81オ 盛書と奥書有此十巻を細き竹を金の針金にて 編たる帙に入て有裏には錦を張てありたる体 なれども朽て見えず源氏物語の竹帙は是欤云々 類聚名物考調度部七にぢつ又云ぢす〈竹帙〉書 巻〈ふまき〉帙和名ふまきといふは書巻の意也書 のそこねもめぬために是にて巻おく也今唐本 または本朝にても厚紙にて作るは略也もとは 細き竹の簀也御簀のやうにあみて裏に絹錦等 を付て緒を付たる物也大原の来迎院に古代の 竹簀有また小野御縁起新調をつゝまれし帙は」81ウ 近代の御寄附の物にて裏は錦子の緒付て金物 にてしめたる物也尤大和錦也その製様或は別 に作りて置ぬ是古代の文巻也ちすといふは竹(チク) 簀の略語也後に南嶺遺稿を見れはめつらしけ に比事を出せりうたかふへくもなき事也それ は針金にてあみしは土中へうつむ■98経ゆゑの 事也つねは糸にてあむ也云々好古録下巻云羣 砕録云書曰レ帙者古人書巻外必首帙蔵之如二今裹 袱之類一白楽天嘗以二文集一留二廬山草堂一屢凶送宗真 宗令二崇文院写校一包以二斑竹帙一送レ寺余嘗于二項子京」82オ 家一見二王右丞書畫一巻一他外以二斑竹帙一裹レ之云是宗物 帙如二細簾一其内襲以二薄繪一觀二帙字巾旁一可レ想也〈按香祖筆 記引レ之艸堂作二東林寺項子京家作二秀水項氏一〉此間數百年ノ竹帙存ス ル者アリ俗ニ帙簀ト云内襲或ハ錦繍或纐纈ヲ 用フ美麗眼ヲヨロバシム古昔佛経ヲ尊ビ数千 巻トイヘドモ皆竹帙ヲ用テ此ヲ藏ム又竹帙皆 牙籤ヲ用フ今存スル者少シ東寺校倉(アゼクラ)中ニ希ニ 存スル者アリ云々言鯖録上巻に書曰レ帙古人書 巻外又有レ帙藏レ之音帙如二今裹袱之類一以二細斑竹為レ 之帙如二細簾一襲以二薄繪古人書画類多二班竹帙一今大」82ウ 内藏二晋唐真蹟一多用レ之云々〈按裹袱は今の唐本の帙をいへる也〉 ○包紙の反古當時の物古色愛すべし文中に今日 一切経衣服事○人夫役○大夫法眼上役之時人 夫二人○右京○弁法眼分○弁得業○如用人夫 ○大師尺者是有二尺中不正義也などいへる語 見えたり 右古写佛経及帙簀考者文政四年九月廿三日所レ 納二於武蔵秩父三峰山寺也一寺之前住日俊僧正相 識之故有此事一矣 第十一掃墨」83オ ○和名抄膠漆具部に掃墨功程式掃墨一斗合二酒 二升膠二両一和名波伊(ハイ)須美(スミ)云々 按膠二両とあるは廿両の誤にやハイズミハ ハキズミ99の音便にて松烟を掃(ハキ)集(アツ)めたるまゝ の墨のよしなるべし練(ネリ)堅(カタメ)し墨(スミ)に對(ムカヘ)し名也 ○延喜大神宮式に鵄尾琴一面惣所レ湏(モチフル)云々掃墨二 升云々 按鵄尾琴を造るにも掃墨を用し事知べし延 暦儀式帳にも見ゆ ○同内匠式に手(テ)湯(ユ)戸(ベ)一口(ヒトクチ)〈周五尺八寸五分高二尺五寸五分〉蓋一枚」83ウ 〈周三尺五分〉料漆三升掃墨五合貲布(サヨミノヌノ)九尺綿(ワタ)一斤四両 絁布(アシギヌノ)各一尺二寸油二合功五人大半 按手(テ)湯(ユ)戸(ベ)は手水(テウヅ)の湯(ユ)をいるゝ器也貲(サヨ)布(ミ)と綿(ワタ) は漆を漉(コス)料(レウ)也絁(アシキヌ)と布(ヌノ)も漉料缺拭(ノゴフ)料なるべ し油は漆に加事也油二合の下に炭一斗など ありけんが脱たるなるべしこれ掃墨を用て 今の100カキアハセに塗(ヌリ)たる也掃墨は炭(スミ)を細末 せしにて上品を今軽目(カルメ)101といふ渋(シブ)墨(ズミ)に用るは いと〳〵下品なる炭(スミノ)粉(コ)也功五人大半とは手(テ) 間(マ)五人半也といふもあり小半は小半日也さ」84オ て此次に水(ミヅ)槽(フネ)手(タ)洗(ラヒ)槽(ブネ)大椀中椀盤窪坏(クボツキ)など掃 墨にて塗(ヌリ)たるよし見ゆいづれもカキアハセ 塗102なるべし今の蝋色は鉄漿を漆に和て塗物 にて別也 ○同式朱漆器の条に臺盤一面〈長八尺廣三尺三寸三分〉料漆一 一斗一升二合朱沙一斤四両帛四(ハクノテマ)尺綿(ワタ)三斤十二 両貲(サヨ)布(ミ)二丈調布(ツキノキヌ)六尺掃墨二升油二合小麦一升 青(アヲ)砥(ト)伊(イ)豫(ヨ)砥(ト)〈其數随レ用下条不レ名顕二顆数一者所准レ此〉炭一石長功卅八人 中功四十四人短功五十人云々 按朱漆にも掃墨を加て黒色(クロイロ)を帯(オビ)さしむるな」84ウ り今も唐物(カラモノ)に黒色(クロイロ)を帯(オビ)たる朱器おほし帛(ハクノキヌ)は 薄(ウスキ)繪也調布は民戸より輸(イタ)す布也帛錦貲布調 布なとは漆などを漉(コ)し或は塗(ヌリ)下地(シタヂ)なとにも 用しなるべし夌は未レ詳青砥伊豫砥は啄磨(トギミガキ)の 用也炭はあたゝめ乾(カワカ)す料也長功は長キ日の工(ク) 功(デマ)短功は短キ日の工功(クデマ)長短の中間を中功とい ふ四五六七月は長功二三八九月は中功十十一 十二正月は短功なるよし営繕令に見ゆ此次に 臺盤臺盤臺花盤飯椀羹椀擎子盞盤などの朱 器にも掃墨を加(クワヘ)て塗よしあり兵庫寮式に掃」85オ 墨に酒膠(ニカハ)を和せて塗(ヌル)ことも見ゆ ○同民部式下年料別貢雜物の条に播磨国掃墨二 石云々 按掃墨いづくよりも出(イダ)すべけれど別貢せし は播磨国也堤中納言物語續狂言記掃墨など の掃墨は女の黛に用る菰くろめの事をいへ りと見ゆ 右平戸城主壹州静山君有レ命而使者立二於松門一廼 倉卒考注而進上者也 第十二答二於畠山常操一書」85ウ ○御不快と承候處御快方奉賀候物 鷹に紅(モミ)葉(ヂ)生(フ)といふ事かやとの御問の旨承候 間一二ケ条記し入御覧候 ○定家卿鷹三百首附録に鷹部哥に〽時雨ゆく秋 の山ぢの紅(モミ)葉(ヂ)生(フ)の鷹もてそめてかへる狩人云 々 按群書類従本にはもてはまで缺としるして 候 ○曽我流鷹文字に紅(モ)葉(ミ)毛(チ)生(フ)紅(モミ)葉(ヂ)生(フ)定家卿哥〽しぐ れゆく秋の山ぢの紅葉生(モミチフ)の鳥(トリ)もきはめてかへ」86オ る狩人注に赤毛生(アカフ)をしかいふ按鳥は鷹の誤也 鷹もてそめてを鷹もき初てとすそしかるべき ○唐流鷹秘決第卅則に紅(モミ)葉(ヂ)生(フ)乱(ミタレ)生(フ)丸(マロ)生(フ)十(ト)所(トコロ)生(フ)な どいふ事あり不レ決云々 ○鷹名集に紅葉生(モミチフ)云々 これらの外いくらも所見おほかるべく候へど も実に惚怳中不レ能二捜索一唯一二説抄出いたし候 夫木抄藻塩草など其御方にて御見合可被成候定 家卿哥の古注に紅(モミ)葉(ヂ)生(フ)は赤毛生(アカフ)をいふよしあ れば然御心得候てよろしく候されど赤毛生(アカフ)赤(ア)」86ウ 生(フ)赤(アカ)白(シロ)生(フ)赤(アカ)黒(クロ)生(フ)なといふ名目も候へば御心得 可被成候定家卿鷹三百首は古書に候へどもこ れは前人の依託のものに候書餘来春拝顔可申 上候不備 第十三阿波殿御庭拝見記 阿波淡路のふたくにふさねしらすかうの殿は かち橋の大御舘に新き御殿つくりそへたまへ るかひろくまひろくいかめしくこかねに玉に かされる黒漆丹うるしぬれるうつくしき花鳥 のかたちをゑれるあらましき海山のさまをゑ」87オ かけるそのめてたさたふとさことはにもつくし かたく筆にもおよひかたしれうの本竹も石尾 もみなかのしりたまふ國よりもし舩手舩にと りつみ八重のしほちをはこひもてきたくみも ちぶはたかしこよりめされし民にて身もたな くすいそしみたれははつかなる月日のほとに かうしたゝかなる御殿をもつくり出たなりと そ〽もろ〳〵の直きをあくる雨なれはむへすみ なはもたゝしかりけり廣庭にえもいはぬ松を うゑられたるもとに立よりて〽しはしたに立」87ウ よる今日のうれしさや八千代さかえん松の下 かけおのれかゝるかしこき御あたりを見ま ゐらす事今御舘のつかうまつり人廣岡ぬしの 請ゆるされたなるにてもとよりの御殿の御庭 のさまをもいかてなといはれしを今日はさは りてかなはぬよしあつかりの人いへば力なし さて廣岡ぬしの家にてものたうへなとしたる ほと御庭にまゐるへきよしにておもと人門よ り出ておほせらるゝむねありかうの殿かねて より与清かあらはしゝきかし見そなはしつる」88オ に御心にかなひまた御史のをり〳〵からかへ たゝしつる書なとたいまつりしを御らんする こひたまひて人にもゆるしたまはさりし御つ ほのうち水車のさまなとをもみよとの御けし きありしよしをうけたまはるにまことにいやし き身にも文の峰わけはやとおもひ立るかひあ りてとかたしけなくもたふとくも袖さへせは き心ちせり木たくみのことうけたまはりおこな ふ七濱のなにかしたくみ出て水車をかまへひ きしところより水を二丈あまりあけて山より」88ウ 瀧をおとしたるはいにしへ今にためしなきわけ なりや〽いにしへもかゝるたくみはしら糸にま かひておつるたきの水かな池のおもにをしう かひゐたり〽是も又君かめくみのいとふかき いけるかひそとあそふをし鳥阿波の鳴門より とう出られしといへる立石あり〽そこふかき 鳴門の石もとり出てはこふやかみの力なるら んかしこき御たまひまひてこゝかしこみめく りまつりしは文政十年十二月の十三日也けり103 第十四つぼ〳〵」89オ 茶人千宗易がしそめたんなりとてつぼ〳〵とい ふ文(モン)を調度(テウド)の蒔繪(マキヱ)にもし障子(シャウジ)屏風壁(ビョウブカベ)天井(テンジヤウ)など 形(カタ)にも押(オシ)などして茶室(チャシツ)の物好(モノヅキ)といへりこは稲 荷山にて田(デン)寶(バウ)と名づけて賣(ウ)れる土器(ハニモノ)なり土(ツチ)を 圓(マロ)き壺(ツボ)の貌(サマ)に作りて干(ホシ)堅(カタ)めし物なるを買(カヒ)し人 家にもて帰(カヘリ)て三(サン)寶(バウ)荒神(クワウジン)に手(タ)向(ムケ)まつることゝす文 政六年の比104京都堺(サカヒ)町(マチ)御(ゴ)門(モン)の東六角殿の敷地(シキチ)の 内(ウチ)柳馬場より行あたる跡にて古(フル)き田寶を廿ば かりほり出たるに口の弘さ一寸餘にて布目あ り近き世の物とは見えざりしとなん按に田寶」89ウ はもと初午(ハツムマ)の福(フク)まゐりに稲荷山の土(ツヂ)を得て帰(カヘリ) ておのが田にまき散(チラ)し年(トシ)のよく登らんことを祈(イノ) るわざせしを軈てその土を壺にとりなし五穀 の種をいれて田に祭り田寶とは名おほせしな るべし105つぼ〴〵といふよしは新撰犬筑波集の 句にも〽もてあそびぬるるりのつぼ〳〵とも有 て壺(ツボ)を多く集(アツ)めて物の文(モン)にすればさよぶなん かし 右壺々考所奉阿州侯也 第十五櫻間池」90オ ○夫木抄〈雑五〉に題不知〈懐中阿波〉よみ人しらず〽鏡 とも見るべき物を春くればちりのみかゝるさ くらまの池106按懐中と注したるは古き書名に て西三条の懐中抄にはあらず櫻間の池は倭名 抄〈國郡部〉に阿波國名方(ナガタ)西郡櫻間〈佐久良萬〉あればその 郷の池也今は名(ミヤウ)東(ドウ)郡(コホリ)に隷(ツキ)て村(ムラ)の名となれるよ しは阿波國圖に見ゆ續日本紀〈廿八の巻〉神護景雲元 年三月の条に乙丑阿波國板野名方阿波等三郡 百姓言曰云々三代實録〈十三の巻〉貞觀八年十一月の 条に廿五日丙寅勅二阿波國名方郡一加置主政主帳」90ウ 各一人一云々倭名抄〈南海郡部〉に阿波國府(コフ)在二名東郡一本 是名方郡也今分為二東西二郡一云々名東名西云々 類聚三代格昌泰元年七月十七日大政官符に應下 省二名東郡主帳一員一置中名西郡上事右得二阿波國觧一稱(イハク) 名西二箇郡元為二一郡一之時置二件職一員一而依二大政 官去寛平八年九月五日符旨一分為両郡一七箇郷為二 名東郡一四箇郷元為二名西郡一而未レ置二此職一已違二令條一望 請官裁省(ハブキ)二彼一人一為二此郡員一者(テヘレバ)国加二覆覈(フクカク)一所レ申有レ 謹テ請二官裁一者大納言正三位兼行左近衛大将藤原 朝臣時平宣奉レ勅依レ請云々延喜民部式首書に寛」91オ 平八年九月五日分二名方郡一為二名東西郡一云々など あるをかうがへわたして名東名西分置の時代 を知べし因(チナミ)に云阿波國の名所の古く物に見え たるは粟(アハ)門(ド)〈神代紀上〉淡(アハノ)郡(コホリ)〈神功紀〉長邑(ナガムラ)〈允恭紀〉春(カス)日(ガ)部(ベノ)屯(ミヤ)倉(ケ) 〈安閑紀〉長国(ナガノクニ)〈国造本紀〉勝占〈神名式下〉井隈驛(ヰノクマノウマヤ)〈兵部式倭名抄〉那(ナ)縣(ガタノ)驛(ウマヤ)〈兵部 式和名抄〉桑(クハ)乃(ノ)御(ミ)厨(クリ)〈神鳳抄〉阿波乃山(アハノヤマ)〈万葉集六〉粟(アハ)小(コ)嶋(シマ)〈同集九〉こ つがみの浦〈後拾遺雑五〉中湖(ナカノミナト)〈風土記万葉仙覚抄四巻及五巻所引用〉奈汰(ナダ) 〈風土記仙覚抄五巻所引用〉勝間(カツマ)の井〈風土記仙覚抄十四巻所引〉阿波(アハ)の鳴(ナル) 門(ト)〈夫木抄雑五同十八〉里(サト)の海士(アマ)〈夫木抄夏二歌枕名寄卅四〉などにかあ らん」91ウ 右櫻間池考所レ奉二行阿淡両州大守君一也 第十六答於澤近嶺之問 ○後撰雜曰107よみ人しらす〽みちのくのをふちの駒 も野かふにはあれこそまされなつくものかは 蜻蛉日記〽われか猶をふちの駒のあれこそ108なつ くにつかぬ身ともしられぬ後拾遺雑二相模〽つ なたえてはなれはてにしみちのくのをふちの 駒を昨王109見しかな次郎百首兼昌〽きほひつるを ふちの駒のさきたちてかつみる人も悲しかり けり奥義抄中上巻〈六段〉に後撰に陸奥のをふちの」92オ 駒も云々是は駁にはあらす陸奥にをふちとい ふ所よりいてくる馬をいふ也云々又中下巻〈廿四〉 段110にをふちとはみちのくにゝある所也云々袖 中抄廿の巻に顕昭云みちのくにゝをふちとい ふ所の名きこえすたしかにたづぬへし云々八 雲御抄〈五の巻〉牧の部にをふちの牧陸奥云々藻塩 草亦同舊蹟遺聞三の巻に尾駁牧は北郡の東の 海邊に此牧の名残れり云々陸奥國圖に北部に ヲブチ沼あり以上の説に據れ地名ときこゆ されと延喜馬寮式に陸奥の牧の名なきは疑は」92ウ し (9行空白) 松屋外集巻之一終」93オ